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神谷春治

2012年11月15日
一昨日の夕方、地鳴りのような雷鳴が轟いて、窓のサッシをびりびり震わせた。次の瞬間、叩きつけるような豪雨が始まった。昨日は、朝からの風雨が、昼近くに風雪に変わった。今日は朝から時々雪というより雹が降っていたが、今は日がさしてきている。高地は天候の変化が急だ。御山にはすっかり慣れたつもりだが、やはり時々驚かされる。

さて、去年の8月に山形の実家に帰った折、母から一冊の本を渡された。

服部公一『ふるさと散歩 味な話 味なひと』(廣済堂出版)

母の祖父のことが書いてあるから見ろ、というのである。早速指定のページを開いてみると、「この第二の理由に女学校側も大いに困惑したらしく神谷春治初代校長御自ら陣頭に立ち、近郷近在の旦那衆を一軒一軒歴訪し、子女の女学校入学を説いて回ったというから(中略)おかしい話ではある」とある。さらに続きを読むと、「生徒募集の困難さにウンザリしていたこの高等官校長が、員数合わせのためならどんな田吾作の娘でもかまうものかと、来合わせた重助を口説き」、その結果、めでたく入学した重助の娘タキが、すなわち著者、服部公一氏の御祖母様と、こういうつながりであった。

ここに出てくる神谷春治(かみや・はるじ)こそ、母の祖父、つまり私の母方の曽祖父である。彼が初代校長を務めた女学校は山形市立女学校で、今の県立山形西高校に当たる。

音楽家でエッセイストでもある服部氏は、私の高校の大先輩である。春治については母から何となく聞いてはいたが、この本のお蔭で、そのイメージが少し具体的になった。

母の実家である神谷家は、もとは山形の水野藩に仕える武士であった。水野家は、殿様の水野忠邦が天保の改革に失敗した責任を取らされて、浜松から山形に左遷された。静岡の温暖な気候に慣れた先祖たちは、夏暑く冬寒い山形盆地の気候にさぞや苦しんだことだろう。武士といっても下級武士だったので、その暮らし向きは、いっそう厳しかったはずだ。

水野家が山形に転封されたのは1845年だから、明治維新までそんなに長くはかからなかった。母の実家は今はもうないが、もとは山形市霞町(もとの旅籠町、今の大手町)にあった。霞ヶ城の異名を持つ山形城の大手門からそんなに離れていない場所である。

以前、祖父から聞いた話では、祖父がまだ子供だった頃には、隣近所の古老たちは皆浜松弁をしゃべっていたという。そういえば、浜松近辺には神谷姓が多いと聞いている。では浜松の前はどうかというと、これが九州の唐津であると、これも祖父から聞いた。これは、水野忠邦が唐津から浜松に国替えしたからである。つまり神谷の方の先祖は、水野の殿様に付いて、唐津から浜松、浜松から山形と日本列島を北上したことになる。ではその前はというと、これはまったく分からない。だが、水野氏は家康の生母於大の方の実家であり、神谷姓は愛知・静岡に偏って多いことを考えると、わが遠祖ももとは三河辺りの出て、代々お殿様に着いてあちらこちら移り、最後に山形で明治を迎えたと、こういうことかもしれない。

さっき試しにインターネットで「神谷春治」を検索したら、国会図書館の近代デジタルライブラリに収められた『小学教員学力検定試験問題集』(明治22年)なるものがヒットした。神谷春治はその編纂者である。同姓同名もあるかと思って奥付を見たら、住所が山形旅籠町とある。これはまちがいない。

まあ、私も似たようなことをやっていると言えなくもないが、曽祖父が、山形の女子教育を通じて果たした社会貢献の方がはるかに勝っていることは間違いない。今度山形に帰る時にこの本をプリントして母に持っていってやろう。
ある大学教員の日常茶飯