FC2ブログ
02月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫04月

訃報

2020年03月31日
このところ雨続きで、よけいに気が滅入る。

毎朝、起床前にスマホで新型コロナウィルスの発生状況をチェックするのが習慣になってしまった。

昨日の午前中、結果的に3時間を超える長丁場となった会議が始まる前に、志村けんさんの訃報を聞いた。大分悪そうだという報道はあったが、まさか亡くなるとは思わなかった。70歳はいかにも早すぎる。病床から生還してその体験を語ってもらいたかった。ご冥福をお祈りします。


その他 | トラックバック(0)

天空の 茶馬古道

2020年03月27日
祈 病魔退散。

テレビ朝日の「天空のヒマラヤ部族」というドキュメンタリー番組を見たか、見たか、と人に聞かれるので、ついに録画を見てみた。知り合いの大谷さんが、目立たないようにしながら、若いディレクターの介添え役に徹しているのが、かえって印象的だった。メインの取材地のひとつとなったティンキュー村は大谷さんの庭みたいなところだ。この番組でこの地に興味を持った人は、大谷さんの『ドルポ ネパールヒマラヤ最奥の聖地』に進んでもらいたい。写真が豊富な本で、大きな公立図書館にはおいてあるでしょう。

大谷さんに初めて会ったのは、大西保さんの事務所であったと思う。私は退職したら大西さんにトルボ(ドルポ)のシェー(水晶山)まで連れて行ってもらおうと思っていたが、今はそれも虚しくなった。稲葉嬢がトルボ越冬から戻ってきたので、そのうちゆっくり話を聞くつもりだ。

これと同時期に放映されたNHK「空旅中国 茶馬古道」もなかなか結構であった。番組は麗江の先の僧院で坊さんがお茶を飲むところで終わっていたが、そのままずっとカムに上がってもらいたかった。ドルポが河口慧海ゆかりの地ならば、雲南のこの辺りは能海寛(のうみゆたか)が消えた地だ。

安藤和雄編『東ヒマラヤ』(京大出版会)がもうじき上梓される。インド・アルナーチャルプラデーシュ州西部から東ブータンを調査研究したモノグラフで、私も短文を投稿している。





ある大学教員の日常茶飯 | トラックバック(0)

一体ありました

2020年03月24日
3月24日(火)
前回探索の広告を出した仏像の一体のありかが分かりました。誰かに教えてもらったのではなく、別の目的で古い図録のページをめくっていたら、そこに写真があることに気づいたのでした。ブッダガヤー出土とされる石造釈迦牟尼仏坐像の方です。所蔵先は東京国立博物館。そのうち見せてもらいに行くか。

図録は1993年に堺市博物館で開かれた秋季特別展のものである。この展覧会を私はA路さんご夫妻と一緒に観た。その前日には宇治の萬福寺を初めて訪ね、文華殿でT和尚さんの話を聞き、それから堺に行ってA路さん宅に泊めてもらった。何とも懐かしい思い出である。


研究ノート | トラックバック(0)

仏像、探しています

2020年03月20日
慧海が主宰した在家仏教修行団の本尊は、光雲が昭和3年にインド産の白檀木を彫った釈迦牟尼仏立像であった。白檀木の原形を活かして、施無畏与願印の釈迦牟尼仏が山窟から姿を現したところを写した「出山釈迦像」である。ところがこのご本尊、今はどこにあるか分からない。

慧海は、第二回旅行中にカルカッタのインド博物館のバネルジーという人物から、ブッダガヤー出土の石仏を贈呈された。菩提樹下で降魔印を結ぶ坐像である。慧海はそれを日本に持ち帰り、還暦記念にブロンズにして頒布する計画を立てた。これはまた光雲の助力によって実現したともいわれるが、石仏はもとよりブロンズ像も残っていない。ブロンズ像は戦時中に供出された可能性もあるが、どこかに一体位残っていてもよさそうなものである。

