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慧海と堺展

2016年09月29日
 今週の月曜日に堺市役所で記者発表があり、新たに発見された「明治35年の慧海日記」がベールを脱いだ。10月26日から始まる「慧海と堺」展で一般に公開される。
 明治35年5-6月、慧海は1年余りを過ごしたラッサを後にし、5重の関門を突破してチベット脱出に成功する。その模様は、彼の『チベット旅行記』に活写されているが、この日記は、そのスリリングな脱出行が事実であったことを裏付けるものである。

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 今回の発見により、第1回チベット旅行の最も重要な部分の日記がすべて出揃った。「慧海と堺」展では、この日記の他にも、慧海がびっしり書き込みをしたサラット・チャンドラ・ダースの『蔵英辞典』、慧海が肥下徳十郎に送った「くりぬき日記帳」、髙村光雲が慧海のために彫った釈迦牟尼仏立像など、注目すべき資料が、堺市博物館、清学院、山口家住宅の三箇所で展示される。
 
 11月3日、文化の日には、さかい利晶の杜で、講演とパネルディスカッションも開かれる。そのメニューは、高山龍三先生と私が30分ずつ話をしてから、吉川和子氏をお迎えしてパネルディスカッションをするというもの。

 今回は関連事業も充実しているので、以下に列挙しよう。

◇茶寮つぼ市製茶本舗「慧海と堺」関連展示と、ヒマラヤにちなむオリジナルチャイ新発売。梵字ワークショップ開催。
◇堺線香工業協同組合 堺の偉人線香第1弾「河口慧海」新発売。
◇天牛堺書展イオンモール堺鉄砲町店、堺東高島屋店 河口慧海関連ブックフェア
◇森のキッチン 「慧海と堺」関連パネル展示と映像、慧海にちなむカフェメニュー
◇紙cafe 「慧海と徳十郎」関連パネル展示 ネパール&チベット関連グッズ販売
◇堺環濠都市北部地区町なみ再生協議会 「慧海と堺」関連パネル展示
◇堺市立中央図書館 河口慧海関連ブックフェア
研究ノート

野中寺、高貴寺

2016年09月28日
24日(土)
 午後1時から、ウセルさん、チョウさんと、翌日のオープンキャンパスでの出し物について打合せと練習をする。

25日(日)
 高野山大学のオープンキャンパスの日。午後2時からチベット座談会と称して1時間ほどウセルさんに出演してもらった。チョウさんも自己紹介の形で参加。21日に来日したばかりのコウさんとテキさんにも加わってもらった。終わってから、4人を連れて山を下り、橋本の「ニューデリー」でインド料理の食事会をした。この店、チョウさんとウセルさんには既にお馴染みだが、コウさんとテキさんは本格的インド料理は初めてだったようだ。「インド料理屋は西安にもありますが、こういうものではありません・・・」

26日(月)
 埼玉からKさんが遊びに来て、堺近辺を一日車で回った。まずは羽曳野の野中(やちゅう)寺である。野中寺は、飛鳥時代に遡る古刹である。江戸中期以降は真言宗の律院として知られた。予定より少し早く着いたが、ご住職が資料を用意して既にお待ちであった。一通り説明を受けた後、食堂、沙弥寮、比丘寮など貴重な律院の建物を見せていただいた。

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*野中寺本堂。広々とした境内が古代の大伽藍を偲ばせる。

 昼食は外環状のファミレスで取り、時間を調整して、河南町の高貴寺に向かった。

 高貴寺は江戸時代の巨人的学僧、慈雲尊者飲光(じうんそんじゃおんこう)の寺として知られている。ここもまた僧坊の形式を温存している。お茶を頂いたあと、お不動さんと慈雲尊者の像を拝して、帰ろうとしたら、「字を書きませんか」。ついその気になる。
 最初は、縦棒一本。次は丸。調子が出てきたところで、梵字、漢字一字と進む。やっているうちに汗が出てきた。自分が書いたものをお土産にもらって、「また来ます」。

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*障子と敷居と鴨居に切り取られた秋の庭。まさに草深い山寺の風情である。

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*かつてここに住んだ「巨人」の神韻が今も感じられるような・・・

 最後は、深井の土塔である。行基菩薩が8世紀の前半に築いた13重の塔で、外見はちょっとしたピラミッドだ。この日は土塔でタイムアップ。Kさんを堺東駅に送って家に戻った。それにしても、野中寺→高貴寺→土塔のコースは、ずいぶん渋い選択だった。

