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20年ぶりの西安

2016年09月07日
8月23日
 10:30の便で西安に飛んだ。CさんとLさん、そしてKさんが一緒である。

 西安は20年ぶりであった。私がこの町を五台山への中継地に選んだのは、Cさんの勧めによる。麗江から五台山へは適当な便がない。しかも、空港のある太原から五台山までは200キロ以上もある。へたすれば太原で1泊なのである。

 空港にはLさんの部下の男女二人が迎えにきてくれていた。この二人が、明日、私とCさんを780キロ離れた五台山まで車で送り届けてくれるのである。出発前、この計画を初めて聞いたとき、私は焦った。東京日本橋のたもとに設置された日本国道路元標によれば、その元標から青森市までが736キロ。それより40キロ以上も長いのである。どう考えても10数時間はかかろう。そんな迷惑はかけられない。
 しかし、Cさんは平然とこう言ったのであった。

 「これが中国人の人をもてなすやり方です」

 参りました。この旅の記の最初に書いた「この状況を楽しもう」の「この状況」というのは、こんな日本人としては、お尻がむずむずするような立場に置かれることを指している。旅の後半は、こういう状況が増えていく。

 車は西安の市街地に入る。最初に向かったのは大興善寺である。大興善寺は、唐代密教の大成者、不空三蔵ゆかりの寺である。Cさんが抜かりなく連絡してくれていて、同寺住職のK師も私を待っているという。K師は高野山とは深い縁の持ち主だが、私はお目に掛かるのが初めてだった。鋭敏な感じの人物である。

 大興善寺の次には、碑林博物館に向かった。20年前、私は西安で大雁塔、青龍寺、兵馬俑坑、陝西省歴史博物館、大興善寺などを回った。しかし、碑林博物館には行かなかった。そのことをこの20年、何度悔いたことか。ここで「大秦景教流行中国碑」のオリジナルを見て、私は深い満足を覚えた。高野山奥の院にはこの碑のレプリカがある。イギリスのゴルドン夫人が寄贈したものである。
 続いて、仏像を見る。目当ては、長安の安国寺址から発掘された密教尊像群だ。石碑にしても仏像にしても、とにかく数が多くて、時間がいくらあっても足りないようだった。適当に切り上げて、Lさんの待つ仏堂に向かう。西安の中心街から少し離れた高級住宅地にその仏堂はあった。すでに○○氏らが到着しており、ディナーのかたわら、有益な情報交換ができた。

 夜、寺に帰るKさんを送りがてら、大雁塔の辺りを散策した。どこへ行っても人が多い。

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*ライトアップされた鐘楼。


 
フィールドワークの記録

剣川から麗江へ

2016年09月07日
 この土日(9月3日、4日)、東大で日本印度学仏教学会の学術大会が開かれた。土曜日の朝東京に行って、午後の特別部会で発表し、総会・懇親会に出て神田のホテルに泊まった。日曜日、思わぬ事態が出来してタクシーで東大へ。何とか収めたが、はた迷惑な話であった。午前中は部会を回って興味をひかれた発表を聞き、午後から大乗仏教関係のパネルを途中まで聞いて帰路に就いた。5日は一日寝ていたが、6日は大阪の相愛大学で開かれた日本仏教学会学術大会に出席した。これは理事としての仕事である。3週間のうちに中国での2つを含めて学術大会4つに参加して3回発表、というのは、どう考えても無茶であった。今後は仕事を選ばねば。

さて、

8月21日
 中国密教国際学術検討会の二日目。6時に起床して、8時に発表というタイトなスケジュールである。私のタイトルは「印度撰《初会金剛頂経》的注釈資料考」。発表時間は通訳の時間を含めて20分が限度なので、提出した原稿をとびとびに読むのが精いっぱいであった。通訳は昨日と同じ楊さんにお願いしたが、楊さんは呼吸を合わせるのが上手いのでとても助かった。そのあとは、二つの部会を行ったり来たりして過ごす。夕方、部会付きの「秘書」たちが各部会の概況を発表、そのあと呂先生による総括などがあって、検討会はめでたく閉幕した。

8月22日
 ゆっくり起きて食堂に行った時には、他の日本人学者はすでに麗江空港から帰途に就いていた。10時、ホテルをチェックアウトして、CさんとCさんのお兄さんのLさん、そしてこの秋から高野山大学に留学にくる2人の青年と一緒に麗江に移動した。はじめはよく理解していなかったのだが、2人は、私に会う目的もあって、わざわざ遠くから検討会に来たのである。その気持ち、あだや疎かにはできない。

