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散々な出張

2015年10月26日
24日(土)
高野山大学同窓会東北支部の総会に出席するために、仙台に出張した。都合で飛行機ではなく、新幹線を乗り継いだ。

東京駅での乗り継ぎ時間に、改札口を出て、東京駅南口の真ん前にある中央郵便局に駆け込んだ。どうしてもこの日のうちに出しておきたい書類があったからだ。レターパックを買い、所定の書き込みをし、ついでに走り書きで手紙を書き、返信用の封筒を速達にして、もろもろをパックに入れ、封をして窓口に出した。時計を見ると、何と「はやぶさ15号」の出発まであと5分しかないではないか。急いで駅に戻ったが、構内は込んでいて、思うように進めない。その結果、1分ほどの差で乗り遅れてしまった。

仕方がないので、次の「はやぶさ17号」に乗ることにしたが、「はやぶさ」は全席指定で、自由席がなく、17号はすでに満席だったので、「立ち席特急券」という妙なものを買うはめになった。余裕をもって出てきているので、同窓会に遅刻する恐れはない。私は大学教員なので、1時間半程度の立ちっぱなしは講義で慣れている。それにしても、去年も列車では痛い目にあっている。

仙台市榴ヶ岡のホテルで開かれた同窓会はつつがなく終わり、タクシーで仙台駅近くのホテルに行ってチェックインした。

25日(日)
朝起きて、帰ることしか仕事がない。名掛丁で朝食を取って、8時55分の「はやぶさ」に乗った。13時20分過ぎに新大阪着。ホームの階段を下りてから気がついた。おみやげの袋を網棚に忘れたことに。駅の忘れ物係に直行する。今の今だから、すらすら情報が言えた。「のぞみ107号4号車17番C席です。中味は牛タンとモナカ」。御堂筋線の電車の中で電話を受けた。「お客様のものと思われる紙袋が発見されましたので、広島から着払いでお送りします」

散々な出張であった。







ある大学教員の日常茶飯

赤倉温泉の秋

2015年10月20日
1泊2日で赤倉温泉を再訪した。8月は4人のグループで賑やかだったが、今回は一人旅である。

10月18日(日)
9時10分発の特急サンダーバードで大阪を発つ。12時35分に上越妙高駅に到着して、8月と同じようにMさん、Iさんの出迎えを受ける。向かったのは、上越市のIさんのお宅である。そこで8月に倍する資料を見せていただいた。こうした資料は、いずれ地元で整理して展示会をすべきだというのが一致した意見であった。その後、吉木村に向かい、M一族の菩提寺専念寺、村の鎮守日吉神社を回った。

専念寺では意外の歓迎を受けた。この寺の大奥様はもうすぐ90歳に手が届くという人だが、頭がしっかりしていてお元気である。私見だが、概してお寺の老人は幸せそうに見える。日本のお寺はほとんどがファミリービジネスだから、家族がそれぞれの役割を持ち、協力し合う体制ができている。その中に老人の役割もちゃんとある。重要なのは檀家をはじめとする地域の人々との人間関係であり、昔からの付き合いが物を言うからである。またいい意味で上下関係がはっきりしており、年寄りは尊重され発言権がある。一般にお寺は早寝早起きで、広々しており、お経を唱えるのは身体にもいい。健康的なのである。

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*日吉神社の境内から眺めた吉木の村。稲刈りはもう終わっている。この神社には、この村出身で三井物産の重役になった間島與喜が寄進した石鳥居がある。

さて、日吉神社の岡を下り、Mさんの車で、赤倉温泉まで送ってもらった。赤倉温泉の標高は800メートルあり、高野山とほぼ同じである。にもかかわらず、高野山のように「山に登った」という感じがしないのは、真っ直ぐないい道を徐々に上るからのようだ。
8月と同じく、「高原ホテル 対山」に投宿。

19日(月)
朝食後に、「対山」のご主人Mさんに話を聞いた。Mさんは、赤倉に縁の深い岡倉天心の顕彰に尽力してきた。そしてその過程で平山郁夫画伯と深交を結んだ。平山先生の自宅アトリエにも招じ入れられたというから相当なものである。その他の話題でも、この人の話は無類におもしろい。途中から「岳雪荘」のKさんも来てくれて、話に加わる。貴重なひとときだった。話が終わってKさんが帰られたあと、赤倉本通りから「滝の湯」、「天心遺跡」の辺りをぶらぶらした。最後は「足湯」につかって12時半に対山に戻り、大女将さんの車で新幹線の上越妙高駅まで送ってもらった。

