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真如の墓―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年04月03日
真如について触れたついでに、明治仏教界に起こった真如の墓探しブームについて一言しよう。

当時、北沢正誠(松代出身の官僚・学者)が真如が没したとされる羅越国をラオスに同定する説を唱えたことが刺激となって、日本仏教界、特に真言宗関係者の間に真如、つまり高丘親王の終焉の地を探索しようという機運が盛り上がったのであった。

真如は当時でも千年以上前の人物であり、どこかに墓があるという保証もなかったが、言い伝えぐらいあるだろうという乗りである。

海外で行方不明になった皇族というのは珍しい。それに彼は弘法大師の高弟だった。ほおっておいては日本の恥だという感覚に加えて、墓探しが日本の国威発揚にも役立つという思いが働いたと思われる。

実際、法龍に先駆けてインドを旅行した妻沼歓喜院の稲村英隆も、努力目標の中に真如の墓探しを入れていた。茂木大秀という若い僧侶を伴った稲村の旅行は、陸地にいるよりも船旅の方が長いという急ぎ旅だった。彼はカルカッタで情報を集めたが、そこからラオスを目指すのは無茶であることに気付いて結局あきらめている。

ちなみに稲村は法龍との縁が深い。法龍は若い頃、稲村の寺の副住職をしていたことがあるようだ。また後に稲村は京都の槇尾山西明寺の住職となった。法龍が住職になった栂尾山高山寺の隣の寺である。法龍が熊楠宛てに書いた手紙の中にも稲村は登場する。

羅越国は、その後、ラオスではなく、マレー半島南端のシンガポール付近にあったという桑原隲三の説がほぼ定説となって今日に至っている。稲村一行は行きも帰りもシンガポールに立ち寄ったから、実は知らない間に真如終焉の地の近くまで行っていたのである。

渋澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』は、真如の旅をモチーフにした幻想文学の傑作である。甘美で怖ろしい夢物語。
研究ノート