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京都往復

2020年09月30日
9月30日(水)
昨日、久しぶりに京都に行った。12時半頃に現場近くに着き、堀川通の食堂に入ってオムライスを食べたら、これがなかなかの美味であった。約束の1時半から3時間にわたって貴重資料を閲覧させてもらった。先方のご配慮で、まったく気がねすることなく、自由に見ることができたことが何よりありがたかった。高野山に戻ったのは、夜の8時半。11時間かけて高野山と京都を往来したことになる。おかげで大分疲れたが、まる一日勉強のために使うことができて、気分はすがすがしかった。
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バベル 猟銃縁起

2020年09月27日
「ラスト・サムライ」を見た人は、最後のバトルで日本軍の指揮を執っていた将校のことを覚えているだろう。彼は、サムライたちの奮戦に感じて「撃ち方止め」を命じ、「オオムラ」に怒鳴られても、命令を撤回しない。これを演じた二階堂智が「バベル」でも印象的な演技をしている。

「BABEL(バベル)」(アレハンドロ・イニャリトゥ監督、2006)は、モロッコ、カリフォルニアーティファナ、東京という互いに離れた場所で起こった3つの出来事を並行的に追ったもので、これらが実は直接間接に関係し合っていることが明らかにされてゆく。タイトルのバベルはもちろん旧約聖書の故事に因んでいるが、むしろ、仏教の縁起観に似たものを感じさせる内容になっている。

モロッコの荒野。ある男が知り合いの羊飼いに猟銃を売る。その家の兄弟が猟銃を持って羊の番をする。そのうちに競争心から崖の下を通る車を的に撃ち始める。遠くから子どもが撃つのである。当たるはずがない、と思いきや、弟が観光バスめがけて撃った弾が、窓ガラスを突き抜け、夫と旅行中のアメリカ人女性の首筋に命中する。女性は重傷で生死の境をさまよう。その頃、夫婦のカリフォルニアの家では、不法移民のメキシコ人女性のベビーシッターが二人の子供の面倒を見ている。しかし、雇い主が予定通りに帰ってこないので、自分の息子の結婚式に出るために、仕方なく二人を連れてティファナに行く。その帰りにひょんなことから警察に追われて荒野に迷い込む。モロッコでは兄弟が警察に追い詰められ、抵抗したため兄が撃たれて死ぬ。警察が銃を調べ、その番号から、それが日本人のものであったことが分かり、日本の警察に連絡が入る。それを受けて、刑事がその人物が住むタワーマンションに調べにくる。その家には娘がいて…

今回のクリップは、二階堂演じる刑事が、マンションからの帰りに居酒屋に寄って一杯やるシーンである。刑事はマンションでの出来事に圧倒されている。彼は娘から渡されたメモを読む。メモは一枚の紙にびっしり書いてある。しかしそこに何と書いてあるかは、映画を見ている側には明らかにされない。その店のつけっぱなしのテレビに、モロッコで負傷した女性が退院したニュースが流れる(事件は世界的な話題になっていた)。こうしてひとつの筋が回収される訳だが、映画はそれ以上刑事を追おうとはせず、マンションのバルコニーでの父と娘の抱擁をもって終わる。刑事のこの思わせぶりなシーンは何のためにあるんだ、と思う人もいるだろう。しかし、私にはよく分る気がする。

因果の連鎖には、始まりもなければ終わりもない。このシーンはそうした縁起的関係が果てしなく続いてゆくことを暗示するものだと思われる。

なお、この映画に提供された坂本龍一の「美貌の青空」とグスターボ・サンタオラヤの「Endless Flight」が限りなく哀しく美しい。


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牡鹿鳴く

2020年09月22日
9月22日(火)
夜明け前に鹿の鳴き声を聞いた。時計を見ると4時半だった。秋は確実に深まっている。
このブログを検索したら、2016年9月19日の記事にやはり鹿の声を聞いたとある。秋分の日の一日、今日はちょっとお勉強した。
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例のしめきり

