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ニャーナ師きたる

2011年04月06日
3月14日(月)
9時半、ロビーで待っていると、パナンウェラ・ニャーナーランカーラ師がきてくれた。ニャーナさんは明日日本に戻る。忙しい準備のさなかにわざわざきてくれたのだ。さっそくスケジュールを相談する。
私は当初、鉄道でコロンボからゴールに行こうと考えていた。ゴールでは2泊する予定でホテルに予約を入れてある。しかしその後マータラ方面での2泊はまだ予約がない。この話を聞いて、ニャーナさんはこう言った。
「列車はただ行くだけだよ。途中でいろいろ見るんだったら、弟のナンダセーナに車で連れて行ってもらう方がいい。彼だったら普通にタクシーを雇うよりずっと安くしてくれるから。ゴールの後は、アハンガマの私の寺に泊まることもできる。よかったら今夜電話しておくよ。お寺だからホテルのようには行き届かないけどね」

渡りに舟とはこのことである。こうして私は10年前と同様、観光ガイド業を営むナンダセーナさんの世話になることになった。スリランカでこの兄弟に回収されれば、もう絶対安心である。

ナンダセーナさんの運転する自動車でまずは銀行に行き、日本円をスリランカルピーに両替する。お、日本円は暴落していないどころか、少し上がった気配だ。続いて郵便局に行く。私の目的は、京都のTプリント宛にEMS(国際スピード郵便)を出すことだ。国内線の機内で校正して成田空港で投函しようと目論んでいたゲラをそのままスリランカまで持ってきてしまったために、この始末である。校正は昨夜ようやく済ませた。
ニャーナ師はいつも以上に大量の紅茶やカレーの材料を日本に送る手続きをした。その心は、

「おいしいカレーをたくさん作って、温かいセイロン紅茶といっしょに被災地の人々に届けてあげたい」

何とありがたい志であろう。そう言えば、新任の駐日スリランカ大使は、日本に住む自国民に、あくまで日本に留まって日本人を助けよと指示したとか。さっさと日本脱出を勧告した某国とはえらい違いである。スリランカから届けられた義捐金8000万円は、所得と物価の違いを考慮すれば、大変な金額である。その気持ちが嬉しいではないか。断っておくが、これは見返りを求めての行為ではない。2004年の大津波の時に真っ先に駆けつけ、一番助けてくれたのが日本だったから、その恩返しをしたいとの思いから出たものだ。

続いて向かったのは、コロンボ市内のマリガカンダにあるヴィドヨーダヤ・ピリウェナである。ヴィドヨーダヤは知の上昇を、ピリウェナは仏教学校を意味する。ヴィドヨーダヤ・ピリウェナは、コロンボの篤信の仏教徒たちによって1873年に創立された。初代校長のヒッカドゥウェ・スマンガラ師は、スリランカの改革派の比丘たちを代表する人物で、その存在は日本仏教界でもよく知られていた。
vidyodaya.jpg
*緑陰の深い校内。町の真ん中にあるが修行と勉学の場に相応しい静謐が保たれている。

椰子1

かつてここには多くの日本人が勉学修行に来た。今度の旅で私が追いかけようとしているのは、明治時代、仏教の神髄を究めたい一心でこの熱帯の島にやってきた日本の仏教青年たちの足跡だ。

スマンガラの銅像
*ヒッカドゥウェ・スマンガラの銅像。自分が育てた学校を100年後の今日も見守っている。

スマンガラの部屋
*スマンガラ校長が使っていた部屋は記念展示室に改装中だった。

二人の比丘
*ニャーナ師(左)と現校長のソービタ師。

僧院の食事1
*ここで何と昼食まで頂いてしまう。質素だがおいしかった。鰹のフィッシュカレーだ。僧院では、僧院長も校長も、使った食器は自分で洗うのがマナー。

ヴィドヨーダヤ・ピリウェナを出た私たちは、コロンボ北部のコタヘーナ地区にあるもう一つの僧院を訪問した。それからコロンボを南下し、郊外の仏教書を多く置いてある書店に行く。二人とはここでいったんお別れ。一人になった私は時間をかけて本を大量に買い込み、トゥクトゥクでホテルに戻った。前に書いたように、トゥクトゥクのドライバーは外国人には扱いにくい。そこであらかじめ書店の近所で客待ちをしているトゥクトゥクを呼んでもらい、ニャーナさんに話を付けてもらった。ホテルまで500ルピーという言質を取った上で、おもむろに私が出ていって、客はこの日本人だと告げるやり方。私一人であれば2000くらい要求されてもおかしくない距離であった。

ちなみにトゥクトゥクはインドにもあるが、私は積極的には勧めない。今言ったような面倒臭さの他に、横倒しになる危険や、車にぶつけられたらひとたまりもないもろさがあるからだ。タクシーがあれば、多少高くても、タクシーに乗った方がよい。







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