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夏の陣

2016年11月30日
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*堺市博物館にある芝辻大砲の模型。実物は靖国神社にある。家康の注文で、1611年に堺の芝辻理右衛門が製作した。冬の陣で大坂城の砲撃に使われたものかもしれない。

 「真田丸」もいよいよクライマックスのようだ。最近は視たり視なかったりだが、この物語をどう閉じるかには興味がある。

私が注目しているのは、伊達政宗の動きである。乃至政彦の『戦国の陣形』(講談社現代新書)によれば、大坂夏の陣における伊達勢は5400人余りで、そのうちの何と64%が鉄砲を装備していた。道明寺の合戦で後藤又兵衛を討ち取ったのも伊達軍の銃撃である。ところが、政宗は、「弾切れ」との理由で、退却する真田隊を追撃しなかった。そのことが結果的には、翌日の真田隊・毛利隊による徳川本陣への突撃という、家康にとってはまさかの事態につながる。

解釈はいろいろと可能であろう。ただし、それと真田信繁が息子とむすめを政宗の重臣片倉小十郎(重長)に託したという話をつなげて考えると、ちょっとおもしろい構図が描けるかもしれない。




ある大学教員の日常茶飯

留学生二題

2016年11月24日
雨に濡れそぼった銀杏の黄色い葉が、大学構内のアスファルトの上に散っている。
それを見てウセルさん、「これはゴミじゃないですね」
上手い言い方ができないだけで、何を言いたいかはよく分かった。こういう感性がチベット人にもあるということを改めて確認する思いだった。

チョウさんに「柘榴坂の仇討ち」を貸して上げたら、気に入った台詞を手帳に書いてきた。

「姿形は変わろうと、捨ててはならぬものがある。それも文明ではござらぬか」

これには感心した。実は私もこの台詞に注目していたからである。この台詞は、手懸かりを求めて新聞社を訪ねた主人公が、古いことにばかりこだわっていては文明国として立ちゆかない、と意見された時に発した言葉である。
明治5、6年に羽織袴、ちょんまげ、二本差しで歩いていれば、立派に旧時代の代表者である。観ている者は、それまでにこの人の境遇にすっかり同情していることもあって、この反論に溜飲を下げるのである。「文明とは、人間に義務の道のありかをさし示す行為の様式である」というマハートマ・ガンディーの言葉が想起される。

これを選んだところに、チョウさんの感覚のよさがあらわれている。

なお、復讐禁止令は彼にとって仇討ちを思い止まる理由にはならない。主君の仇を討つことは、彼が遵奉する文明においては大義そのものだからである。ではその結末はどうなるか。これは実際に見てもらうしかない。


ある大学教員の日常茶飯

柘榴坂の仇討ち

2016年11月22日
11月20日(日)
かねて見たいと思っていた「柘榴坂の仇討ち」をDVDを借りて見た。物語は、桜田門外の変で主君井伊直弼を暗殺から守れなかった元彦根藩士(中井貴一)が、13年間仇を探し回り、明治6年冬のある雪の夜―それは奇しくも太政官から復讐(仇討ち)禁止令が布告された日であったー、東京品川の柘榴坂でついに刺客の最後の生き残り(阿部寛)と対決する、というものである。

主演の中井貴一は、背筋がすっと伸びていて、立ち姿がいい。「壬生義士伝」でもそうだったが、士道を貫こうとする侍の役がぴったりだ。

この映画、ちょっと理解に苦しむ点(何でミサンガが・・・など)もあるが、井伊直弼役が吉右衛門さんなのもファンには嬉しく、なかなかだと思う。桜田門外の変で血糊をほとんど使わなかったのも評価できる。最近はCGを使って派手に血飛沫を飛ばすものが多く、私は大概にしてもらいたいと思っている。映画の迫力は役者が演技で出すものだ。

ところで、先の復讐禁止令は前年、高野山中で起こった仇討ち事件を切っ掛けに出されたものという。この事件が一説では日本最後の仇討ちとされているが、吉村昭は、明治13年に起こった事件を最後の仇討ちとしているらしい。これはひとつ確かめてみなければ。



