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居庸関

2018年10月31日

4日留守にしただけで、高野の秋はぐんと深まっていた。

「最近の北京の空気はきれいだそうです」

前もってこうCさんに言われていた通りだった。天候にも恵まれた。


10月27日(土)

午後3時10分泉ヶ丘発のリムジンバスで関空に向かう。4時半、第一ターミナル4階の出発ロビーのDアイランドでCさんと合流。午後7時半過ぎ、ZH(深圳航空)9056便で関空を発ち、2時間50分のフライトで北京首都空港に降りた。いつも思うのだが、この空港は大きすぎて、むしろ不便な感じがする。空港からはタクシーで今回の宿舎、友誼賓館に向かう。チェックインして部屋に入ると11時半を回っていたので、シャワーも浴びずにすぐ就寝した。

10月28日(日)

7時過ぎに友誼宮という建物で朝食を食べていると、CさんとSさんがやって来た。SさんはCさんの友人で、車で居庸関(きょようかん)長城に案内してくれる。雲はあるが天気は上々である。前方に岩山が見え始める。軍都山脈の一部と思われる。Sさんが、「長年北京に住んでいますが、山がこんなにくっきり見えたのは初めてです」と嬉しいことを言ってくれる。

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居庸関長城を選んだのには訳がある。村田治郎編の『居庸関』第1章には次のようにある。


「居庸関は、モンゴリア高原からする塞外民族の侵入に対して、北京地方を防衛する第一の要害であった。古く『呂氏春秋』有始覧をはじめ、『淮南子』地形訓などにも、天下九塞の一としてその名がみえるのは、春秋戦国時代の燕国の要塞として早くから人々に知られていたことを示す」


と。だが、この関そのものに対する興味もさることながら、私の目当ては、この関にある雲台という石造建築物にある。元代の14世紀半ばに建造されたもので、門洞内の壁面に四天王、十方仏、千仏、五曼荼羅、そしてランジャ文字、チベット文字、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字、漢字の六体刻文などが刻まれている。元代の仏教図像と陀羅尼文献の貴重な遺品だ。これについては、村田治郎編の『居庸関』という大冊の研究書があって、洞内の彫刻・刻文の拓本も掲載されているのだが、本物を見ておくことは何より大切である。

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*雲台。かつてはこの上に過街塔と呼ばれる塔があった。


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*門洞の入口から南関城楼を見る。「天下第一雄関」の扁額がかけてある。


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*四天王中の広目天王像


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*門洞内に保存された深い轍の跡に長い歴史を感じる。


雲台はSさんを喜ばせた。こういうものがあるとは知らなかった、というのである。「今度仏教徒のお客さんがあったら案内してあげて下さい」と言うと、是非そうしたいという話であった。それから長城に登った。観光客が蟻の群のように続いている。石段がひどく急で、たちまち足がくたびれ、息が切れた。明日があるので、途中で引き返すことにした。「中華文明の偉大さを足で実感しました」。


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*長城はうねりながら山の向こうに続いている。これから紅葉がきれいになるところ。

関城楼と長城の途中とに毛沢東の詞碑が立っている。「長城に至らずんば好漢にあらず」

大学生になりたての頃、毛沢東の詞の本を買ったことを想い出した。この一節もその中にあったと思う。長城の麓の店では好漢証明書なるものを発行していた。長城に行ったら皆好漢になれる訳でもあるまいが、そこは観光地である。

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*長城から南方、河北の大平原を眺望する。ついつい居庸関を破った遊牧民のような気持ちになる。さあ、行くぞ。「野蛮は文明への跳躍台だ」(司馬遼太郎『韃靼疾風録』)

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そうだ、長城へ行こう

2018年10月25日

10月25日(木)

4日ほど前にCさんに聞いたところによると、北京の学会は急に2日間の予定が1日に短縮されたという。出入国は変わらないから別にどうということはない。が、北京で1日時間ができた。Cさん、早速、「日曜日どこへ遊びに行きますか?」