2020年09月21日
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*9月20日午後6時、泉ヶ丘。

19日(土)
午後から遠隔と対面を併用した保護者懇談会が開催された。私は直接の係ではなかったが、週末までに処理すべき事務が残っていたこともあって終日待機していた。そのため帰りが遅くなり、6時から予定されていたあるZoom会議への参加を落としてしまった。
20日(日)
このところ休日も外出しないので、すっかり運動不足に陥っている。夕方、散歩をかねて、泉ヶ丘の紀伊国屋書店に行き、本を3冊買った。ある事で、11月末日しめきりの原稿提出を迫られているためである。この件は降りたいとも思っているが、結局、出さざるをえないようである。

買った本のひとつは、平川新著『戦国日本と大航海時代』(中公新書)。これは、羽田正著『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫)と合わせて読むと視野が広がってちょうどよいようだ。
この『東インド会社とアジアの海』はいい知識を与えてくれる本である。例えば、大航海時代にヨーロッパの人々は何のためにあれほど香辛料を求めたのか。中学生の時に、食肉の保存と味付けのためと習ったような気がするが、まったくピンと来なかった。香辛料と言われても、胡椒と唐辛子ぐらいしか知らなかったから、香辛料漬けにされた肉の味など想像もできなかった訳である。塩でいいじゃないか。ところがこの本には、当時ヨーロッパでは、シナモンもナツメグもクローブも、実は医薬品として珍重されており、こういうものを使った料理はいわば薬膳であったとの説が紹介されている。なるほど、ふん、ふん。ちょっとした目から鱗である。
もう一つ、ヴァスコ・ダ・ガマなどと聞けば、何となく偉い人物のように思いがちだが、彼らがインド洋にきてやったことは、海賊よりも質の悪い蛮行であった。異教徒はまともな人間とは考えず、略奪したあげく、船ごと焼き殺して平気だったのである。そういう連中が日本へもやって来たわけで、日本のどこも植民地にされなかったのは実に幸いなことであった。その経緯については、『戦国日本と大航海時代』を読まなければならないようだ。



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ラストサムライ 畏敬

2020年09月16日
前にデリーのワールドブッディスト・センターに泊まった折のこと。同宿のスイス人(?)と朝食を食べていて、たまたま話題が「ラスト・サムライ」に及んだ時、私は言った。
「あれには一種の時代錯誤があって、19世紀の後半にサムライがあんな格好で登場する訳がない。映画のモデルとなった内戦(西南戦争)では、両軍ともガンを使ったのだ。もちろん刀も振るったけれど」
すると彼、たちまちつまらなそうな顔になった。日本のサムライにプラスのイメージを持っている外国人には彼らが期待する通りの答を与えてやりたいが、自分でも信じていないことを言う訳にもゆかない。

この映画のムービークリップもネット上にたくさん落ちている。その中で、「fear and respect」の副題を付けらたものがある。これが今日のシーンだ。

明治初頭の東京の繁華街(遠くの丘の上にどういう訳か江戸城のようなものが見えている)、江戸時代と西洋の影響を受けた新時代の風俗がごった煮のようになった中に、サムライたちが馬で乗りこんでくる。叫び声が上がり、群衆が右往左往し、ほどなく両側によけて、サムライたちに道を開ける。そこを悠々と、実に悠々とサムライたちが馬を進める。と、こんな具合であるが、問題は、物見高い外国人は除いて、群衆のほとんどがうつむいて沈黙してしまう点である。

コメントを見ていると、多くの外国人が、このシーンに感動して、さすが名誉に生きるサムライだ、それに比べて一般大衆は、伝統を忘れて西洋の猿真似に走っているから、自分が恥ずかしくてサムライが正視できないのだろう、などとコメントしている。Hans Zimmerの音楽の効果もあってか、私も、このシーンには妙な感動を覚えるのだが、同時に、このシーンを思いついた人は、日本に関するどんな情報に基づいたのか、と興味をそそられる。