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*大分前に一度来たきりで、その時分はこんなに整備が進んでいなかった。そのスケールはなかなかのものだ。

 こうしてあちこち回っている間にも新聞社からコメントを求める電話が入った。そのわけは、昨日付の新聞各紙かネットニュースを見てもらいたい。キーワードは河口慧海。
ある大学教員の日常茶飯

久方ぶりの里帰り

2016年09月24日
 シルバーウィークを利用して、久しぶりに里帰りし、母と兄に会ってきた。

20日(火)
 台風に追われるようにしながら東京に行き、本郷3丁目の学会事務局に原稿を提出した。○氏が、ちょっと気の毒そうに、「こちらに何か他に御用でも・・・」
「はい、いくつか。でも、他に何もなくても来ますよ」
 最終稿ができたのが、今日(締め切り日)の朝なのだから仕方がない。おかげで里帰りの切っ掛けができて、むしろ有り難いのである。
 外は台風の影響による雨である。レトロな喫茶店で熱いコーヒーを飲んだあと、長女に連絡し、池袋のデパートで手土産を買った。

21日(水)
 8時8分東京発のつばさで山形へ。駅前でレンタカーを借りて家へ行くと母と兄が待っていた。みなで郊外の観光物産館に行って食事をしたあと、長女夫婦と次女は次の目的地に向かって出発。私は実家に1泊した。

22日(木)
 遅く起き、午後、新幹線を乗り継いで帰途に就いた。車内で、山形駅ビルの本屋の郷土コーナーで買ったイザベラ・バードの『日本奥地紀行』(高梨健吉訳、平凡社)を読む。
 バードは明治11年に初めて日本を訪れ、東北・北海道まで旅をしている。その旅行記の中で、置賜(おきたま)盆地の印象を次のように語っている。

 「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。(中略)実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である」
 
 結構辛辣な批評の多いこの人が、置賜にかぎっては絶賛している。彼女の観察のすべてが実態に正確とは限らないが、山形県人としてこう言われて悪い気はしない。実際、小松にはバードの記念碑も立っているらしい。

 
 


ある大学教員の日常茶飯

おくやまに

2016年09月19日
夜明け前に鹿が鳴いた。それもすぐ近くで鳴いた。

きゅ~ん

と一声。何ともいえない憂いを含んだ声であった。

半分まだ眠ったままで、ああ、ウセルさんがよく鹿が来ると言っていたのはこれだなと思った。

声聞くときぞ秋は悲しき

だったかな。上の句はなんだ。・・・ああ、奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の、か、ハハ。

起きてスマホを開いたら、「サルの群がゴルフ場で人を襲った」ニュース。
サルが「きせいを上げて」襲ってきた、というところで、ケガをした男性には気の毒だが、ちょっとだけ、おかしかった。

「きせい」は奇声であって、まさか「気勢」じゃないだろう。でも、サルが奇声を上げる、という表現もどこか変だ。

何に怒ったのか、もしくは恐れたのかはしらないが、サルにとっては、自然に出た声である。奇声を上げたつもりはないに違いない。むしろ、サルが「コノヤロー」などと人に分かる言葉を発したら、もっと奇異だし、恐い。

鹿の声に無常を感じるのも、サルの声が奇妙だと思うのも、人のこころだ。

だが、それにしても、野生動物の力には人間など到底及ばないものがある。
このあいだ、熊を空手で撃退した男性が話題になったが、そのような心得のない私は、せいぜい出会わないように用心しなければならない。

ある大学教員の日常茶飯

しまらない話

2016年09月17日
9月17日(土)
 原稿の締め切りまで、今日を入れて、あと3日しかない。ここしばらくよく眠れなくて苦しんだが、昨夜は久しぶりにぐっすり休めた。今日できるだけのことをやる。明日は明日だ。

 8月18日、中国への出発前に関空でお土産を買った。ざっと計算すると6個は要る。北海道のお菓子でちょうどよさそうなのがあったので、6個買って、トランク(トロリーケース)に入れて鍵を掛けようとした。と、二つあるロックの一つが下りない。下りないから、鍵が掛けられない。あれ、と思って、その場に坐りこみ、トランクの中の荷物をならして、何回か試みたが、できない。その部分が多少曲がっていることは前から知っていた。おそらく飛行機への積みおろしの際に何かがぶつかってゆがんだのである。しかし、これまでこんなことはなかった。
 これはまずいぞ、と思い、慌ててベルトを買ってトランクに巻き付けた。結局、このトランク、半開きの状態で麗江まで旅したのであった。その後いろいろ試してみると、ある入れ方をすると鍵が掛かることが判明。今研究室に置いてあるが、どうしたものかと悩んでいる。