お心当たりの方、ご一報願います。
研究ノート | コメント(0) | トラックバック(0)

「水ほどうまいものはない」

2020年03月20日
3月19日(木)
ここ二三年、今頃の季節になると喉の調子が悪くなり、声がガラガラになる。ついに花粉症が出てきたのだろう。ところが、今春はこの症状がほとんど出ない。コロナに備えたマスクと手洗いが効いているようだ。それにしても、これだけ頻繁に手を洗うのは我ながら珍しい。スリランカやバングラデシュに行った時には、三度の食事の前と後に石鹸をつけてごしごし洗ったが、それはごく短期間の話である。

3月20日(金)
「水ほどうまいものはない」というのが、高村光太郎の伝える慧海のことばである。早くこういう心境になりたいものである。
光太郎の慧海との繋がりは、父光雲の代からのもので、光雲は工房で頒布用の作品を量産して慧海の資金調達を助けていた。そうして作られた釈迦牟尼仏や大黒天の像が各地に残っている。
光太郎は、父親がしたようなやり方で慧海に協力することはなかったが、慧海の首と裸体坐禅像を制作した。それは彼が前々から慧海の風貌に創作意欲をそそられていたからである。光太郎は特に首を制作する過程で、モデルの慧海と随分話をした。その一部をエッセイに書き、いくつか他に見られない、おもしろい情報を伝えている。つまり、慧海に関するかぎり、光雲は仏像を残し、光太郎は文章を残したのである。
慧海の首と坐禅像は、石膏原型のまま光太郎のアトリエに保管されていたが、昭和20年の空襲でアトリエが全焼した際に他の作品と共に失われた。



ある大学教員の日常茶飯 | トラックバック(0)

最低気温

2020年03月17日
3月17日(火)
「今朝、近畿地方で一番寒かったのは和歌山県の高野山で、気温がマイナス6.6度まで下がりました」とラジオが言う。道理で、なかなか床を出る気がしないわけだ。
 8時にようやく意を決して起き上がる。身支度を整えて、コンビニに朝食を買いに行くと、防寒着で身を固めた西洋人の男女がコーヒーメーカーを操作している。大変な時に日本に来たものだ、とこちらは思いがちだが、彼らとしては存外この状況を楽しんでいるのかもしれない。
空が青い。一昨日の晩から降り積もった雪を今日一日でお日様がすっかり溶かしてくれるだろう。
今日は一般後期の入試がある。明日は教授会。これで今年度の校務は大体において終了である。
ある大学教員の日常茶飯 | トラックバック(0)

卒業式

2020年03月15日
3月15日(日)
午前10時より卒業式が挙行された。うちは毎年3月15日を卒業式の日と決めている。周知のような事情から、今回の卒業式は、保護者を招待しない、来賓を管長猊下と宗務総長にかぎるなど異例の措置が取られ、式後の祝賀会も中止された。例年、卒業生・修了生たちが弾けるのは祝賀会においてだから、やや物足りなく感じたが、今はみんなが我慢するしかない。何はともあれ、やってよかったと思ったのは、晴れ着を着た女子学生たちを見た時だった。


高野山大学の力 | トラックバック(0)

陰謀、陰謀論、陰謀論論

2020年03月10日
陰謀とは、人知れず企てられたよからぬ計画を意味する。陰謀論とは、歴史上の大事件などを陰謀という観点から解釈説明しようとするものである。例えば、明治維新の陰には○○の資金が動いていた、など。そして陰謀論論とは、陰謀論を批判的に論ずるもの、とひとまず定義しておこう。

呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書)は陰謀論論としておもしろく読むことができる。もっとも、私は本能寺の変と結論部だけを読み、それ以外に読み進めていない。呉座氏自身、本能寺の変を陰謀の真打と呼んでいるから、これでも許してくれるだろう。

