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神谷孫兵衛

2012年11月20日
私には兄と弟がいる。兄は分からないところもあるが、弟は確実に、先祖のことなど無関心である。そうすると、私が黙ったままだと、こういう情報はやがて消えてしまう。親族以外には三文の値打もないことは分かっているが、幸いこのブログは長女も見てくれているので、ここに書いておけば、何かは残るだろう。ということでもう一つ。

神谷春治の父は神谷孫兵衛といった。この孫兵衛がローカルな芝居か何かに出てくるということを、私は小学校1年生の頃に聞かされた記憶がある。

今回春治について調べたついでに孫兵衛も検索してみた。するとこれまたちゃんとヒットするではないか。「水野家ルーツ探訪記」というブログで、水野氏のことを随分細かく調べてある。これによって、神谷孫兵衛は、水野藩の首席家老、水野三郎右衛門元宣の家臣であったことが分かった。石高は40石とある。やはり相当な小身である(同時代の、あのたそがれ清兵衛でさえ50石の設定だ。もっとも20石はお借上げだから、30石でやっていたことになる)。せめて百石取ってほしかったと子孫としては思うが、歴史的事実とあらば、昔からお金に縁のない家系だったとあきらめるしかない。

問題は彼が水野三郎右衛門の家臣だったことである。このことを知って、私は釈然とした。上に述べた芝居とはこの三郎右衛門を主人公にしたものに違いない。

山形市桜町の済世館病院の隣りに豊烈神社という神社があり、古式に則った打毬(和製のポロのようなもの)で知られている。その境内に三郎右衛門の銅像が立っている。説明書きには「山形を戦火から救った」ことが讃えられている。

幕末、水野藩は5万石という小藩の悲しさで、新政府と東北諸藩との間で揺れ動いた。何しろ南には上杉氏の米沢藩、西北の月山の向こうには酒井氏の庄内藩、東の奥羽山脈の向こうには伊達氏の仙台藩がある。中でも江戸の薩摩藩邸を焼討した庄内藩は、会津と並んで討伐の対象にされていたから、武器商人スネルから買い込んだスナイドル銃など最新式の武器で防備を固め、やる気十分だった。戊辰戦争で最後まで頑強に抵抗し、官軍を寄せ付けなかったのは庄内藩である。

結局、水野藩は、米沢藩が降伏した後、新政府に謝罪、恭順し、水野三郎右衛門が全責任を負って処刑されたのであった。刑は切腹ではなく斬首。さぞや無念だったと思われるが、ご本人は従容として死についたらしい。それではわが先祖の孫兵衛はどうなったか、というと、他家へお預けの身となった。

この神谷家にとっての一大事がその後どう展開したかは皆目わからない。水野三郎右衛門の死は、山形人の同情を集めていたはずだから、その旧家臣の孫兵衛も邪険には扱われなかったという気もするし、案外そうではなくて、一家で辛酸をなめたのかもしれない。ただ、その息子の春治は「高等官校長」になるだけあって、仙台に通ってちゃんとした教育を受けたらしい。母は「漢文の先生だった」と言っている。

春治に何人の子どもがあったかは分からない。祖父は末子だったが、兄や姉たちがみな山形を出ていってしまったので、否応なく家督を継いだ。姉の中には東京の医師に嫁いで皇族の乳母になった人があり、その際、憲兵(役人?)が実家に家系調査にやってきたことを祖父はよく覚えていた。

神谷家の墓は、山形市寺町の来迎寺にある。墓石には「神谷氏之墓」と刻んである。家ではなく氏としているのが武士の家の古い墓なのだ、というのが祖父の口癖だった。母が小学生だった時分には、試験の答案用紙に「身分」を書かせる欄があって、そこに「士族」と書けるのが、子ども心にもたいそう誇らしかったという。

ある大学教員の日常茶飯