「預け入れ荷物は23キロが2個までですよ」
 北京を出る日の朝、Cさんが教えてくれた。わざわざ空港まで問い合わせてくれたという。
「あ、そお」
 と、なぜか私は聞き流してしまった。私のトランクの重さは、30キロはないにしても23キロ以上であることは確実である。しかし、その時は、寝ぼけた頭で、23キロが二つで46キロか、そこまでは到底いかないから大丈夫だ、と妙な計算をしてしまった。
 ところが、チェックインの段階で、係の女性にこう言われたのであった。
「オーバーです。一個23キロまでですよ」
 何だそういうことか、と気がつき、トランクをその場で開いて、本を何冊かつかみだすと、トランクの重さはたちまち下がって20キロ以下になった。問題は取り出した本の始末である。学会で配られた手提げ袋に詰めて、「はい、これも預けます」と出したら、彼女は、「ちゃんと梱包していないから、だめ」。

結局、手荷物にしたが、ぱんぱんにふくれたザックを背負った上に、本のぎっしり詰まった袋を提げた時には、身体が床にめり込みそうになった。

 中国の学会に行くと、分厚く重い論文集を二冊は渡される。今度の場合、学会を二つはしごしたから、×2である。どうりで、重い訳である。今後はこれに懲りて、出来るだけ身軽にしてでかけよう。

ある大学教員の日常茶飯

北京の一日

2016年09月12日
8月28日(日)
 この日は一日北京見物に費やした。まず雍和宮(ようわきゅう)に行き、J先生の案内で境内を巡る。雍和宮は北京最大のチベット仏教寺院である。参詣者が多く、中国が今仏教ブームにあることが実感される。
 次いで東交民巷(とうこうみんこう)に立ち寄って、旧日本公使館や旧横浜正金銀行北京支店の建物を確認する。昔の北京内城の東南部に位置するこの地区は、1900年夏に起きた北京籠城(外国人と中国人キリスト教徒が義和団と清国官兵に包囲されて立て籠もった事件)の舞台となった。北京には四五回来ているが、今まで訪れるチャンスがなかった。一度見ておきたいと思っていた場所だ。

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*線香が無料で配布されている。

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*以上、雍和宮の賑わい。

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*旧日本公使館

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*旧横浜正金銀行北京支店。今は中国法院博物館になっている。1910年竣工というから義和団事件より後の建物である。

 午後は妙応寺を訪れ、白塔や境内に建てられた阿尼哥(あにこ)の像などを見た。五台山のものと同じく、この寺の白塔も阿尼哥が建設したものだ。それから前門大街に行ってお土産を買ったことは前に述べた通りである。その夜もディナーパーティーでいろいろな人に会うことができた。

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*若々しい阿尼哥の像。現代の作だが、ネワールの職人集団を率いてチベットや元朝の中国で活躍した彼の面目をよく伝えている。

8月29日(月)
 早起きして荷造りし、7時に宿を出て北京首都空港に向かう。Cさんが最後の最後まで付き合ってくれた。日本を出る時からだから、実に12日間である。その間、Cさんの行き届いた配慮で、いろいろと見聞を広めることができた。中国人の付き合い方を身を以て知ることができたのが一番の収穫かもしれない。今度は私の番だと言われたら喜んで応じるだろう。それだけありがたい経験だった。
 北京・関空間の所要時間はおよそ3時間半。今までよりもずっと近くなったような気がしている。


