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入野、道成寺

2011年07月18日
御坊の旅荘に着いたのは午後7時過ぎであった。宿のおかみさんに聞いて、R42沿いの居酒屋まで歩いてゆく。

翌朝8時半に宿を出て、かんかん照りの中、まず道成寺に行く。安珍と清姫の伝説であまりにも有名な寺である。ここの目当ては、なんといっても絵巻を用いた絵解きであるが、時間的にちょっと早かったので、参道の茶店で道を聞いて、まず入野(にゅうの)に行ってみることにする。

和歌山県日高郡日高川町の入野は南方熊楠の父弥兵衛の出身地である。入野の入は「にう」つまり丹生ではないかと私は思うのであるが、どんなものだろうか。この名から、高野山麓の天野(あまの)のような隠れ里を連想していたが、実際の入野は日高川沿いの細長い集落だった。前は日高川の堤防、後ろは低い山で、耕作地はそれほど広くない印象である。
入野村
*入野の風景

道沿いにお寺があるので寄ってみた。浄土宗栄林寺とある。住職は瞳の明るい人で、いきなり訪ねたにもかかわらず、気さくに対応してくれた。熊楠の名前を出すと、向畑家はあそこの青い屋根の隣り、親戚の古田家はこっちの蓮池の側と話が早い。

栄林寺は江戸時代に真言宗から浄土宗に転宗した寺らしく、本尊の阿弥陀如来立像は、寺伝によれば、高野山麓に安置されていたものを村人がもらってきたものだという。ここにも高野山とのつながりがある。

padma.jpg
*入野の蓮池

南方弥兵衛はこの村の庄屋向畑庄兵衛の二男に生まれ、13歳の時から御坊村で丁稚奉公をした。後に和歌山城下に出て、南方家の入り婿になり、努力と才覚によって一代で富を築いた。

熊楠は、土宜法龍宛の明治26年12月16日付の手紙の中に次のように書いている。

「吾等父の生れし入野村といへる寒邑に一夏おくりしことあり。其処の人来りて色々の農事をはなす。小生も植物学又化学など知れる故、稲虫ありと聞ば、盥に水入れ灯を泛べて之を駆り、麦に黒奴つきたりと聞ては、早速之を焼失せしむるなど、又其村の辺は昔は畠山の領分なりしが、秀吉に亡ぼされしことなどとききかせ、浄瑠璃の舎あれば、往て今語りし『鎌倉三代記』の「時まつたいらの時政」とあるは、「松平の」とつづけてかたるが口伝也、これは頼家と時政の名を仮りて、実は秀頼と家康のことを作りし也、昔は世の中がかやうに不自由にて、言いたきことも表向は言れぬ世なりし、今は有難き事に非ずやなど、語り聞す」(奥山・雲藤・神田編『高山寺蔵 南方熊楠書翰』藤原書店、2010年、77ページ)

これはおそらく明治19年の記憶である。

入野を後にし、道成寺に向かう。

土産物屋
*道成寺門前の土産物屋。名物つりがねまんじゅうの中にはあんちんならぬあんこが入っている。

鐘巻
*鐘巻之跡。大蛇に変身した清姫が安珍を鐘ごと焼き殺したスポット。女性は怖や、怖や・・・

本堂の国宝の千手観音などを拝んだ後、小野俊成師による絵解き説法を聞いた。参拝者を適当にいじりながら進める説法はおもしろく、さすが「お経を読むより、絵解きをする方が多い」というだけのことはあった。聴衆が少なかったので反応も控えめだったが、団体が入った時にはもっと盛り上がるに違いない。同じセリフでも間の取り方によって、おもしろくもなれば、つまらなくもなることがよく分かる。落語をはじめとする日本の伝統話芸の多くはお寺に発祥した、ということが実感された。

女子サッカーのワールドカップで日本チームが優勝。一日中気分がよかった。
研究ノート