 この日は束河古鎮と麗江古城を見た。束河古鎮は麗江の市街地から少し離れたナシ族の古い村で、茶馬古道のルート上にある。麗江古城とともに世界遺産に登録されていて、観光地化は進んでいるが、まだ靜かで昔の面影が残っている。ナシ族の女たちが、観光客のために、テンポの速い甲高い歌声に合わせて、輪になって踊っていた。曲も踊りも単調な中に、そこはかとない哀愁が感じられた。

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*茶馬古道沿いの家並み。

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*三眼井。三段になった井戸。キノコを洗っている。

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*湧き水が豊かで、景観が美しい。

 茶馬古道沿いの、いかにも老舗風のお茶屋さんに入ると、プーアル茶を小さな碗に注いで何杯でも飲ませてくれる。ブランド名は「猿抱子」。好きな人は好きなんだろうなと思いながら、茶葉を円盤状に固めたものを一つ買って、研究所の職員へのお土産にした。3人いるので、「3つに割って、力ずくで分けてください」。

 麗江では、まず麗江市博物館を訪れたが、時間が遅かったため展示のほんの一部しか見ることができなかった。続いて、木府に急行し、ガイドといっしょに広大な邸内を見て回る。木府はナシ族の首領木氏の官邸。木氏は13世紀から470年にわたってこの地を治めた。こういう物資の集散地には、富が生まれ、権力が発生するというわけである。

 古城内で夕食にキノコ鍋を食べて、タクシーでホテルに戻った。古城内は完全にテーマパーク化しており、観光客相手の似たような小店がひしめいていた。どういう訳か、あちこちの店内で女性が同じ様な調子で太鼓を叩いている。夜になってますます人が増えた様子で、どの道筋も人の波であふれかえっている。これでは情緒も「情事」もあったものではない。

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フィールドワークの記録

学術検討会初日

2016年09月02日
 北京の前門大街で買った絹のスカーフが家族に好評。こんなに受けるなんて珍しい。

8月20日 
この日から2日間が学術検討会の本番である。朝暗いうちに起きて、発言のためのメモを作る。思えば、この辺から私の寝不足が始まった。
 午前中は開会式、記念写真撮影、テーマ講演。昼休みをはさんで、主題討論、個人発表と盛り沢山な内容である。

 主題討論は、「阿吒力教の性質、定位、名称について」である。以下は私の発言要旨。

 昨日、大理密教の文化の一端に触れる機会をいただいたことを感謝している。それはバラエティに富むもので、その一部は文化人類学や民俗学の対象となるであろう。しかし、ここに集まっている研究者の多くが仏教、特に密教に関心を持つ者であるから、やはり仏教・密教という観点から検討・考察することが有益だと思う。
 多くの専門家を前にして恐縮だが、昨日からの学習を通じて、私は次のように理解している。南詔時代に雲南の地にはインド密教と中原の密教の流入があった。それは大理国時代に発展し、以後、白族の文化との習合が進んだ。元明時代には民間に浸透して、今日に繋がるさまざまな文化現象に展開した。
 そこで、次の諸点について、専門家の方々にお教えいただきたい。
1.大理密教=白密は、どの系統の密教経典を保持しているのか。また大理密教に唐代の訳経とともに、無上瑜伽タントラを含む宋代の訳経の影響はないのか。
2.その相承系譜はどうなっているのか。
3.今日の阿吒力教はいつ頃形成されたのか。言い換えれば、大理密教史のどの段階から後を阿吒力教と呼ぶことができるのか。
4.チベット仏教の影響がないとすれば、それは何故か。
 以上のような点がこの検討会を通じて明らかにされることを望む。

続いて、次の7氏に発言してもらった。お名前のみ挙げる。
 田中公明(日本・中村元東方研究所専任研究員)
 イェール・ベントール(イスラエル・エルサレム・ヘブライ大学教授)
 スダン・シャーキャ(日本・種智院大学教授、宗教センター主任)
 厳基杓(韓国・檀国大学教授)
 李翎(中国国家博物館研究員)
 ミーガン・ブライスン(米国・テネシー大学ノックスヴィル校副教授)
 董国勝(大理地震局原局長・高級行程師)