 
フィールドワークの記録

北京秋天

2016年09月12日
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♪見たこともない野を越えて♪

8月27日(土)
 8時半から閉幕式が行われ、シンポジウムはめでたく閉じられた。10時、主催者が用意したバスに乗って北京に向かう。

 2時間ほど経った時だったと思う。Cさんが、「この辺りからが昔の燕ですよ」と教えてくれる。河北の大平原に入ったらしい。燕はむろん戦国の七雄の燕である。 燕といえば、太子丹(たん)、太子丹といえば荊軻(けいか)、荊軻といえば、 「風蕭蕭として易水寒く、壮士一たび去りて復た還らず」(『史記』刺客列伝)の絶唱である。思えば、高校生の私は、こういう悲壮感たっぷりなのが好きだったな。
 陳凱歌(チェン・カイコー)監督の「始皇帝暗殺」の場面が頭にちらついた。私はこの映画が嫌いではない。戦闘シーンにいまひとつ迫力を欠くうらみはあるが、戦闘シーンというものは史劇において人間ドラマを盛り上げるための道具立てにすぎない。なければものたりないが、それだけが売り物ではうすっぺらい。陳監督作品にはつきものの、目をそむけたくなるような残酷シーンもあるけれど、秦王政(始皇帝)を中心とする人間ドラマは結構見応えがあったと記憶する。趙姫を演じたコン・リーもよかったし。ただ政と趙姫の幼なじみコンビが仕組んだ暗殺計画が趙国の滅亡を招くという筋立ては何とかならなかったか、という気はする。趙姫が愚かに見えるのだ。
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*右に行くと周口店。北京原人の遺跡で知られる。

 やがて北京市内に入る。北京の秋空は、梅原龍三郎の絵ほどではないが、青かった。午後2時半、市内の西部でバスを降りる。そこからはまたCさん任せである。その晩は、Cさんの兄弟や知人たちに囲まれて楽しい時間を過ごした。

 
フィールドワークの記録

文殊菩薩と能海上師生誕130周年国際学術シンポジウム

2016年09月12日
8月26日
 午前8時過ぎから、ホテルの大ホールで盛大な開会式が行われ、シンポジウムが開幕した。早めに行くと、外国からの招待者は最前列の席である。写真をばちばち撮られるので、大人しく座っていた。

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*壇上には巨大なスクリーンが設置されている。

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 日本人ではただ一人、静先生が「発言嘉賓」として壇上に座られた。先生の発言は、密教僧として範を垂れるものであった。しめくくりの言葉は、

   え~、師匠から弟子に受け継いでいないものは密教ではありません。

 まさに獅子吼といってよい。これが聴衆の胸にどれだけ響いたかは分からないけれど。

 午前中は式典で終わり、昼食をはさんで、午後2時から分科会が行われた。私の発表「文殊菩薩と金剛陪囉嚩尊」は、分科会第1組であった。発表時間は5分しかなく、これをW先生が通訳してくれた。

 実は、自分の発表が終わったら分科会を脱けだして、西安から来た車で菩薩頂に行こうと目論み、Cさんに段取りを頼んでいた。ここまで来て菩薩頂を参拝しないわけにはいかない。二人は、昨日から五台山巡りを楽しんでいるが、3時頃には待機するという。ところが、分科会は、発表者の机をロ形に並べて、お互いににらめっこするような形になっている。ここから一人だけ出て行くのはあまりにも失礼である、ということで、菩薩頂はなくなく諦めた。また来い、ということだろう。

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*五台山のイメージキャラクター(?)智慧君。慈悲君もいる。

 4時、分科会が終了した後、関空で買っておいたお菓子を渡し、二人には西安に帰ってもらった。もしも私が、これから菩薩頂に行ってくれ、と言えば、二人は快く行ってくれたと思うが、往復すれば参拝の時間も含めて2時間はかかる。それでは西安に帰り着くのが真夜中なってしまう。安全第一である。

 夕飯は、J先生とこのホテルのオーナー氏のご厚意で、静先生をメインにした会食になった。
 



 
フィールドワークの記録

五台山参り

2016年09月09日
8月25日(木)
 今日は五台山の見学日である。バス数台で五台山の山懐に入ってゆく。この山は、文殊菩薩の霊地として古来信仰を集めてきた。ウセルさんだって、「リウォツェガ(五台山)には行きたいです」。
 施設のキャパシティーの問題からだろう。バス毎に違うコースをたどってゆく。私が入った組は、最初にリフトに乗って黛螺頂(たいらちょう)まで登り、五方文殊殿、大雄宝殿などを参拝した後、お寺の食堂で食事作法にのっとり昼食をいただいた。基本は沈黙である。メニューは結構豊富で、給仕の僧が回ってくるので、欲しければ食器を差し出せばよい。ただし、もらったものは食べ残してはならない。こういう作法は、中国の他のお寺でも同じらしい。私は食べるペースが遅いので、他の人に置いていかれないように必死で箸を動かした。終わって外に出たが、Cさんがもう一度中に入って、なかなか出てこない。ようやく出てきた彼女に何があったか聞いたら、「みなさんの食器を洗ってました。それがマナーなんです」。実に感心ではないか。
 
 黛螺頂からは山道を下りた。同じグループの尼さんたちと何となく一緒に歩いて行く。

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*右手の赤い建物群が菩薩頂、左手の白い塔があるのが塔院寺である。この塔は、フビライ・ハーンなどに仕えたネパールの工芸家阿尼哥(アニコ)が建てた。