去年の蘇州と似たパターンである。

「じゃ、万里の長城」とリクエストした。「えっ、万里の長城、まだ行ったことないんですか」

「うん、北京からはね」

考えてみると確かに妙である。これだけ何回も北京に行きながら、八達嶺は知らないのだから。もっとも、万里の長城自体は承徳に行く時に見ているし、河西廻廊でも明代のを見ている。Cさん、早速友だちに連絡して車を手配し、「慕田峪長城と八達嶺長城はAAAAA観光地です。外国の要人もここに案内されますよ」ときた。そうだろう、そうだろう。でも私はAAAAの居庸関長城へゆくのだ。目当ては長城ではなく、居庸関である。もう時間がないが、明日は村田治郎の『居庸関』で俄勉強するつもりである。

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鷗外の宿

2018年10月22日

10月22日(月)

今日から2日間にわたって重要な視察がある。

*****

金曜日から日曜日まで東京に出張した。金曜日は夕方から神田のB社で相談・打合せ。土曜日は、東洋大学アジア文化研究所主催の「能海寛生誕150年記念シンポジウム 新仏教徒 能海寛―哲学館からチベットへー」にパネリストとして参加した。よい会だったと思う。7月の波佐での記念式典・シンポジウムと合わせて、能海寛の顕彰・研究事業の大きな節目になった。


私個人としては、三浦節夫先生に久しぶりでお目にかかれたこと、地平線会議の江本嘉伸さんと7月の波佐に続いていろいろ話ができたことが収穫であった。


ホテルは2泊とも上野の水月ホテル鷗外荘であった。自分で決めたのではなく、東洋大学が予約してくれたのだが、これがなかなかに宜しかった。このホテルは森鷗外が1年あまり住んだ旧宅を中庭に保存しており、おまけに天然温泉がついている。鷗外が「舞姫」を執筆したのはこの家だ、ということで、ホテルもこれを前面に押し出している。鷗外縁の宿ということで何となく壮麗なイメージを抱いて行ったので、チェックインの時に意外に庶民的なことにちょっと戸惑ったが、2泊した後味はよかった。朝食はホテル内の鷗外の詩に因んで「沙羅の木」と名づけられた和食の店であった。大きな窓から中庭の竹林がよく見える。日曜の朝、竹が風にそよぎ、葉が陽光につやつや光って、何とも清々しかった。

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*鷗外旧宅内。


舞姫のモデルについては諸説あったと思う。それが現在どうなっているか、私は知らないし、積極的に知ろうとも思わないが、想い出すのは、関川夏夫原作・谷口ジロー作画の「明治流星雨」の中の一篇『秋の舞姫』である。これは鷗外を追ってドイツから日本にやってきたエリーゼ・ヴィーゲルトが大活躍する漫画であるが、結末は一転してとても寂しい終わり方をしていたと記憶する。これを読ませるのは、やはり谷口ジローの画力である。


日曜日の昼間、娘たちと根津のフレンチ・レストランで会食した。レストランはホテルから歩いて10分程度の距離だが、チェックアウト後、約束の12時にはまだ間があったので、谷根千文学散歩としゃれこみ、岡倉天心記念公園や鷗外記念館(観潮楼跡)などを見て回った。


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*清水坂。かつては弘法清水があったという。別名暗闇坂。


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*谷中五丁目の岡倉天心記念公園。ここにも六角堂がある。


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*中を覗くと、こんな面白い写真が撮れた。


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*ここは団子坂。東京は坂の町だね。


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*鷗外記念館内の喫茶店で一休み。アッサムティーをたのむ。


根津は河口慧海が住んだ町でもある。旧宅跡は根津一丁目交差点のすぐ近くだが、今回は行ってみる時間がなかった。





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タイの高校生

2018年10月17日

10月17日(水)

今タイの高校生たちが研修に来ている。メニューは盛り沢山だ。昨日は9時から12時まで加行道場の一室で私が「日本の祭り」と題して講義を行った。最初に近代の日タイ交流史の一面として、生田得能と善連法彦のタイ留学と仏舎利奉迎について話をした。お祭りの話だけでは間がもたないと思ったからだ。


この日は5時に起きてそのためのパワーポイント作りをした。3時間という無茶な割り当てである。通訳が入って半分になったとしても、話だけではこちらも保たないし、彼らも辛かろう。ところが、8時半頃のことである。誤操作から、それまでに作ったパワーポイントが全部飛んでしまった。たくさんのものを同時に立ち上げていたのが間違いの元である。一瞬頭が真っ白になりかけたが、そこは私もそれなりにベテランである。まあいいや、と自分を落ち着かせ、ちょいちょいと三枚ほどの写真でパワポを作りなおし、講義はそれで済ませた。相手は外国の高校生で、日本語は勉強しているらしいが、実際に来てみれば知らないことばかりであるはずだ。それに寒さに弱く、少々飽きてもいるようだ。しかも講義は通訳を介してである。最低必要なのは笑顔。あとは臨機応変の対応である。


