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和尚をおだてて1ポンド?―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月25日
1894年7月に日清戦争がはじまった。熊楠も戦争報道には一喜一憂していたようで、同年9月2日付の法龍への手紙(『高山寺蔵 南方熊楠書翰』20番)には、一応、「戦争は全く吾邦の捷利の様相聞え、甚欣び居申候」と書いているが、これに続けて、イギリスでの報道には虚報が多く、戦闘の結果を逆に伝えるものさえあることを報告している。

9月26日、在英日本人会(会頭・中井芳楠)による祝勝会が開かれ、あわせて表誠醵金が行なわれた。お国の戦を助けるための募金活動である。ちょうど平壌(ピョンヤン)の戦いと黄海海戦が日本の勝利に終わったばかりの時であった。

熊楠もなけなしの1ポンドを寄付している。実は、彼の兄が日清戦争勃発の影響による株価の暴落で大損害を被り、「一族大迷惑」(同21番)という事態に立ちいたっていた。

同年10月13日の熊楠の日記には、醵金の明細表が書き写されている。それによれば寄付者は78名、寄付金は199ポンド7シリング、日本円にして1805円43銭というから、かなりまとまった額である。

ところが、この寄付について、熊楠は後にいわゆる「ロンドン私記」の中で、中井芳楠を「逆賊」と呼んで次のように糾弾している。
「(中井は)日清の戦争は自分一人でする様な大言を吐き、此貧乏な和尚(熊楠の自称)をおだてて大枚一ポンド率先して恤兵部へ出させ、(中略)吾れ吾れが汗水で貯へた金三千円斗り、為替にして腎虚大臣陸奥宗光え贈り、無論為替料は着服し、扨政府より送り来りし銀盃は、本人住所不明などいふてごまかし、林権介と内謀して、つぶしにしてシチーの猶太人に売り、其金で蕎麦二膳づつ食ひしこと、予たしかに之を知れり」(長谷川興蔵・武内善信校訂『南方熊楠 珍事評論』平凡社、pp.174-5)

この文書、全体としては実におもしろいのだが、中にはこういう冗談ではすまされない内容も含まれている。あまつさえ、熊楠はこの文書を回覧用に書いたから、中井もこれを読んだ可能性が高い。中井は熊楠と同じ和歌山城下の出身で、ロンドンに来た熊楠を何くれとなく世話してくれた大恩人である。人間関係における、熊楠の手に負えない面を感じさせる一件である。
 
研究ノート