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望月と「耶蘇坊主」の論争―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月26日
望月小太郎(1865-1927)は衆議院議員などを務めた政治家である。出身は甲斐の身延で、慶応義塾を経てイギリスに留学し、ロンドン大学で経済史を、法学院ミドルテンプルで法律学を学んだ。

法龍の日記によると、彼は1893年11月2日に法龍の宿(ブラウン方)を訪ねて、法龍や居合わせた熊楠と仏教を論じている。熊楠ともある程度親しかったと見られる。

その望月が「耶蘇坊主」と論争した。熊楠は、その2週間ばかり後の1894年5月13日にこのことを聞き、2日後に法龍宛の書翰(『高山寺蔵 南方熊楠書翰』17番)に書いている。

それによれば、以前東京の英国公使館付きアーチディーコン(archdeacon)を務めていた某が、日本学会で、日本は近時おいおい悪くなり、政治も宗教も何もかも退歩したので、欧州各国が連合してこれを救ってやるべきだ、という主旨の演説をした。望月はこれに腹を立てて反論し、押し問答を繰り返して、会場が騒然となったという。

これについて熊楠は次のようにコメントしている。

「日本の政治がどうならうがかうならうが、宗教が何であらうが、欧州人に世話を受くべきに非ず。然るを名義ただ日本に付ての学問を研究するとして立たる学会に出で、かかることを日本人の面前にいひ、又数百の洋人にも聴しむるとはあまりのことに候はずや。小生は当時望月氏一人のみ議論をしかけて、他の諸日本人が何もいはずにつくねんとして居りしといふを聞て頗る懊悩致し候。(中略)小生は望月氏の志をかなしみ、他の日本人の学者として当地に居り、其夜出席したる輩を犬の如きものと見下げ候。(尤も小生は右の会に一向関係なければ、幸ひに当夜出席してつかみ合ひなどやることなかりしは一同に取ての大幸といふべし)」

もしも熊楠がこの会に出ていたらどうなったかの詮索はさておき、こういうことは昔からたくさんあったし、今もあるように思う。こういう場面に行きあたった時に、日本の立場をちゃんと説明できる位の見識と語学力は持っておくべきだと、わが身を振り返って思う。

ドイツ留学中の森鴎外が、ナウマンの日本批判演説に腹を立てて決闘を申し込もうとした話(どの程度事実なのかは知らないが)を連想させる出来事である。
研究ノート