 なお私の通訳は、陝西師範大学宗教研究センターの楊暁華さんに受け持ってもらった。日本で学位を取った優秀なモンゴル人女性研究者である。
 
 このセッションの後、分科会に分かれて個人発表が行われ、日本からの参加者では、高野山大学の川崎一洋講師と松長恵史准教授が発表した。発表時間は10分に制限されており、前言と結論くらいしか述べられないなかで、高野山大学の研究レベルの高さを出席者たちに印象づけたと思う。

 夜の8時から、ホテルの一画で阿吒力教の儀式が行われた。これが大変な見ものであった。私はふと、9世紀に古代チベット帝国が崩壊し、出家教団が解体した後の中央チベットで、民間の習俗と融合していった仏教というのは、これにいくらか似た雰囲気のものではなかったか、という想いにとらわれた。

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フィールドワークの記録

古城、石窟、古鎮

2016年09月01日
 中国東方航空機が、台風の影響で荒れ模様の関空に降り立ったのは、29日の午後であった。12日ぶりでメールの機能が回復した。公私ともにGoogleを使っているため中国ではまったく見ることができなかったのである。帰りのリムジンバスの中で確認してゆく。急ぎのメールは2通だけ。まあ、そんなもんである。なかには、終わってしまったことで、「これは修羅場だったな」などというのもあり、無責任なようだが、「いなくてよかった」。

 おっ、と思ったのは、今秋の「慧海祭」に関連する連絡だった。肥下徳十郎の写真が見つかったとして添付してある。泉ヶ丘駅前の中華屋でビールのジョッキを傾けつつ、その写真をながめているうちに、疲労がたまっていたせいか、つい涙腺が緩くなった。
「あなたが徳十郎さんですか。よくぞ慧海さんを支えられましたな」

 今秋、堺では河口慧海生誕150周年記念事業として「慧海やさかい」展、もとい「慧海と堺」展が賑々しく開かれる。

さて、

8月19日(金)
 早々とバイキングの朝食を済ませると、小雨の中、バス2台で参加者全員が仏教関係の遺跡・遺物の見学に出かけた。最初の目的地は、150キロほど離れた大理白(ぺー)族自治州の中心都市、大理である。
 大理古城内にある大理市博物館で、白族の学者で大理学院教授の張錫禄教授の案内を受け、石碑、仏像、仏具など大理密教の貴重な遺品の数々を見た。大理密教は白族の密教の意味で白密とも呼ばれる。また阿吒力(アジャリ)教と呼ばれることもあるが、あとで述べるように、用語の使い分けには注意を要する。

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*大理古城南門。今回はどこもそうだったが、城内は観光客であふれていた。

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 次に向かったのは、唐の開元年間に開かれた崇聖寺三塔である。ここも参拝者で大賑わいだった。広大な敷地に堂塔が点在し、宗教のテーマパークの趣であった。
 
昼食後、バスは剣川への道を戻り、途中から山道に分け入った。白族の民族衣装を着た女性が乗り込んできて、ガイドを始める。この女性、1時間以上もしゃべり詰めで、謡ったり、白語を教えたりと、ずいぶん芸達者な人だった。
 
 この辺りの山々は全山これ松山で、松茸がごっそり取れるらしい。時々バスの屋根に道に被さった木の枝がぶつかる。狭く、踏み外したら転落はまぬがれない崖の道を延々と行く。

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 着いたところは、石鐘山石窟である。石鐘の由来は上のような岩にあるらしい。私にはむしろ俵に見えるが。
ここの石窟寺院は南詔国時代に開窟が始まっている。白密の聖地の一つで、興味深い石像が多々見られる。ここら辺りについては、高野山大学の川崎講師が以前から実地調査を行っており、彼の独壇場だ。

 次いで向かったのは、沙渓古鎮である。古い由緒を持ち古建築の残る村落を古鎮に指定して保護を加え、同時に観光開発して客を呼び込もうとする。そんな場所のひとつらしい。

 中心は白族の寺、興教寺で、白密関係の展示がなかなか充実していた。今回の学術検討会の主題は、この白密にある。私は次の日の主題討論の主持人(司会者)兼最初の発言人に指名されているので、このエクスカーションの間中、俄勉強に努めた。発言は、それぞれの見地から自由に行えばいいわけであるが、白密について大雑把にでも知らなければ、まともなコメントはできない。

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*興教寺の門。中心にいる女性がガイドさん。

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*この寺の門前は、いい広場になっていて、古樹の下に観光用の馬たちが繋がれていた。この村は茶馬古道のルート上に位置している。

 この日の夕食は、歓迎の懇親会になり、白族の人たちの盛り上がりがすごかった。
フィールドワークの記録
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