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錦西小学校での講演会とA路さんのこと

2011年11月07日
ダライ・ラマ法王ご来訪の余韻はまだ続いている。昨日、北旅籠町の「ろおじ」でS賀さんに、「ダライ・ラマ法王の加持力のおかげで、肉体的にはともあれ、精神的には30年ほど若返った気分だ」と言ったら、びっくりしていた。

というわけで、昨日は堺市立錦西小学校で講演会があった。題して「河口慧海ヒマラヤを行く―堺出身のチベット探検僧の生涯―」

錦西小学校の源流をさかのぼると、県学第七区分校にゆきつく。この学校こそ明治5年に北旅籠町の樽屋のせがれ河口定治郎、のちの河口慧海が入学した学校なのだ。

宣伝が行き届いていたおかげで、堺市以外からも人が来ていた。一番前に小学生が座っていて、その後ろが保護者、その後ろが一般である。小学生たちは長時間辛抱強く聞いてくれて、とてもお利口だった。一般は定員200名を超えて立ち見の人が出た。

会場にはタイフーン・ハリケーン夫妻も来てくれたので、ついいたずら心を起こしてタイチョ―殿の紹介と相成った。

「今日はこの会場に大阪山の会のOさんが来てくれています。Oさんどこにいますか?小学生のみなさんは、登山家というものはあまり見たことがないでしょう。普通のおっちゃんに見えますが、この人が高さ何千メートルの山にひょいひょい登るのです。よく見ておいてください。あとで触ってもいいですよ」

私はこんな風に知り合いをだしつかうのが好きだ。ちなみに、Oさんとタイフーンとタ・タイチョ―は同一人物。

講演会が終わってから「ろおじ」に行って昼食を取り、その間にS賀さんに八百源の「肉桂(ニッキ)餅」を買って来てもらった。私は初めて知ったが、これは知る人ぞ知る堺の銘菓である。

それを持ってA路さん宅を訪ね、奥様にお会いして懇ろにお礼を述べた。前にも書いたがA路さん夫妻こそ私の学問の大恩人なのだが、それはつまりこういうことだ。

今から20年近く前のこと。高野山大学で印度学宗教学会の学術大会があった。その帰りに、ふと思い立って、慧海の故郷を訪ねてみる気になった。堺東で鈍行に乗り換えて浅香山で降り、地図を頼りに歩いていったと記憶する。北旅籠町まで行き、今考えれば、大道筋(旧紀州街道)で男の人にこうたずねた。

「昔、この町に河口慧海という人が住んでいたはずですが、だれか詳しい人はいませんか」

今考えると突拍子もないが、その人は、自分は知らないが、あそこの畳屋さんなら知っているかもしれない、と教えてくれた。そこで直ちにその畳屋さん、「大阪畳」を訪ねた。これがA路さんである。日曜日だったが、シャッターは開いていて、土間には今とまったく同じような感じに畳が積まれていた思う。出てきたご主人に、私は息せき切って「河口慧海さんのことをうかがいたいんですが」と言った。するとご主人、

「うちにはこのあたりの歴史について聞きに大学の先生などもよく訪ねて来るが、慧海さんのことを聞きに来たのは、あんたが初めてや」

こうして私はA路家に迎え入れられ、お昼などもご馳走になりながら、その日の夕方まで、いろいろな話を伺い、町内を案内もしてもらった。A路さんは畳屋を経営しながら、郷土の歴史を研究し、与謝野晶子などの顕彰にも力を尽くす篤学、篤志の方であった。
お話の多くは、慧海の、というよりは、堺の昔からの文化的・歴史的風土といったものであった。それがとてもよかった。私は、それまでにも『チベット旅行記』を読み、東北大学蔵の河口コレクションを調べもしていたが、慧海という人物については、今一つ分からないものを感じていた。それがこの堺の風土との関係で解けるのではないか、ともかく堺の歴史と風土について知ることはとても大切だ。こう思った、今思えば当然と思えることが、その時まではわかっていなかったのだ。

それからしばらくして、A路さんから手紙が来た。今度堺市博物館で「河口慧海展」がある、招待券が手に入ったので送るから見に来ないか、といった内容だったと思う。私は行くことに決めた。

今この展覧会の図録を見ると、自分の字で1994年10月10日と書いてある。その前日、私は宇治の黄檗山万福寺を見てから堺に行った。奥様が南海本線七道駅まで迎えに来て下さったと記憶する。そして私はA路家で大歓待を受けた。けれど、A路さんは、「本音を言わしてもらえば、まさか本当に来るとは思わなかった」ともおっしゃった。私だって、本当にまた来るとは思っていなかったのだから無理もない。ここに天の差配のようなものを感じる。この日はお宅に一泊させてもらい、翌日いっしょに展覧会を見学した。

その後、縁あって私は高野山大学に奉職し、3年後にはまた縁あって堺に移り住んだ。そうして、2004年には『評伝 河口慧海』を上梓することができた。北旅籠町を初めて訪ねてから、およそ10年後のことである。できたばかりのこの本を持参した時も、A路さん夫妻はとても喜んで下さった。このようにA路さんは常に私の背中を押してくださったのである。これはまったく無償の行為であり、学問というものへの応援であったと私は理解している。それを考えると、ただただ頭が下がるばかりである。

さて、A路家を辞して「ろおじ」に戻ると、タイフーン・ハリケーンは、町内の鉄砲鍛冶屋敷の見学にでかけていた。あとを追う。この鉄砲鍛冶屋敷、400年の歴史を誇る日本最古にして現存唯一の建物であるが、個人の住宅でもあるため年に1度しか公開されない。
江戸時代、「ななまち」周辺にはこうした鉄砲鍛冶屋敷が最盛期には31軒もあり、年間推定1万挺の鉄砲製造能力を誇っていた。泰平の世が到来して鉄砲の需要が減ると、今度はたばこの葉を切る煙草包丁の生産に乗り出し、幕府も「堺極」のブランド名を与えてこれを保護した。今や堺の包丁は全国のプロの料理人の8割が愛用し、日本食ブームに乗って海外にも広まっている一大ブランドだ。

それから「ろおじ」に荷物を預け、T村さんの案内で九間町の寺町に行った。まず万福寺を訪ねる。万福寺は初めて入ったが、本堂がずいぶん立派であった。そこには昔使われた駕籠が置いてある。門徒の家を回るのに住職はこの籠に乗ったのだという。堺の寺の格式の高さが知られる。

私にとっての万福寺は、慧海の親友だった河野学一のお寺である。学一は慧海の幼なじみで植物学者・教育者になった。

ついで超元(ちょうがん)寺を訪ねた。入り口で失礼しようとしたら、そこのお祖母さまが、上がれ上がれという。ついつい甘えて上がり込むと、今度はお祖父さまが抹茶を立てて、茶を飲め、菓子を食べろと勧めてくれる。ついでに親鸞聖人の絵伝や古い和綴じの本、阿満得聞師筆の梵字の南無阿弥陀仏などを拝見した。年寄りが明るく元気で、しかも同居の子や孫が多いというのは、見ていて気持ちのいいものだ。

そのあとタイフーン&ハリケーン、T村さんと別れて「ろおじ」に戻り、荷物を受け取って車で帰途についた。





ある大学教員の日常茶飯