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グネラトネのワラウワ

2011年04月10日
レディーヒルからの眺め
*早朝、レディーヒル・ホテルの上階から眺めたゴール湾方面。ここから見るとゴールは町全体が椰子の木で覆われているように感じられる。
レディーヒルからの眺め2
*ゴール港方面。

3月16日(火)
ゴールでの一番の目的は、エドマンド・ロウランド・グネラトネというシンハラ人の邸宅を探すことである。この人物が重要なのは、彼が明治のスリランカ留学生たちの受け入れ先となってくれたからである。

グネラトネはゴールのアタパットゥムダリを務めていた。県の副知事といった格である(知事はイギリス人)。同時に彼は、パーリ学者で、イギリスの学者リス・デヴィッズの盟友であり、リス・デヴィッズが創始したパーリ聖典協会のセイロンにおける名誉幹事を務めていた。

グネラトネは仏教の復興に熱心で、アジアの新興国家日本に期待するところがあり、留学生たちをまるで本当の家族のように遇してくれた。そもそも日本仏教各宗派の留学生がスリランカに行くきっかけとなったのは、グネラトネが日本に手紙を送って留学生の受入を表明したことである。明治19年に渡島した日本最初のスリランカ留学生である真言宗の釈興然(しゃく・こうぜん)は、グネラトネの行き届いた世話を受けた。そのことが、興然の後に続く人たちに道を開いた。彼は明治の日本仏教の大恩人といってよい。

だがそのことは今はもうきれいさっぱり忘れ去られている。こういう人の事績を発掘、顕彰することも学者の大切な仕事の一つだと思う。

と言うわけで、この日の午前中に探し当てたのが写真のワラウワである。ワラウワとは、植民地時代に建てられた現地人の大邸宅のことである。長い間、釈興然や釈宗演を始めとする留学生たちの残した記録から想像するだけだったグネラトネの屋敷が目の前に現れた時には、やはり感動した。
前楼
*グネラトネのワラウワの前庭と前楼。興然が初めて訪れた頃、この庭には孔雀が放し飼いにされていた。
灯ともし頃の前楼
*灯ともし頃の前楼。
前楼から延びる廊下
*斜め後ろから見た前楼。右手に母屋に続く回廊が延びている。
母屋
*母屋。建物はこの奥にずっと続いている。最後は裏庭で沐浴場もある。

興然たちの報告によれば、邸内には、シンバリ・アワセと呼ばれる小寺があって、グネラトネは、そこをカタルワ村のランウェルレー寺の長老コーダーゴダ・パンニャーセーカラの夏安居の場所に提供していた。興然も宗演も、そして彼らに続いてスリランカに留学した善連法彦(よしつら・ほうげん)や東温譲(ひがし・おんじょう)や川上貞信(かわかみ・ていしん)もシンバリ・アワセの客になっている。

シンバリはパーリ語でキワタ、アワセはシンハラ語で小寺、庵を意味する。シンバリ・アワセの名は、この庵の傍らにシンバリの大木が5,6本生えていたことに因んでいる。

シンバリ・アワセは母屋からは少し離れた丘の中腹にあった。シンバリはどの樹かと聞くと、シンバリがあったのは百年前で、今はもうない、との答え。ここのお坊さんが面白い人で、私たちを大歓迎してくれた。彼によれば、ここには日本人がたくさん来た、とのこと。文献資料ではなく、言い伝えで知っているようだ。
シンバリ・アワセ
*シンバリ・アワセ

ココナツ
*ナンダセーナさんが椰子の実を切っている。勧められるままに、ココナツジュースを飲み、実の内側の固まった胚乳を食べる。どうしてどうして、おつなものである。ついでにバナナなどもいただく。

私はこの寺にお布施をすることにした。ナンダセーナさんに聞くと、日本と同じでお札はそのまま手渡さない方がいい、とのことなので、紙に包んだ。普段はケチな私だが、よく日本の若い修行者たちを面倒見て下さった、という感謝の気持ちで5000ルピー包んだ。もっともナンダセーナさんによれば、お布施は気持ちが大事で、額は問題ではない。日本でも、建前はそうなんだけどね…。

昼食を取るためにいったん町に出、その後昨日見られなかったフォートの国立博物館と海洋考古学博物館を見学し、4時過ぎに再びワラウワに戻った。午前中は留守だったオーナーが帰ってくるという話を聞いていたからである。

そのオーナーである産科医のドクター・ジャーナカは、突然訪ねたも同然の私たちを暖かく迎えてくれた。それから2時間以上に渡って、さまざまな話をしてくれた上、ワラウワの中を案内してくれた。
フィールドワークの記録