ある大学教員の日常茶飯

錦秋

2016年11月18日
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*紅葉も残りわずか。

11月18日(金)
法王ウィークが終わった途端に気温がストンと落ちた。

昨日、京都に滞在しているモンゴル人学者のN先生の一行が高野山に来られたので、午後、奥之院をご案内した。同行のA先生は京都のC研の所属で、アンドーさんの友だち。通訳のBさんは大阪の大学の学生だ。先日の式典で御山に来たラマ僧たちは、高野山の環境が恵まれていると言って羨ましがったそうであるが、N先生がどういう感想を持たれたかは聞きもらした。




ある大学教員の日常茶飯

チベット密教不動明王の許可灌頂&記念講演

2016年11月16日
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11月16日(水)
11月12日、13日の両日、大阪で開かれたダライ・ラマ法王によるターラーの許可灌頂に出席した。
14日、15日は会場を高野山大学に移して、不動明王の許可灌頂と記念講演が開かれた。高野山大学創立130周年記念行事の一環である。

15日は9時開始の予定だったが、法王の動きが早く、8時半過ぎには登壇されて、まず質問を受けられた。
堅苦しさの全くないダライ・ラマ法王一流のやり方で、聴衆はむしろ喜んだと思う。私も肩の力が抜けて、舞台袖で座って拝聴した。10時半高野山発で空港に向かう一行に私も同行し、お見送りした。途中、昼食をご一緒したことがよい記念になった。



高野山大学の力

感激の一日

2016年11月11日
11月3日木曜日文化の日
この日、さかい利晶の杜で、河口慧海生誕150周年記念「慧海と堺」展関連の講演会とパネルディスカッションの集いが開かれた。最近にない感激の日だった。
 
堺東から歩いて、11時過ぎに受付に行くと、高山先生がすでに来ておられた。まもなく、Yさん、Uさんご夫妻、Hさん、Kさんが揃った。今回の展覧会に所持されている慧海ゆかりの品を快くお貸しくださった人々である。

会は1時半から始まった。最初は私だったが、いつになく気合いが入りすぎて空回り気味であった。次に高山先生がお話になり、その後休憩を挟んで、ディスカッションとなったが、そのメインは何と言ってもビデオレターで参加された宮田恵美さんであった。これが見られただけでも会を開いた価値はあったと私には思われる。

会の後、堺市のご厚意で、懇親会が持たれた。松原市のN先生も加わられた。この席では、河口慧海の幼なじみで最大の支援者だった肥下徳十郎の孫が、徳十郎が没してから100年後に慧海の親族と並んで座り、同じく有力な支援者だった藤原萬蔵・等子夫妻の孫と慧海の弟の孫とが語りあうという状況が作り出された。縁の不思議さをつくづく感じさせられた一時であった。

この不思議を「演出」したのはあくまで堺市文化財課の人々であるが、私もいくらかお手伝いが出来たことを嬉しく思っている。
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さて、今日から3日間、大阪でダライ・ラマ法王の法話と灌頂がある。その後、月曜日、火曜日と高野山だ。
研究ノート

神々の山嶺とエベレストの亡霊たち

2016年11月08日
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*夕映えのヒマラヤ。神々の座。私は昔からこのことばに弱い。

カトマンズ空港の国内線待合室で本を三冊買った。
『エベレストの亡霊たち』、『エベレストの男―テンジン自伝』、『希薄な空気の中へ』

前に書いたように、出発前に夢枕獏の『神々の山嶺』を買った。それを旅行に持って行く積もりであったが、結局止めたのは、一つには荷物をできるだけ減らしたかったから、もう一つは、たとえすきな作家のものでも、それによって旅のトーンを支配されたくなかったからである。私はぼーっと考え事をしているだけで何時間でも過ごせる人間である。
しかし、頭には残っていたのだろう。待合室の売店に置かれていた本の中でこの3冊が目に止まった。こういう本は見つけ次第買わないと二度と手に入らないことが多い。『エベレストの亡霊たち』に邦訳があることは最近知った。