途中2回休憩を入れ、多少早じまいはしたが、何とか結末までたどりついた。一度書いたことは覚えているものである。高校生たちの中には、日本人納骨堂のあるワットリアップの直ぐ近くのS校から来ている生徒が数人いた。S校は名門である。また引率兼通訳のS先生は、前に高野山に来ていたK先生の後輩だという。What a small world! 今度行く時には連絡しよう。

ただ終わった後の疲れは大きかった。おかげで、この忙しいのに3時頃まで仕事が手に着かなかった。 




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仏教系大学会議

2018年10月13日

10月13日(土)

一昨日から1泊2日で、京都で開かれた仏教系大学会議に出席した。高野山大学が今年の担当校に当たっているためである。


一昨日は会場校である佛教大学で開会式と基調講演があった。私の役目は開会式で司会を務めることで、あとは存在しているだけでいい。基調講演の講師はM先生であった。先生とはK-Gursでご一緒して大変お世話になった。講演の冒頭に先生がそのことに触れられたので恐縮した。私が尊敬する人の一人である。


終わって京都ガーデンパレスに場所を移して、2階の葵の間で懇親会。ガーデンパレスの向かいがちょうど京都御苑の蛤御門である。蛤御門といえば禁門の変である。この門を挟んだ会津・桑名と長州との攻防は大河その他で何度も描かれている。御門には弾痕も残っているそうだが、今回は確認に行かなかった。

昨日は午前中、ガーデンパレスでパネルディスカッションが開かれた。

ディスカッションの後は閉会式。そのあと、後片付けをしてから地下鉄で京都駅に行く。乾学長とはそこで別れ、近鉄奈良線で精華町の国会図書館関西館に向かった。


今月27日から4日間の日程で北京で開かれる国際学会に出席する。最近まで予定になかったことだが、急遽決断したのはJKさんの招待であったからである。JKさんからはこの春も別口の招待を受けたが、日程が合わなかった。さすがに2回連続は断れない。その準備のために必要な資料があり、近場では国会図書館がそれをデータ化しているが、それを閲覧するためには直接出向かなければならない。前にも書いたとおり、ここはすごい施設で、館員の応対もとても丁寧だ。ただ遠い。土曜日に出直してもよかったのだが、京都から電車とバスを乗り継げば1時間ちょっとで行けることを知って帰りに寄ることにしたのである。


2時間あまりで目的のものを手に入れ、バスで学研登美ヶ丘駅に向かう。生駒で近鉄線に乗り換え、大阪難波に出る。帰宅したのは7時頃だった。



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ボンベイの大石誠之助

2018年10月09日

10月9日

一昨日の夜、眠れないまま、書棚から『現代詩の解釈と鑑賞事典』という本を取り出し、あてずっぽうに頁を開いたら、与謝野鉄幹の「誠之助の死」が出てきた。「大石誠之助は死にました、いい気味な、機械に挟まれて死にました」で始まる反語で綴られた抗議の詩である。翌日、夜明け前に眼が醒めて何気なくラジオを点けると、深夜番組がまだ続いていて、何と、大石の話をしている。こういうのをシンクロニシティと言う。大石は大逆事件で刑死した新宮の医師で、文化学院を創設した西村伊作はその甥に当たる。


ラジオの話は大石のボンベイ(ムンバイ)留学に及び、彼が社会主義に目覚めたのはそこでカースト制の実態を目の当たりにしたからという説明があった。が、これには少々引っかかった。10年以上前に読んだ森長英三郎の『禄亭 大石誠之助』では、折柄のボーア戦争に帝国主義の正体を見た思いがあって、社会主義関係の本を読み始めたと説明されていたはずである。ボンベイはインドの西の玄関口でアフリカにもさほど遠くない。MKガンディーの事蹟を引くまでもなく、南アフリカにはインドからの移民も多かった。ボンベイにいてアフリカの戦争を肌で感じるのはありうることである。しかし、あとでネットを見ると、ラジオと同じ説明が多い。この辺りをどう考えるべきかは、専門家に教えてもらいたい。


