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ボンベイの大石誠之助

2018年10月09日

10月9日

一昨日の夜、眠れないまま、書棚から『現代詩の解釈と鑑賞事典』という本を取り出し、あてずっぽうに頁を開いたら、与謝野鉄幹の「誠之助の死」が出てきた。「大石誠之助は死にました、いい気味な、機械に挟まれて死にました」で始まる反語で綴られた抗議の詩である。翌日、夜明け前に眼が醒めて何気なくラジオを点けると、深夜番組がまだ続いていて、何と、大石の話をしている。こういうのをシンクロニシティと言う。大石は大逆事件で刑死した新宮の医師で、文化学院を創設した西村伊作はその甥に当たる。


ラジオの話は大石のボンベイ(ムンバイ)留学に及び、彼が社会主義に目覚めたのはそこでカースト制の実態を目の当たりにしたからという説明があった。が、これには少々引っかかった。10年以上前に読んだ森長英三郎の『禄亭 大石誠之助』では、折柄のボーア戦争に帝国主義の正体を見た思いがあって、社会主義関係の本を読み始めたと説明されていたはずである。ボンベイはインドの西の玄関口でアフリカにもさほど遠くない。MKガンディーの事蹟を引くまでもなく、南アフリカにはインドからの移民も多かった。ボンベイにいてアフリカの戦争を肌で感じるのはありうることである。しかし、あとでネットを見ると、ラジオと同じ説明が多い。この辺りをどう考えるべきかは、専門家に教えてもらいたい。


私が大石に興味を持つのは、やはり彼が1900年にボンベイに渡ってボンベイ大学で伝染病の研究をしたという特異な経歴のためである。この夏、ムンバイに行くに当たって、ムンバイ大学が見たいとリクエストしたのも実は大石が念頭にあってのことである。ただ時間の都合で大学は外から見ただけに終わった。

大石のインド滞在は病気のために一年と続かなかったが、その頃のボンベイには間島與喜がいたし、大宮孝潤もしばしばカルカッタから保養に来ていたはずだ。彼らと大石の接点はなかったのだろうか、いや、ない方がむしろ不自然だ、と、ここまで考えて、ふと予感がして、以前I曽根さんから提供してもらった間島関係の写真資料を見直して見る気になった。

すると……あれ、これひょっとして、というのが出てきたのである。ボンベイ在住の日本人たちの集合写真に写っているひとりの男。裏書きには「明治三十三年五月十日□□□奉祝」云々とある。年代は合っている。この奉祝は日付から見てのちの大正天皇のご成婚祝いである。大石にはよく知られた写真が2枚ほどある。それらとモニター上で見比べてみる。似ているといえば似ているような。しかし、別人といえば別人かもしれない。


このトピックは今のところここまでである。新宮の佐藤春夫記念館では今企画展「大石誠之助とはどんな人」が開かれている。今年1月に大石は新宮市の名誉市民に選ばれた。その記念の展示らしい。同じ県内でも新宮は遠いが、誰か詳しい人がいるかもしれないので、機を見て行ってみることにする。


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