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翠紅館(すいこうかん)

2010年11月13日
京都は秋の観光で賑わっているらしい。

今年は特に龍馬と幕末にゆかりの地が人気という。東山の翠紅館もその一つだが、わざわざ訪ねてゆく人がどれだけいるかは分らない。

かつて翠紅館は西本願寺の別邸で、幕末には倒幕派の志士たちが密かに会合に使っていた。今は高級懐石料理店になっているのでお客以外は入れないが、何年か前に門前まで見に行った。その理由は幕末でも龍馬でもなく、河口慧海にある。

明治36年5月に第一回チベット旅行から帰国すると、彼はたちまち新聞界の寵児となった。今であればテレビ局をはしごして回るようなものである。彼は初めのうちはどの新聞にもしゃべっていたが、まもなく、大阪毎日新聞と東京の時事新報の独占となる。そして両新聞の長期連載のための口述筆記の場所に選ばれたのが、翠紅館であった。

最初私は、「東山の某氏の別荘」としか分らず、八坂神社裏の長楽館でコーヒーを飲みながら、この辺かなあ、などと考えていた。翠紅館を教えてくださったのは、確か、高山龍三先生だったと思う。
口述中の彼を取材したアメリカの旅行作家エライザ・シドモアの書いたものの中にその屋敷の名がSui ko kanとあって、これが分るのである。

シドモアが慧海へのインタビューをまとめた「ラサからの最新情報」は翌年1月の『センチュリー・マガジン』を飾り、慧海の壮挙が世界に知られるきっかけとなった。
この記事には、シドモアに同行したと思われる外人カメラマンによって撮られた慧海のポートレートが付いている。チベット服を着込んだ、背景を影にしたバタ臭い写真だ。2007年に私たちが『河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』(講談社学術文庫)を出すときに、この写真が慧海のものとしては珍しいので口絵に使うことにした。

日記の所蔵者であるM田さん(慧海の姪)にゲラをお持ちした時のことであったか、この写真を一目見てM田さんはこう言われた。
「これは慧海じゃありません。父の半瑞です」
「エーッ!!!」
M田さんに言わせれば、慧海の弟半瑞(はんずい)は時々慧海が持ち帰ったチベット服を着て見せることがあったとか。その場をどう言いつくろってM田邸を辞したかは覚えていない。

私は今も、これは慧海だと確信しているが、このミステリーはまだ完全には解けていない。
研究ノート