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法龍も筆まめ

2008年08月18日
 ロンドンからパリへの移動には8時間を要したと、土宜法龍は書いている。1893年のことである。手紙なら、出す時間帯にもよるだろうが、集配の時間も含めて1日半はかからなかっただろう。
 そんな条件の下で、熊楠と法龍の手紙のやりとりは行なわれた。

 手紙が来る。おそろしいほどの長文だ。それを読む。熊楠の字が独特の癖字であることはよく知られている(私なんぞ、結局これが読めなさに熊楠関西をドロップアウトするはめになった)。しかし、法龍だって負けてはいない。なにしろ熊楠が、こんな字は読めない、とねをあげたくらいだから。
 
 どうにか読んだら次は返事だ。これが、何でそんなに一生懸命なの、と聞きたくなるような熱心さで書く。時には何日もかけて書く。そして書き終えたら、昼でも夜でも出してしまう。
 しばらく休んでいると、また手紙が来る。また読み、また書く。また出す。
 最盛期には、二人とも手紙を読み書きする以外、何もできなかったのではないだろうか。これって、ほとんど手紙による果たしあいです。
 
 熊楠は名うての手紙魔だった。
 しかし、これで法龍が、私のような筆不精で、忙しさにかこつけて返事をしないか、適当にあしらうようなそぶりを見せたならば、二人の往復書簡は、こんなけた外れのものにはならなかっただろう。
 ところが、そこは天の配剤。法龍も、「猊下ほどよく手紙を書かれた人は稀であらふ」と側近が舌を巻くほど、晩年までよく手紙を書くヤツだったのである。

 そんな人間だから舌もよく回った。珍談で宿の女給(このことばも古い)を抱腹絶倒させることなどお手のもの。若い頃は、これに酒が加わり、「乱酔」することもしばしばだったらしい(この辺りは、私も親しみが持てます)。

 熊楠にあった頃には、もう飲まなくなっていたから、二人が熊楠行きつけのパブで鯨飲することはなかった。ちょっと、惜しいことをした気もする。
 

208_convert_20080818211452.jpg 洛西栂尾山高山寺にある法龍のお墓
研究ノート