日本人が「万歳」と叫ぶようになったのは明治21年の憲法発布かららしく、その前は、貴人の行列などに接した時には、わきに避けて、できるだけ静粛にしているのが礼儀だったらしい。しかし、このシーンのようであったかどうかは、私は分からない。多分相当違うと思うが、知らないのでこれ以上は言えない。ただ、レッテル貼りはお互い様だと思うだけだ。

しかし、このシーンに関しては声を大にして言いたいことがある。サムライたちの格好がひどく汗臭く埃っぽく、態度も横柄なことだ。中には楊枝をくわえた無作法者までいる始末である。これじゃ、江戸っ子に、田舎者とバカにされるのが落ちである。

ミカドのいます都へ晴れて入城するのである。前の宿場で風呂にでも入ってさっぱりし、髭と月代を剃り、髷を直し、裃姿で粛々と来るのが本当ではないか。もしもそうであったら、外国の人たちにどんな印象を与えただろうか。まったく、惜しいことをしたものである。

もちろん、これも演出の内で、アメリカ人の監督がそうなるようにしたわけである。しかし、折角のおもしろいシーンである。どうせならもう一歩踏み込んでもらいたかった。

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能海寛研究会Zoom学習会

2020年09月13日
昨12日午後8時より、能海寛研究会の定例学習会がZoomで開催された。番が当たっていたので、「チベットのお経について」と題して40分ほど話をした。従来波佐のときわ会館で開かれてきた定例学習会には、距離的な問題で、一度も参加したことがなかった。コロナ禍への苦肉の対応から生まれた思わぬ副産物である。各種協議も含めて90分で終わる予定が2時間近くになったのは、外出自粛で、みんなこういう話をすることに飢えていたからのようだ。

次回11月14日は、リアルで行い、そのあと「研究会創立25周年記念祝賀会」も開くことが決定されたが、これには参加できるかどうかまだわからない。
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ことばのムービークリップ シン・レッド・ライン2

2020年09月12日
たまたま出会った「お前」を彼の戦友を殺した米兵だと決めつけるのは不自然でもあるが、これは「(悪魔のように憎み恐れてきた)敵の正体はお前のような人間だったのか」という意味だと理解できるだろう。この日本兵は、ウィットという「毛色の変わった」米兵の鏡である。であれば、彼もまた「毛色の変わった」日本兵であろう。私は、昔、高校の教科書で読んだ大岡昇平の「俘虜記」の一節を思い出した。

字幕がないのは監督の意思であり狙いでもあるから、ないのが本当だ。しかし、この字幕付きクリップへのコメントには、(見当はずれのものもあるが)興味深いものが多い。いくつか紹介しよう。

「このシーンの正確な翻訳を約20年待っていた。日本語が分からないからね。とうとういいやつをアップロードしてくれて感謝している。おかげで、魂が安らいだ」
「この兵士は、制服が違うだけで、まるでウィットの影だ」
「マリックがわざと日本語を訳さないので、日本語を話さない私たちは(ウィット同様)ウィットが直ぐにでも殺されてしまうと考えるだろう。この訳はその逆であることを示している。誤解しているのは私たち(そしてウィット)の方で、そのために彼/私たちはかけがえのない代償を支払うのだ。私たちは、「敵」が私たちと同じ(ことによると、もっとましな)人間でありうることなど想像もしなかった」

日本兵が何と言ったかは、口調や身振りで何となく伝わるはずだが、正確には分からない。この分りそうで分からない状態に観客を投げ入れるのが監督の意図だと思う。

ガダルカナルはおびただしい日本人の墓標になった島だから、呑気なことを言うのは、たいがいにしなければならない。ただ、この映画が、戦争映画ならぬ、「戦争を哲学した」映画としてすぐれていると言うことはできだろう。
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シン・レッド・ライン1

