05月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫07月

王羲之の日

2013年07月18日
日曜日の午前中、いつもの通り、家の近くの喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら週刊誌を読んだ。『サンデー毎日』に連載中のなかにし礼氏のコラムが南方熊楠を取り上げている。熱度がとても高い。その中で、おっ、と思ったのが、熊楠が、寅年生まれの男女に於菟という名をつける典拠を『春秋左氏伝』の中に指摘しているということである(「十二支考」の「寅に関する史話と伝説、民俗」)。なかにし氏は、おかげで「雪之丞変化」で知られる作家三上於菟吉の於菟が寅年生まれにちなんでいることが分かったということを書いている。

これを読んで釈然とするものがあった。森鴎外は自分の子どもに西洋由来の名前を付けたことで知られる。於菟、茉莉、杏奴、不律、類である。そのなかで、於菟はドイツ語のOttoを写したものに違いなかろうが、それにしてもなぜこの漢字なのだろうか、とかねがね疑問に思っていた。早速スマホで森於菟の生年を調べると1890年(明治23年)の寅年である。於菟はOttoと虎(寅)の両方に掛けた名であったのだろう。

さて、中国の旅の続きである。6月29日の午前中はもちろんいろいろな発表があり、その中には張保勝先生の発表のような是非聞きたいものもあったのだが、司会が当たっている武先生だけを残して、日本人はマイクロバスで見学に行くという計画があったので、これに従うことにした。

行く先は南方の嵊州(じょうしゅう)市にある王羲之(おうぎし)の墓である。王羲之(4世紀)が書聖と崇められる大文化人であることは改めて言うまでもない。その王羲之の赴任地が会稽郡であり、蘭亭序で知られる蘭亭も紹興にある。終の棲家もこの地方だった。

王羲之の墓は嵊州市郊外の草深い山間にあった。

その敷地内に静先生の詩碑が立っている。静先生が書いた碑はあちこちにあるが、これは王羲之の墓所に建てられたものだけに格別の意味を持っている。紹興(昔の越州)は、弘法大師空海が帰国を前に4ヶ月ほど滞在した地でもある。つまり、中国の書聖と日本の書聖の両方にゆかりがある。それを謳ったのがこの詩とのことだった。

その後、近くの村にある王羲之を祖とする王氏の宗祠(祖廟)に参詣した。なかなか味わいのある場所だった。

IMG_9816_convert_20130717140010.jpg
*宗祠のある村の一景。急速な「発展」とはあまり縁のない村の生活を垣間見る思いがした。

それから紹興にとって返し、明心書院で昼食を取った。この書院の由来は聞き漏らしたが、建物はモダンで、内部には密教図像が飾られている。今日は四時半からここで最後のセッションが行われ、その後が閉幕式だ。それにはまだ時間があるので、われわれは蘭亭に向かった。王羲之ゆかりの書道の聖地である。今日は王羲之の日だ。

IMG_9906_convert_20130717154826.jpg
*蘭亭内では、王羲之も楽しんだ曲水の宴が再現される。まあ、観光客用の出し物ということで。

閉幕式の後、懇親会となった。龍華寺はお寺だから酒肉は御法度である。この書院が最後の会場に選ばれた理由の一つはこれだろう。最後はやはりカンペイ、カンペイで締めくくらねば。

それにしても今回の学術大会は、中国側の強い意欲が表れた盛大なものであった。国内外から60人以上の学者が集まっている。そのうち何人が招待なのかは分からないが、相当な費用が掛かっていることは事実だ。
中国における密教研究の柱は、唐代の密教(唐密)の研究であり、それは唐代文化の復興という国家的な目標に叶っている。しかし、長い歴史の中でいくたびも文化の破壊を経験してきた中国では、時に法門寺地下宮殿のような大発見はあるものの、密教関係の史料はどうしても限られる。その点、1200年以上の伝統を保持している日本への期待は大きいと感じられる。

フィールドワークの記録