私が大石に興味を持つのは、やはり彼が1900年にボンベイに渡ってボンベイ大学で伝染病の研究をしたという特異な経歴のためである。この夏、ムンバイに行くに当たって、ムンバイ大学が見たいとリクエストしたのも実は大石が念頭にあってのことである。ただ時間の都合で大学は外から見ただけに終わった。

大石のインド滞在は病気のために一年と続かなかったが、その頃のボンベイには間島與喜がいたし、大宮孝潤もしばしばカルカッタから保養に来ていたはずだ。彼らと大石の接点はなかったのだろうか、いや、ない方がむしろ不自然だ、と、ここまで考えて、ふと予感がして、以前I曽根さんから提供してもらった間島関係の写真資料を見直して見る気になった。

すると……あれ、これひょっとして、というのが出てきたのである。ボンベイ在住の日本人たちの集合写真に写っているひとりの男。裏書きには「明治三十三年五月十日□□□奉祝」云々とある。年代は合っている。この奉祝は日付から見てのちの大正天皇のご成婚祝いである。大石にはよく知られた写真が2枚ほどある。それらとモニター上で見比べてみる。似ているといえば似ているような。しかし、別人といえば別人かもしれない。


このトピックは今のところここまでである。新宮の佐藤春夫記念館では今企画展「大石誠之助とはどんな人」が開かれている。今年1月に大石は新宮市の名誉市民に選ばれた。その記念の展示らしい。同じ県内でも新宮は遠いが、誰か詳しい人がいるかもしれないので、機を見て行ってみることにする。


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太陽の塔

2018年10月08日

10月8日(月)

昨日の午後、難波サテライトでオープンキャンパスがあった。難波サテライトでは、現行の心理ケアに加えて、来年度から密教学科の3回生編入が始まる。つまり、3回編入生に限ってではあるが、密教学科の授業を難波で受けることができるようになる。私も2科目持つことに。今以上に忙しくなるのはちと辛いが、反面、どんな顔に会えるかが楽しみである。

*****

一昨日の午後、梅田のスカイビルにあるシネ・リーブル梅田に「太陽の塔」を観にいった。大阪万博会場に岡本太郎が造った太陽の塔とはいったい何だったのかを多くのインタビューを綴り合せる形で追究したドキュメンタリー映画である。

今年の3月のこと、この映画の制作会社から連絡があり、東京青山の「岡本太郎記念館」でインタビューを受けた。つないでくれたのは、大谷大学のM先生である。というわけで、私はこの映画にほんのちょっとだけ顔を出している。試写会の案内も受けたが、授業があって東京までは行けなかったので劇場で観たというわけである。

これはなかなかの力作であり、問題作である。

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御礼、10万アクセス

2018年10月08日

10月8日(月)

このブログのアクセス数が昨日で10万回を超えました。始めたのは2008年3月ですから、早いもので10年半の歳月が流れています。10年半で10万回というのは決して多いとは申せませんが、私にとりましては、1アクセス、1アクセスがかけがえのないお宝です。別におもしろくもない、テンションが下がっているなど、ご批判もあろうかと思いますが、まだ止める予定はありませんので、今しばらくお付き合いいただけましたら、幸甚に存じます。


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BSプレミアム英雄たちの選択 探検スペシャル  

2018年10月06日

この木曜日に放送された上記の番組は、大谷光瑞(大谷探検隊)、河口慧海(チベット探検)、白瀬矗(南極探検)を取り上げたものだった。これに私は録画のコメント役でちょっと出ているのだが、だからというわけではなく、綿密な取材に基づいて作られた、分かりやすくて啓発的な番組で、特に白瀬中尉の物語は感動的だった。興味のある方は来週の再放送(10月11日)でどうぞ。

実はこの番組を私は今日になって録画で見た。曼荼羅荘ではBSが映らないためだ。やれやれ。

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お人柄ですね

2018年10月03日

「まず指揮官の交代ですね。あとは藤浪をもっと活用しないと」


有名科学雑誌に書いてあることの9割は嘘、にも驚いたが、このことばにもちょっと驚いた。内容がではない。多くのタイガースファンが同意しそうな意見ではあるが、こうずばりとはなかなか言えないものである。やはりお人柄ですね。


私はタイガースファンではないが、藤浪選手は応援している。


「研究ほど楽しい人生はない」


同感です!

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