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樅ノ木は残った

2011年04月20日
ある雑誌に、(震災後の)今だから読むべき本の特集があって、ある作家が山本周五郎の『樅ノ木は残った』を挙げていた。大好きな小説である。つられて就寝前に寝床でまた読み始めた。若い頃には腑に落ちなかった点がよく理解できるような気がする。

この小説は「伊達騒動」として知られる仙台藩の内紛を扱ったもので、主人公の原田甲斐は、歌舞伎では仁木弾正なる悪役に見立てられているが、この小説では、伊達家分割をたくらむ伊達兵部やその背後にいる酒井雅楽頭の策謀から我が身を犠牲にして藩を守る人物として描かれている。

以前、仙台市博で寛文事件についての講演を聴いた。その時は、周五郎の解釈はやはりちょっと無理があると思った。まあ、小説の世界と史実とは自ずから別ということである。

私がこの小説を初めて読んだのは高校生の時で、すでにNHKの大河ドラマを見た後である。だから原田甲斐は平幹二朗、伊達兵部は佐藤慶のイメージから逃れられなかった。しかし、大分時間が経った今では、原田甲斐は原田甲斐で、他の誰でもない。

NHKのドラマは、最初に原作にはない甲斐の青春編を10回以上付け足している。山番の娘おたよ(栗原小巻)が登場するのはこの部分で、甲斐との仲を引き裂かれて精神のバランスを崩した彼女が握り箸で飯をかき込むようなシーンが話題を呼んだと記憶する。しかし当時から、立派な原作があるのに、なぜこういうものが必要なのかという批判もあった。私も原作通り、ずばりと切り出した方がよかったと今でも思う。

物語のクライマックスは、酒井雅楽頭の屋敷で開かれた評定の最中に、甲斐、伊達安芸を初めとする伊達家の重臣4人が、雅楽頭の放った刺客によって斬殺されるシーンである。これは小説でもテレビドラマでもすさまじい迫力であるが、いずれにおいても甲斐は女の名前らしきものを呼んで絶命することになっている。

父は、これは「おたよ」と言ったのだと解釈した。私は、おたよは原作には出ないことを知っていたので、そんなはずはない、「うの」(吉永小百合)と言ったのだと主張した。つまらない争いであったが、原作で確認すれば、やはり「うの」以外ではないと思われる。ただ、大河の一年分をNHKの創作部分も含めて一つの作品と見るならば、「おたよ」でも構わなかったと今になって思う。
ただおたよが「くびじろ」という大鹿の角にかけられて死んだことにしたのは明らかに失敗であった。というのも、甲斐が執拗にくびじろを追う理由がおたよの敵討ちのようになってしまったからである。その結果、「追う者と追われる者との間に、平等の条件ということはない」という重要な言葉の意味も曖昧になってしまった。

甲斐は、大きな困難を孤独の中で堪え忍んでいる人間である。しかし、それは武士だから、あるいは伊達家の重臣だからそうしているというわけではない。およそ人が生きるということはそういうことではないか、というのが作者のメッセージであろう。他人からはえへらえへらしているようにしか見えないかもしれないが、実は私もそう感じながら生きている。







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