2020年09月11日
テレンス・マリック監督の「シン・レッド・ライン(The Thin Red Line)」は、ずいぶん前に、あるチェーンレクチャーで取り上げたことがある。
そこで述べたことは、まず、シン・レッド・ライン(細く赤い線)とは、いくつかの映画評にあるような「正気と狂気の間を隔てるもの」ではなく、「生と死の紙一重の境目」を意味していること。第二には、日本兵の描き方が、遠くに見え隠れする黒いシルエットから、同じような感情を持った人間へと変化してくること。第三に舞台がガダルカナル島で、熱帯雨林の中で繰り広げられる日米両軍の死闘とはまったく無関係に島民が生活している、その対照が戦争の不条理さを際立たせていること。第四に、しばしば現れるジャングルの高い梢から放射状に差し込んでくる日光の象徴するもの。そして最後に、主要登場人物の一人であるウィットがジャングルの中の空き地で日本兵に包囲される。その時、日本兵の一人が彼に日本語で話しかけてくる印象的なシーンについて。

2年ほど前にこのシーンに英語の字幕を付けたムービークリップがあるのを知った。そこで改めて気づいたのは、日本語を解さない観客には、ここで日本兵が何と言ったかは最後まで明かされない仕掛けになっているという事実であった。

隊長らしき兵士「(ややうわずった感じで)降伏しろ。・・・・・・(諭すように)降伏しろ。お前か?おれの戦友殺したのは。分かるか。おれは、お前を殺したくない。分かるか。おれは、お前を殺したくない。囲まれてるんだ、素直に降伏しろ。(あらためて感嘆したように)お前か、おれの戦友殺したのは。おれは、・・・動くな」
銃を構えた別の兵士(しゃがれた大声で)「止まれー!降伏しろ!」(目がぎらついている)


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お茶でも飲みながら

2020年09月09日
9月9日(水)
昨日は秋晴れの気持ちのいい一日だった。今朝は薄曇りだが、豪雨が予報されており、天気は不安定だ。昨夜は9時過ぎに就寝して今朝5時半に起きた。このペースが守れれば、まとまった仕事ができるだろう。
朝、副学長室に入って最初にすることは、濃い目に淹れたコーヒーを飲むことだが、コーヒーは1日3杯程度に留めて、あとはお茶を飲むことにしている。最近愛飲しているのは、以前SOASのルチア・ドルチェさんにもらったSOAS印の三缶セットで、「SOASで世界に出会おう」などと箱に書いてある。中でも「中東の緑茶&ペパーミント」はなかなかよろしい。こういう洒落たグッズがうちにも欲しいものだ。

飲まないでずっと取っておいたのだが、最近これは意味がないと悟り、積極的に消費している。

今回のコロナ禍ではっきりしたことの一つは、テレビ番組の大半があまりにもつまらないことである。コロナが終息しても、この感じは元には戻らないだろう。お茶でも飲みながら、お勉強しているのが一番である。


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連携協定

2020年09月07日
先週金曜日(4日)午後1時から、金剛峯寺新別殿において、高野町、金剛峯寺、高野山大学と東京大学先端科学技術研究センターの連携協定締結式が挙行された。最初に同センター長の神崎先生が趣旨を述べられたが、遠大な構想であり、続けてゆくことに意義があると感じた。協定書調印の後、同センター客員研究員を務めるヴァイオリニストの近藤薫氏による奉納演奏が、石庭蟠龍庭を舞台に行われた。曲はバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータから『シャコンヌ』」であった。石庭というものは、元来音楽的なものであるが、それが近藤氏の演奏と響き合っているようで、大変結構であった。途中で二度鐘がなったのも、絶妙のタイミングだったらしい。その後、近藤氏の手書きの楽譜の奉納もあり、熱い思いが伝わってきた。

私は大人しく座っていただけであったが、学長から担当を言いつかっている。仕事は段々絞ってゆきたいところだが、この件だけは大事に取り組ませてもらうつもりだ。
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