05月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫07月

カタルワ・ランウェルレー寺

2011年04月12日
3月17日(水)
昨夜は7時半に町に出て、大衆食堂でごく簡単に夕食を済ませた。その間に強い雨が降った。部屋に戻ってテレビで「ロード・オブ・ザ・リングⅡ」を途中から見る。だが最後の洪水のシーンは正視に耐えなかった。

チェックアウトして、最初に向かったのは、ゴールのパラマーナンダ寺である。この寺はブラットガマ・ダンマーランカーラ・スマナティッサの寺である。スマナティッサは当時のスリランカ仏教界ではとても有名な比丘で、シャム王ラーマ五世の帰依も受けていた。パラマーナンダ寺
*パラマーナンダ寺のホール。黒光りする柱はジャックフルーツの丸太が使われている。

ジャックフルーツの実
*こちらはジャックフルーツの実。

彼が赤松連城と面談したことが日本とスリランカの仏教界の交流のきっかけの一つであったことは、前に述べた。興然がゴールに着いたその日、スマナティッサがワラウワに会いにやってきて、何も知らない彼に三帰依文を教えてくれた。これが彼にとってパーリ語の最初のレッスンとなった。
  ブッダン・サラナン・ガッチャーミ (私は仏に帰依します)
  ダンマン・サラナン・ガッチャーミ (私は法に帰依します)
  サンガン・サラナン・ガッチャーミ (私は僧〈修行者の集団〉に帰依します)

パラマーナンダ寺を出た私たちはカタルワに向かった。カタルワはゴールから10マイルほど離れており、コッガラという湖の畔にある。

ワラウワで一月余り過ごした釈興然は、グネラトネの配慮によって、カタルワ村のランウェルレー寺に預けられた。そこを取り仕切っていたのは、スマナティッサの弟子コーダーゴダ・パンニャーセーカラである。興然は、いずれはコロンボのヴィドヨーダヤ・ピリウェナに入ってヒッカドゥウェ・スマンガラの弟子になる予定であった。グネラトネが興然をパンニャーセーカラに預けたのは、まだ万事に不慣れな興然に自分の目の届く範囲内で基礎教育を受けさせるためであった。

ランウェルレー
*ランウェルレー寺の仏殿。右奥に隣の寺のダーガバ(仏塔)が見える。こんなにお寺同士が隣接しているのは珍しいことだが…

興然は、シンハラ語はもとより英語も話すことができないため、グネラトネは興然とのコミュニケーションにひどく難渋していたのである。しかし興然の折り目正しい態度はグネラトネを大いに感心させていた。彼は、日本への手紙の中に、興然のひととなりについては「大満足」であると書いている。それは何よりも興然の生真面目で飾らない人柄のたまものであったが、もう一つには、興然が、師匠の雲照から、上座部の地であるスリランカで、日本の大乗の僧侶とはあんなものかと後ろ指を指されないようにくれぐれも注意せよと厳命を受けていたからである。

やがて興然は、沙弥(しゃみ=見習い僧)となって、グナラタナの名を与えられ、以後コーゼン・グナラタナと名乗るようになる。グナラタナはパーリ語でグネラトネと同じ意味である。興然にこの名を与えることを発案したのはグネラトネ自身で、その理由は、興然を愛し、興然の日本の保護者たちに敬意を表するためであった。このような幸福な人間関係の中で、コーゼンは修行を続けることができたのである。

翌年4月、釈宗演が興然の開拓したルートをたどってゴールにやってきてグネラトネに迎えられ、ランウェルレー寺で興然と同居しはじめた。まもなく彼も上座部で得度しなおして沙弥になり、パンニャーセーカラからパンニャーケートゥの名を与えられた。ソーエン・パンニャーケートゥの誕生であった。

こういう訳で、カタルワのランウェルレー寺は興然・宗演の住んだ日本人にゆかりの深い寺なのである。ところが、何度か呼んで、やっと顔を出したお坊さんは、このことには知識も関心もないらしく、よく分からないの一点張り。この件に詳しかった先代の住職はすでに亡くなっていることを後で知った。取り付く島もなく、中を一回りして、仏殿で仏さんを拝んだあとは、退散するしかなかった。ゴールでは好調だったのに…まあ、こういうこともあるさ。
フィールドワークの記録