光秀の謀反の動機については、怨恨説、野望説、黒幕説、勤皇説など諸説ある。陰謀論が幅を利かせるのは、専ら黒幕説、つまり光秀の背後に共謀したり、そそのかしたりした者がいたとの説においてである。その黒幕にも諸説あって、朝廷、足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康、はてはイエズス会までが黒幕認定されている。なかなかの活況なのである。呉座氏は、こうした説を次々に斬りながら、陰謀論の法則めいたものをいくつか引き出していて、これがなかなかおもしろい。その中に、事件によって最大の利益を得た者が真犯人と考える、というのがある。秀吉や家康を黒幕とするのはこの発想である。実は我々も日々こういう発想をしがちであり、この指摘はその戒めになるだろう。

ちなみに氏自身は、突発的単独犯行説を取っている。つまり、たまたま転がり込んできたチャンスをものにすべく動いた、ということである。その背景として、最近斯学で注目されているという信長の四国政策の転換を挙げるが、この辺は私には専門的過ぎて興味がわかない。ただ、光秀がこの時何歳であったかは重要に思われる。ドラマの影響か、秀吉と同年配の働き盛りをイメージしがちだが、実は、かなりの老境に達していたとの説が有力だそうで、事実とすれば、動機の解釈も自ずから違ってこよう。

光秀が本能寺を襲った理由のひとつは、信長の「唐入り」を阻止するためだったという説もある。そういえば、大河ドラマ「秀吉」でも、「唐入り」どころか、天竺までも制覇する夢を語る場面があったと記憶する。これだと、光秀は太平の世を招来するために謀反を起こしたとの説明が可能になり、「麒麟」のテーマと合ってきそうな気もするのだが、どうだろうか。
>>続きを読む・・・
読書ノート | トラックバック(0)

お雛様をしまう

2020年03月06日
3月5日(木)
13時から中百舌鳥の堺商工会議所で開かれた南大阪地域大学コンソーシアムの理事会・総会に出席した。議題が多い割に会議は早く進み、2時間でお開きになった。これも新型コロナの影響である。

帰宅して、お雛様をしまった。今日は啓蟄で午後からは日が差した。お雛様をしまうには悪くない日である。終わってパンジョの紀伊国屋書店に本と文具を買いに行った。

3月6日(金)
日々、全国各地で感染者が増え続けている。感染者数に応じて都道府県別に色分けされたネットの日本地図もだんだん赤の面積が増えている。これを、都道府県単位でなく、市区町村単位までおとして、感染者の発生を赤い円か何かで表示したら、印象はずいぶん変わるし、各人が行動する場合の参考にもなると思うのだが。

ある大学教員の日常茶飯 | トラックバック(0)

コレラ1890

2020年03月01日
1890年(明治23)9月に紀伊大島近くで起きたエルトゥールル号の遭難の遠因はコレラの流行にあった。船内にコレラが蔓延したため、横須賀の長浦消毒所(検疫所)に2ヶ月近く船ごと隔離され、そのためイスタンブルに向けての出航が台風シーズンにかかってしまったのである。
当時の日本は、港町を中心にコレラの流行に悩まされていた。エルトゥールル号事件の生存者69人を本国に送致するために出動した「比叡」と「金剛」が、神戸で生存者を分乗させた後、午前2時に出航して伊予の三津浜を目指したのも、コレラ禍を避けるためであったらしい。ところが三津浜でもコレラ発生の情報があったらしく、両艦は早々に長崎に回航している。船という閉ざされた空間にとって疫病が大敵であることは、いやというほど分かっていたのである。

ちなみに、エルトゥールル号事件の犠牲者は587人とされることがある。この数字は事件発生直後から公文書に表れるが、確定的なものとは言えない。東洋大学の三沢先生は、消毒所の記録などから、海難による死亡者を約500人と推定しており、私もこれに従っている。

研究ノート | トラックバック(0)
 | HOME |