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木になりたまえ

2011年06月06日
あゆみ

南方熊楠顕彰館から「あゆみ 南方熊楠賞の20年と顕彰事業の足跡」が送られてきた。

去年も似たことを書いたように思うが、どんな学者でも、もらえるものならもらいたい、と思うのが南方熊楠賞だ。これはその20年の歩みの記録である。

この賞が、熊楠を敬愛する大勢の人々によって育てられてきたことがよく分かる。

さっそく第1回「人文の部」受賞者、バーバラ・ルーシュさんの記念講演録を読み、その中にとても感動的な一節を見つけた。以下にそれを引用しよう。この時、ルーシュさんは、学問への行きづまりと、近親者の死が重なって、何をする気力もなくしていた。精神的な危機である。そんな11月末のある日、ふと熊野への旅行を思い立ち、奈良の東大寺前から熊野行きのバスに乗る。30年ほど前に私も五条駅前から乗った十津川経由の路線である。


(熊野本宮に)ついたのは、朝7時前後だったと思います。その日は雨上がりのもやのかかった日でありました。神社を仰ぐ階段のところに着きました時には、もうだれ一人まわりには見あたりませんでした。曇り空の下、木で覆われた、まだ雨で湿った階段を私は一段ずつ登りはじめました。その時です。ある事が起ったのです。突然パチパチという一連の音にはっと立ちつくしました。誰かが私めがけて小石を投げたのかしらと思い、まわりを見回しましたが、誰も見あたりません。石なんて、誰が、どうして、投げたのでしょう。色々思いをめぐらしてみましたが、思い当たることもなく、また階段を登りはじめました。と、もう、十段もすれば大社にたどりつくというところで、さらさらと風が吹いて、私の目の前の階段目がけて、また、何か「もの」が当たりました。そうしてやっとわかったのです。先程のパチパチという音は、私めがけて小石が投げられたのではなく、風に吹かれ、樫の木からどんぐりの実が落ちてきて、石の階段にあたったせいだったのです。
 その時です。決して忘れようのないでき事を私は体験しました。突風を感じた時のように私の中で日本語で「木になりたまえ」という声を聞いたのです。
 その時の驚きはどんぐりの実で驚いた時などと比べようもないものです。かつて聞いた事のない魂の声は私の身体をつつみ込みました。その声は耳から聞こえたというものではなく、心の奥深くから聞こえてきました。その声は男性的な声で命じるような厳しい響きがありました。この声を聞くやいなや、いままで重くひしがれていた私の心は突然、軽くなり、本宮大社の御神木が私の心を洗い潔めて下さったような心境になりました。


ルーシュさんは、どんぐりの実を一つハンカチに包んで持ち帰った。いまも木箱にしまって枕元に置いているという。



そういえば、去年熊楠賞を受賞された山折哲雄先生は、揮毫を求められて、色紙に、

「わだば粘菌になる」

と書いていた。棟方志功の「わだばゴッホになる」のもじりである。「木になりたまえ」とはまた随分違った心境だが、山折先生が、これからも粘菌のように、ねばり強く活躍されることはまちがいない。

研究ノート