『エベレストの亡霊たち』は、マロリーとアーヴィン捜索の唯一の公認ストーリーと銘打ってある。マロリーとアーヴィンは、1924年のイギリスのエベレスト登山隊の一員で、頂上のアタックに出かけたきり帰ってこなかった。1953年にヒラリーとテンジン、否、テンジンとヒラリーが初登頂する30年近く前、1999年にマロリー・アーヴィン調査遠征隊がマロリーの遺体を発見する75年前の出来事である。

マロリーとアーヴィンのエベレスト登攀にまつわる最大の謎は、人類で最初にこの世界の頂上に立ったのは実は彼らだったのではないか、という点にある。夢枕さんの小説は、この謎を巧みに使って、深町というフリーカメラマンがカトマンズの古道具屋でマロリーのものらしきコダック・カメラを見つけるところから始まっている。カメラが焦点になるのは、もしもマロリーらが頂上に立ったならば、必ず証拠の写真を撮ったはずであり、またそのカメラが零下数十度にもなるエベレストの斜面に埋もれていた場合、中のフィルムは数十年間の劣化に耐えて決定的な証拠となりうる、という想定が成り立つからである。

『エべレストの亡霊たち』には、マロリーの娘クレアが一文を寄せていて、惻々と胸を打つ。彼女が書いているように、マロリーの遺体を発見した遠征隊は、その持ち物を調べたが、マロリーが生前、幼いクレアに、エベレストの山頂に置いてくると語った妻ルース(クレアの母)の写真はついに発見できなかった。そしてカメラも。こうして謎は謎のまま残ることとなった。

それが小説でどう料理されているかは、実際に読んでもらいたい。附言すれば、夢枕さんは『神々の山嶺』を、マロリー・アーヴィン調査遠征隊がマロリーの遺体を発見する2年前に書き終えている。しかし、この遠征隊の成果を受けて、ラストシーンに必要最小限の手を加えたという。物語と事実の交響という意味でも興味深い作品である。



読書案内

遺跡巡り、調印式、帰国

2016年11月07日
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*夜明け前のルンビニーの野。荘厳な時が近づく。

27日
インドやネパールはやはり、朝である。早起きして、日本山妙法寺のストゥーパまで散歩した。すでに善男善女が旭を拝みに来ていた。ストゥーパの基壇に上ると、ヒマラヤがよく見えた。

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*白亜の塔に僅かに朝日が当たり始めている。

この日の午前中はルンビニー近辺の遺跡巡りをした。タウリハワーを通り、まずクダンの遺跡を訪れる。ここは釈尊が父王シュッドーダナと出城以来の再会を果たしたニヤグローダ園の跡と言われている。次に行ったのが、ゴーティハワーの遺跡である。ここは、過去七仏(釈尊とそれ以前に現れたとされる六人の仏)の一人、クラクッチャンダ(拘留孫)仏の生誕地とされる場所で、壊れたアショーカ王の石柱が見られる。こうした遺跡群はみなタラーイの田園地帯の中にある。途中、いくつもの村を通ったが、お世辞にも豊かとは言えなかった。

次はティラウラコットの遺跡であった。釈迦族の都カピラヴァストゥに比定されている場所である。現在は、ユネスコ文化遺産保存日本信託基金の援助を受けて、イギリスのダラム大学がドローンなどの「新兵器」も使って調査を進めている。(もっともインド側の主張では、カピラヴァストゥはインド領内のピプラーワーとのこと)
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*シッダールタ太子が目覚めの旅に出たのは、この東門からであるとされる。

最後は、過去七仏の一人、カナカムニ(拘那含牟尼)仏の生誕地とされるニグリハワーの遺跡であった。アショーカ王の石柱が折れて倒れている。七仏のうちの三人までがこの比較的狭いエリアで生まれたことがアショーカ王の石柱によって認定されていることは、とても興味深いと言わなければならない。ちなみに、東北大学の河口コレクションには、ルンビニーとニグリハワーの二つの石柱碑文の拓本が含まれている。慧海自らが刷り取ったものである。

