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バンダルカル東洋学研究所、長谷部隆諦師のこと

2018年08月18日

初めて訪れたプネーは緑に包まれた高原の学園都市であった。プネー大学は、昔からインド学系の日本人留学生が少なくない。確かに、ここならば暮らせるという感じである。着いた日の夜は、Association of Friends of JapanのKさん、Sさんと日本料理店で会食した。二人とも日本語が達者だ。

翌8月8日の午前中はプネーの名所見学。パタレーシュワラ寺院、「土曜宮殿」を見学した後、私の希望で、バンダルカル東洋学研究所(Bhandarkar Oriental Research Institute)を訪問した。この研究所の名は学生時代から知っていた。この分野でバンダルカル・オリエンタル・シリーズを知らない者はいない。

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*門構えに特徴のある研究所の正面入口


突然の訪問でバフルカル所長は不在だったが、それなりに歓待され、写本室などを見せてもらった。所長とは電話で話をしたが、何と去年高野山に来てM先生に会ったという。縁の糸はどう張り巡らされているか分からない。


大正から昭和初期にかけて高野山大学で梵語を教授した真言僧長谷部隆諦は、この町で死んだ。長谷部は明治43年に河口慧海を頼ってインドに留学し、ベナレスの「菩提樹軒」やダージリンの「ラッサ・ビラ」で3年間、慧海と共同生活をした。2度目のインド留学を果たしたのは昭和2年、留学先はプネー(当時の名称はプーナ)であった。

私は、長谷部がプネーを二度目の留学先に選んだのは、バンダルカル東洋学研究所があったからだと思っている。というのも、最初の留学地であるベナレスで、慧海と共に長谷部が梵語を習ったパタンカルが、この研究所の創始者であるラームクリシュナ・ゴーパール・バンダルカルの弟子だったからである。おそらくはパタンカルの紹介もあって、彼はこの町にやってきた。そして、著名なサンスクリティスト、バンダルカルに就いて梵語力をブラッシュアップすると共に、『理趣経』の英訳に励んだのである。

1年後、彼は仏跡巡拝に出て、その帰路、風邪から肺炎を引き起こし、プネーの国立病院で急逝した。享年50。墓は、長谷部が一時住職を務めた京都の神護寺にある。


この日の3時にムンバイでの行事を控えていた私たちは早々に研究所を後にした。長谷部に関する引き続いての調査は、Sさん、Kさんにお願いしてある。



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