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*尼さんたちも楽しんでいるようです。

 この頃になると、グループはばらばらになっている。こんなのでいいのかな、と思いながら、途中のお寺もちゃんと参拝してから、リフトの駅まで下っていくと、同じようにどこかで時間を使った人々が三々五々集まってくる。日本ならツアーコンダクターが頭から湯気を出して怒りそうな状況だが、ここは中国だ。このゆる~いペースがいいのだろう。
 それから顕通寺、塔院寺を巡ったところで、このツアーはおしまい。

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*高さ56メートル余の仏塔。すばらしいランドマークだ。

 ホテルに戻ったら、静先生と中安女史が着いていた。飛行機の故障で随分時間がかかったとのこと。この晩は、W先生からお座敷がかかり、先生の部屋で飲みながら情報交換に励んだ。
フィールドワークの記録

司馬遷の墓

2016年09月08日
♪人間好きになりたいために~♪

 ああ、中島みゆきの歌はどれも「希求」だな。あの名作「狼になりたい」からこの「一期一会」まで。
 帰国して10日、ようやく疲れも癒えてコンディションは上向きである。

8月24日(水)
 今日は大移動日。運転は漢族のRさん、助手席に座る女性は中国人には珍しく姓が2文字で、Cさんの話では、古代中国の大地を疾駆し王朝を建てた騎馬民族の末裔だ。この女性、常に笑みを絶やさず、その上実にしっかりとした感じの人である。
 9時に出発した私たちは、お昼前に韓城に着いた。ここでLさんの元部下を始めとする地元の人びとの歓迎を受け、レストランでお昼の接待を受けた。主賓の私を迎えるために、「日本料理」も一品頼んでくれていた。???という代物であったが、気持ちはありがたく受けた。
 食後、韓城を案内するので、古鎮がいいか、それとも司馬遷祠がいいか、と聞かれる。古鎮は剣川と麗江で体験してだいたいどんなものか想像がついたので、司馬遷祠を選んだ。司馬遷を祀る墓である。司馬遷は今の韓城市の出身で、墓もこの地にある。

  日本人も、高校生の時に『史記』を習うんですよ。「鴻門之会」とかね。

 と言ったら、「鴻門は西安の近くです」。いや、それは分かっているのだが。

 司馬遷祠(太史祠)は、韓城市街から離れた小高い丘の上にあった。かんかん照りである。電気自動車で麓まで行って、ここから往復一時間です、と聞かされた時には、内心どうしようと思ったが、言い出した手前、行くしかない。後でCさんに聞いたら、みんな「老師は我慢強い」と感心していたとか。
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*太史祠への道。道として相当年季が入っている。

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*司馬遷の墓。神さびた柏の木が時の流れを物語っている。学業の成就を祈願した。

 司馬遷が宮刑を受けたのは、匈奴に投降した李陵を擁護して武帝の怒りを買ったからであるという。坂道を登りながら、昔読んだ中島敦の「李陵」を思い出した。日本人の教養の基礎が漢籍にあったのは大昔の話だが、私のようなものですら、こうして次々と「想い出して」ゆくのであるから、その影響力はまだまだ大きいのである。

 お詣りは熱中症にならない程度で済んで、これで終わりかと思ったら、「名物の緬を食べていってもらいたい」。これもおいしくいただき、別れ際には、短いながらも縁の不思議を感じてしんみりした。韓城のみなさん、本当にありがとうございました。

 すでに午後3時を回っている。五台山はまだ遠い。山西省を北上する高速道路を飛ばしてゆくが、徐々に雲行きが怪しくなり、やがて雷雨となる。平遙を過ぎ、太原を過ぎる頃にはすっかり暗くなる。五台に入り、五台山麓の大きなホテルに着いたのは、9時半過ぎのことであった。韓城での滞在時間を引くと、事前の予想の半分ぐらいの時間しかかからなかった。道がそれだけよくなっているのである。

 Cさんがしゃきしゃきと動いて、学会の受付で手続きを済ませ、一言、「先生、一番広い部屋ですよ」
 ええ、まさか。だとしたら、いいかげんにしてほしいな。剣川でも広すぎたんだから。
 Cさんが言うとおり、私の部屋はスイートルームで、「トイレに行くにも足が疲れる」広さであった。

ホテルには北京からCさんの妹が着いていた。
 
フィールドワークの記録
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