遺跡巡りから戻って昼食を取ると、すぐに高野町とルンビニーとの調印式であった。これが今回の訪問のハイライトであった。

夕方、飛行機でカトマンズに戻った。夕陽に紅く染まったヒマラヤが見事だった。カトマンズ最後の夜は、タメルのチベット料理屋でトンバという地酒やモモ(チベット餃子)を味わった。翌日昼の飛行機に乗り、次の日の朝に関空に帰着した。
フィールドワークの記録

ルンビニー見学

2016年11月07日
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 摩耶夫人堂は、お釈迦様の誕生スポットを示すマーカーストーンとその周りの遺跡を覆うシェルターのような建物で、その側にアショーカ王が紀元前3世紀に建立した石柱が立っている。側には沐浴のための池があり、菩提樹が生えている。
 ゲートで靴を脱ぎ、石畳の上を裸足で歩く。気持ちがよい。
 案内の人に、ここからヒマラヤが見えますか、と聞くと、彼はスマホで撮った写真を見せてくれた。そこには確かにダウラギリⅠが映っていた。かつて、河口慧海を始めとして、ここを訪れた日本人たちもこの山を眺めたはずである。その時には、摩耶夫人堂は小さなマウンドの上に立つ祠(ほこら)だった。
 参拝後、ルンビニホテル笠井にチェックイン。日本人の笠井さんが経営する瀟洒なホテルである。そこで昼食を取り、ルンビニー開発委員会のレクチャーを受けた後、現場に向かった。

 ルンビニーの開発は、コア・ゾーンだけでも東西1マイル、南北3マイル、面積777ヘクタールの広大な敷地を、摩耶夫人堂を中心とする「聖なる園」と「僧院ゾーン」と「新ルンビニー村」の三ゾーンに分けて開発しようという壮大なもので、マスタープランは丹下謙三氏が立てたものである。

「僧院ゾーン」には各国の僧院が、まるで万国博覧会のパビリオンのように、おもいおもいの建築意匠で立ちならんでいる。

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*ドイツ寺。どういう縁でかは聞きそびれたが外見も中身もチベット仏教寺院である。

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*タイ寺。日本寺もあるがまだ完成していない。

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*こんな誕生仏が建立されて、話題となっていた。う~ん・・・

タイ寺の一画でお茶を頂きながらお坊さんのお話を聞いた。その後、歩いて再び摩耶夫人堂に行くと、台湾の巡礼団が沐浴池の階段に腰を下ろして夕焼けに向かってお経を唱えており、その側の菩提樹の木陰ではスリランカの巡礼団がネパール僧の説法に耳を傾けていた。
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ホテルでの夕食は関係者が一堂に会しての晩餐会であった。
フィールドワークの記録

ルンビニーに飛ぶ

2016年11月04日
10月26日
ルンビニーに飛ぶために空港に行く。案の定、20数人乗りのプロペラ双発機である。滑走路に動物が入ったとかで、飛行機から空港ビルに逆戻りして1時間あまり待たされたが、離陸してからは普通に飛んでくれた。上天気でヒマラヤが美しかった。

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*雲ではない。左がダウラギリ、右がアンナプルナ。ともに8000㍍を超えるジャイアントだ。

ルンビニーはタラーイ平原にあり、標高1400㍍のカトマンズとは大分気候が違う。

釈迦牟尼仏の生涯の四つの大きな出来事を四大事という。誕生、成道、初転法輪、入滅(入涅槃)である。これらにゆかりの聖地をインド四大仏跡と呼ぶ。順次、ルンビニー、ブッダガヤー、サールナート(鹿野園)、クシナガラである。このうちの三つはインド共和国内にあり、ルンビニーだけがネパール領内にある。

空港からまず私たちはルンビニーの中心、摩耶夫人(まやぶにん=マーヤーデーヴィー)堂の参拝に向かった。
フィールドワークの記録
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