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能海寛の経典収集

2020年05月18日
5月18日(月)
今年は能海寛(のうみ・ゆたか)研究会発足25周年の記念の年で、7月には記念式典とシンポジウム、記念の論文集の出版が予定されていた。記念式典とシンポジウムはコロナ禍で中止と相成ったが、論文集の方は順調に進んでいるらしく、私にも原稿を出すようお達しが来た。その締め切りが20日なので、昨日も休日を返上して大学に出た。

科研とのかかわりで、私の興味は、能海が四川省西部、横断山脈山中のダルツェンド(康定)で、どうやって経典を収集したか、にあるが、一昨日ふと思った。要は金ではないか。
もっとも、彼の旅行資金は決して潤沢ではなかった。重慶からガイドに雇った游顕甫という漢人が、峨眉山に登ってよほど疲れたのか、二人いるポーターのひとりと一緒に、もうこれ以上はご一緒できませんと申し出たのを渡りに船とばかりに、険路をゆくのに邪魔な荷物を持たせて重慶に帰らせてしまったのも、要は旅費が心配だったかららしい。

しかし、肝心なところでは彼はケチらなかった。パタン(巴塘)まで同行した寺本婉雅(てらもと・えんが)が重慶に戻ると聞いて、大急ぎで経典を買い集めた。寺本に託して日本に送るためである。外国人が大枚はたいて経典を買い集めているという噂は、あっという間に広がったに違いない。ダルツェンド周辺どころか、カムのあちこちに噂が飛んで、遠くから経典を売りに来る人間もあったのではないかと想像される。日本人と同様、チベット人もお金の誘惑には弱いのである。

こうして集めた経典は結構な大荷物になった。それを寺本は、文句も言わずに(いや、多少は言ったかもしれないが)、日本まで運び、京都の南條文雄先生に無事手渡してくれたのであった。寺本というと、壮士然としたところがあまり好きになれずにいたが、このエピソードを知って見直す気になった。他人のためにどれだけ働けるかで、その人の価値は決まるのだ。

ところで、上に述べた峨眉県から送った荷物であるが、それには能海が成都で買った仏像などとともに、赤い房のついた中国帽や二足の草鞋も含まれていた。それらは、時間はかかったが能海の故郷の波佐村に届けられて、今は古いたたら場を利用して作られた浜田市金城町歴史民俗資料館で見ることができる。
能海自身は、雲南の茶馬古道を北上してチベットに入る途中、麗江の先で行方不明になってしまうのだが、彼が中国の奥地から送った品々は結構ちゃんと届いていて、この意欲溢れる青年僧の面影を120年後の今に伝えている。
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