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河口慧海の手紙ー肥下徳十郎宛

2018年03月10日

3月10日(土)

河口慧海著作選集を出し続けている慧文社から、『河口慧海著述拾遺 補遺』が出版された。これに私は、高山龍三先生と共に編者として名を連ねている。慧海関係文献の収集は高山先生のライフワークであり、この出版もその成果のひとつである。「拾遺の補遺」というのにまず驚くが、つまりは落ち穂拾いをしても、なお拾うものがあるということで、最近の高山先生の発表を見ても、今なお続々発見があるようだ。

私がその共編者になったのは、ひとえに肥下徳十郎(ひげ・とくじゅうろう)に関係する慧海の書簡と弔文あわせて15点が収載されていることによる。これらは、すでに四年前に『堺研究』36号に発表したものであるが、この度、高山先生からお誘いを受けたのを機に必要な修正を施すことができた。ただし、本書収載の他の論考に合わせて注は省いた。「解説」でそれを補おうとしたのだが、わかりにくさは残ってしまったようだ。


肥下家は、慧海の生家がある堺北旅籠町の大道筋(旧紀州街道)に店舗と住宅を構える素封家で、徳十郎(幼名駒次郎)は、東瓜破(うりわり)村の全田家から来た養子であった。徳十郎と慧海(定治郎)が出会ったのは、共に数え年15歳の時のことである。二人の若者の間に芽生えた友情は、1915年に徳十郎が没するまで35年間続くことになる。18年にわたる慧海の「チベット旅行時代」、徳十郎は、堺・大阪の後援者グループの中心的存在として、地元堺から物心両面で慧海を支え続けた。15点は、二人の関係を考える上では、これ以上ないほどの貴重資料である。「慧海さんはチベット旅行の費用をどう工面したのだろうか」こう思う人には是非読んでもらいたい。

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