10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

倭国の僧金剛三昧―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年04月02日
倭国の僧金剛三昧(こんごうさんまい)は、普通の日中交流史には名前のあがらない人物である。
何しろ彼は、唐代の段成式(9世紀)の百科事典的書物『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』にしか現れない謎の日本人なのだ。

段は直接彼から話を聞いている。おもしろいのは、金剛三昧が中国から北インドのナーランダー寺まで行って、再び中国に戻ったとされる点である。事実とすれば、彼はインド仏蹟を巡礼した最初の日本人ということになろう。

『酉陽雑俎』は熊楠の長年の愛読書である。そのため彼は金剛三昧に若いころから興味を持っていた。法龍との往復書簡の中でも彼のことが話題に上っている。うんと噛み砕いて述べると二人の間に次のような意見交換があった。

熊楠「金剛三昧とは弘法大師か、または大師の弟子の一人じゃなかろうか」
法龍「弘法大師じゃないね。大師は中国に足掛け三年しかおられなかったから、とても天竺までは行けないさ。ひょっとすると金剛三昧とは真如親王じゃないかな」
熊楠「そりゃないぜ。真如は天竺に行く途中で虎に喰われた。中国に帰って段成式に話ができるはずがないじゃないか」
法龍「それも風聞だ。まあ、金剛三昧=真如親王は無理かもしれないが、この問題、調べてみる価値はありそうだ」

真如とは高丘(岳)親王のことである。親王は平城天皇の第三皇子で、嵯峨天皇の即位に伴って皇太子に冊立されたが、藤原薬子の乱の影響で廃太子となり、出家して、やがて弘法大師の弟子となった。64歳で入唐して長安で修学し、さらに天竺目指して広州から船出するが、途中、羅越国で没したとされる。熊楠が言うように、虎に喰われたという伝説がある。

金剛三昧については、高楠順次郎が、内供奉安然の父法道ではないかという説を立てている。だが彼の実像は今だに明らかではない。
ちなみに、高楠は明治23年にイギリスに留学し、オックスフォード大学で5年ほどマックス・ミュラーらの指導を受けた。そのうち約3年間は熊楠のロンドン滞在と重なっている。彼は、前に触れた在英日本人会の表誠醵金の明細表にも名前を残しており、熊楠とも面識くらいはあったと考えてよい。

研究ノート