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佐々木健一著『辞書になった男―ケンボ―先生と山田先生―』(文藝春秋社)

2014年05月07日
10日ほど前、この本を携えて家に帰ると、映画「舟を編む」が録画してあったので、縁を感じて早速視た。視てからまた続きを読んだ。「舟を編む」は現代における1つのパラダイスを描いたものである。この忙しい時代に10数年かけて1冊の辞書を編む、しかもそれで給料がもらえるなんて、これ以上の幸せは滅多にない。

『辞書になった男』の方は、三省堂の国語辞典の編纂を巡る見坊豪紀と山田忠雄という二人の優れた辞典編纂者の人間ドラマを綿密な取材によって掘り起こしたものである。

三省堂の『新明解国語辞典』の語釈と用例にユニークなものがあることは、赤瀬川原平氏の『新解さんの謎』(文藝春秋社、1996年)の出版をきっかけに広く知られるようになったが、その前から『新明解』は日本でも指折りのよく売れる国語辞典だったし、語釈のユニークさでも際立っていたのである。

今から30年以上前、国文学者のH先生に意見を伺ったところ、先生は即座に、あの辞書には「芋辞書」など語釈や用例におかしいものがある、別の辞書を使いたまえ、とおっしゃった。
確かに、私も、例えば「時点」の用例は変だと思う。「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」
その「一月九日」が山田先生個人にとって(そしてケンボー先生にとっても)重大な意味を持つ日であった、というのが著者の結論なのであるが、もしもその通りなら、やはりそれはやり過ぎというものである。

ただ、私は、語釈に踏み込んだ意味や裏のニュアンスを記してゆくこと自体はいいことだと思っている。そういう微妙な点に、おおげさに言えば、学識のすべてを掛けるのが学者の醍醐味というものだ。H先生の忠告にもかからわず、私が『新明解』を使い続けてきた理由は多分そこにある。

しかし、『新明解』も版を重ねるごとに「普通の辞書」に近づいているようである。私の手元にあるのは第三版だが、これには「芋辞書」は載っていない。「恋愛」の語釈には、すっかり有名になった「出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら」という説明が健在だが、先日、泉ヶ丘の紀伊國屋書店まで行って確認したところ、最新版では別の表現に置き換えられていた。

ちなみに、芋辞書とは、『新明解』初版によれば、「大学院の学生などに下請けさせ、先行書の切り貼りででっちあげた、ちゃちな辞書」である(『辞書になった男』p.178)

やはり、凄い。

読書ノート