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1日ボランティア

2011年08月08日
8月2日は午前5時に不動寺の本堂で目が覚める。前夜軽い余震があった。5時半から住職の朝の勤行に参加。朝食をいただいた後、8時に釜石駅に近い釜石市社会福祉協議会が運営するボラセン(ボランティアセンター)に出頭する。ここには他県の社会福祉協議会からも応援が来ていた。

名前・住所・運転免許の有無などを登録し、ボランティア保険に入っているかどうかをチェックされた後、名前が書かれたステッカーを渡される。これを服に貼り付けておいて、作業終了後に返すことで、ボランティアの無事帰還が確認される仕組みになっている。

ボラセン
*センターにはたいていのものがそろっていた。このボラセンに関する限り、作業用の服装さえしてゆけば、あとは作業の種類によって必要な装備を借りて、即現場に向かうことができる。仮設住宅などの引っ越しには重装備はむしろ邪魔で、靴も長靴でなく脱着しやすい運動靴かサンダル(つま先の部分が強化されたもの)の方がいい。一方、瓦礫の撤去には、ヘルメット、ゴーグル、マスク、手袋(皮革やゴムの)、そして鉄製のソールが入った長靴が欠かせない。

初心者のための説明を受けた後、石川県から来た中学校の先生と20年前に釜石に住んだことのある千葉県在住の若者とわれわれ二人でグループになり、午前中は、釜石北部で仮設住宅の物資の出し入れを2件こなした。

最初の1件は、ある仮設から別の仮設に援助物資を移動させる仕事。援助物資は家電6点セット(テレビ、冷蔵庫、洗濯機など)や布団などの生活用品である。「この間、テレビにちょっと傷がついていて、えらく怒られた」というので、テレビは毛布でくるんで抱いて車に乗る。2件目は、家電以外の物品を別の仮設に移す仕事であった。

この後一度ボラセンに戻って報告する。昼食は妙紀さんに紹介してもらった町中の食堂でとる。こういうのはもちろん自腹である。12時半に戻ると、今度は瓦礫の撤去の応援に行けという。また同じ4人組で現場に向かう。現場は商店街の一角にある2階建てのビルで、仕事は、1階のフロアーの瓦礫をシャベルを使って土嚢に詰める作業であった。

ここで瓦礫というものに初めて対峙する。土砂にモルタルや木材やガラスや鉄屑やビニールや、その他この町の人たちが使っていたほとんどあらゆるものが混じっている。CDや伝票らしきものや本のきれっぱしも出てくる。アルバムや印鑑が出てくる場合もあるので、そういう時には取りのけておいてくれと指示される。

妙紀さんの話では、津波とともに無数のチョウザメが上がり、それが腐乱して一時はすごい臭気だったという。そういうものにはお目にかかりたくないな、と思いながら作業を続けたが、幸い海の生物の遺体に遭遇することはなかった。

とにかくガラスで手足を傷つけないように細心の注意を払った。瓦礫を詰めた土嚢はかなりの重さである。汗が流れてゴーグルが曇る。こりゃ明日は腰痛だな、と思いながら作業を続ける。

作業は3時過ぎに一段落した。ボランティア活動は午後4時には仕事が終わっていなくても打ち切るルールになっている。先乗りしていたグループのリーダーが今日はここまで、というので、みんなであいさつしてボラセンに引き上げる。ここで石川と千葉の二人とはお別れ。半日一緒に働いただけなのに、なんだかとても親しくなったような気がした。

その後、ウィマラさんの車で沿岸道路を南下してみる。シーガリアマリンというホテルの大浴場で汗を流し、お寺に戻ったのは6時過ぎであった。

8月3日(木)不動寺のお二人に御礼を述べて、ウィマラさんに駅まで送ってもらい、7時40分の快速で釜石を後にした。実質たった一日のボランティアであったが、貴重な体験をさせてもらった。だいたい、学者というものは自分勝手であると相場が決まっている。純粋に他人のために何かをするなどということはほとんどないといってよい。でも、こういうこともまっとうな人生を歩むためには必要なのだ、きっと。

沿岸部には釜石より状況が悪いところがまだまだあるだろう。しかし釜石がさらにいろいろな人手を必要としていることも事実だ。不動寺とのご縁に従い、まずはここを拠点に活動させてもらうのがよい。高野山大学の震災ボランティアはこの後、第2波、第3波と続けらてゆく。

銀河鉄道
*銀河鉄道の始発駅のモデルとされる釜石線の土沢駅。

新花巻で時間を作り、花巻市立博物館に足を運ぶ。一通り展示を見てから、学芸員のT沢さんを呼び出してもらい挨拶する。この博物館には、かつて花巻の高徳寺にあった多田等観のコレクションが収蔵されている。その中の仏伝図タンカ・セットについては、以前、写真家の松本栄一さんと組んで、解説付きの復刻版を学研から豪華本として出版した。これは今も誇れる私の仕事の一つだ。今回の訪問はそれ以来で、博物館も初めてだった。

近くには宮沢賢治の記念館と童話村もあるのだが、実家の母が首を長くして待っていると思われたので、見学はまた今度ということにした。
ボランティアに来たはずが、遊んで帰るようであるが、ボランティア活動で汗を流したあとはみんな観光客になって東北地方にお金を落としてゆく、ということでよいのだ。
山折先生2
*博物館で見つけたポスター。恩師はますます健在であらせられるようだ。山折先生は花巻出身。

仙台からは仙山線に乗り換えて山形の実家に戻った。私の実家は馬見ヶ崎川の作った扇状地の上部にある。ここに引っ越したのは小学1年生の夏で、それから高校3年生まで暮らしたから、故郷と言ってもいいのだが、私にとっては、それまで暮らした旅籠町1丁目と、3年間通った慈光寺幼稚園とお世話になったM川さんのお宅があった北山形駅周辺の方がもっと懐かしい。いずれ時間を作って、その辺りを歩いてみたいと思っている。

魚や
*北山形駅に近い鉄道沿線の魚屋。この店は私が幼稚園児だった時にも確かにあった。

ところで、今回初めて知ったのであるが、7月に藤沢周平原作の「小川の辺」という映画が封切られている。おなじみ海坂(うなさか)藩もので、主演は東山紀之。海坂藩は庄内の酒井藩がモデルだが、今回は山形市でもロケが行われ、何と実家の近くにも撮影隊が来たという。それだけのことでも、ちょっと見てみたいと思うのが人情ではないか。ところが今上映している映画館は大阪・堺近辺ではほとんどないようだ。DVDを待つしかないのだろうか。

*海坂という藩名は、酒井(さかい)→かいさ→かいさか→海坂→うなさか、の順序で作られたと私は思っているのだが、どんなものだろうか。

そうそう、先日、「入野」は「丹生野」ではないか、と書いたが、やはりそうであった。『和歌山県の地名』(日本歴史地名大系31巻)に「入野又丹生野と書す、是を正字とす、是天野祝文に日高郡江川丹生とある丹生にしして、丹生は旧此辺の大名なり」との史料が引用されている。


高野山大学の力