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*「天心遺跡」の六角堂もすっかり秋の色である。

これで赤倉は一段落である。自分で考えてもずいぶんエネルギーを注いだが、好きでやっていることである。実に爽やかな気分で帰路に就いた。

フィールドワークの記録

鴨川の畔で

2015年10月17日
何回目か前のブログ「昔見た夢」を書いていて、「ローマ」と書いた瞬間に、V先生から電話がかかってきた。こういうのをシンクロニシティというらしい。用件は、飲み会、いや講演会へのお誘いだったので喜んで受けた。

それが昨夕、京都大学人文科学研究所で午後6時から開かれた講演会であった。講師は、ナポリ東洋大学仏教研究センター長、ジャコメッラ・オロフィーノ先生。講題は「チベットのボン教における宇宙創生神話」。

2時半まで研究所で会議をこなし、それから山を下ったので、結局、最後の15分しか聞けなかった。その後、鴨川端の「まんざら」という満更でもないお店で懇親会。V先生は、予め私のやっていることをオロフィーノ先生に説明してくれていたらしく、比較的話がはずんだのであった。

帰宅したのは午前零時過ぎ。私にしては早めに失礼したので、京都で飲んでいて帰りの電車がなくなるという、何年かに一回の失敗は免れることができた。

それにしてもV先生のありがたいことよ。V先生であれば、プライベートなことも心を開いて話せる、というのは私だけではないだろう。それだけ心が広く、思いやりがあるのである。かなり遠いが、あやかる努力はしたいものだ。

ある大学教員の日常茶飯

イスティクラール通り

2015年10月12日
イスタンブル一の繁華街、イスティクラール通り。真夜中まで通行人が絶えない、という。オスマン帝国時代には、イギリス人やフランス人の町だった。高級店がたちならぶイスタンブルの「銀座通り」であるが、昨今は、安さ、手軽さが売り物の庶民的な店の進出が目立ち、様変わりが著しいと聞いた。

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*雑踏の中、文化財クラスのトラムヴァイがゆっくりと動いている。

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*運転席の側から見るとこの調子。

イスタンブルで見かけた女性たちは、臍だしルックから全身真っ黒で目だけ出しているチャードル姿まで、実にさまざま。各地からの人の流入が感じられた。

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*老舗焼き菓子店マルキスの壁画。ミュシャ風のアールヌーボーである。

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*チチェキ・パサージュ(花の小路)。アーケードにレストラン。

ところで、イスタンブールでなく、イスタンブルと表記していることに違和感を覚える人もおられると思う。専門家はみなイスタンブルなので、私もそれに従っているのだが、別にイスタンブールでも構わない。何より、地名表記は慣習だから。カーブルをカブールとするのも同じ事。

フィールドワークの記録

国会図書館関西館、ふたたび

2015年10月11日
10月10日(土)
ほぼ一年ぶりに国会図書館関西館に行った。驚いたことに、すいすい利用できた。ひとつは、二度目で勝手が分かっていたためだが、この一年の間の図書館側の努力も小さくはないと推察された。同じ土曜日だが、前回よりも利用者が幾分多く、静粛が保たれたなかにも、小さな活気が感じられた。悪くない変化である。

帰り道、桜之町の櫻館修築工事現場に寄ってみた。来月8日、ここで「大西保さんを偲ぶ会」が開かれるのでその下見である。S賀さんがいろいろ案内してくれた。江戸時代から続く町屋で、使えるように直すのはさぞかし大変だろうが、その分いい「場」ができそうであった。


ある大学教員の日常茶飯

除幕式関連行事二日目

2015年10月09日
アンベードカル像除幕関連行事の2日目の記録がまだだった。一ヶ月も経っていないのに、その後いろいろあったために、まるで遠い過去のように感じるから、今のうちに書き留めておこう。

9月10日(水)
朝9時、U田さん運転の車で西南院にチョパデ学長夫妻を迎えにゆく。学長に居心地を尋ねると、「高野山は美しい場所で最高だ」と満足そうであった。奥さんがサリーを着て正装していたので、午前中は奥之院と伽藍の参拝が予定されており、今日は天気もよくないことを考えて、クルタとパジャマに着替えてもらった。(奥さんは、参拝から戻った後、総持院で正装して式典に臨まれた。めでたし)。州首相の宿である総持院に行くと、玄関周辺はインド人、日本人の出入りで慌ただしい雰囲気であった。

今にも雨が降り出しそうなあいにくの天気の中、黒塗りの車を連ねて奥之院と大伽藍を回った。根本大塔参拝中についに強い雨が降り出す。総持院に戻って休憩の後、仁坂知事主催の食事会となった。私は参加の予定はなかったのだが、人数の関係か、言われてお相伴に与った。

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*奥之院の参道にて。

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*食事会でスピーチする仁坂知事。精進料理に加えて、仕出しのインド料理が用意された。私は、かぶせものが取れて治療中の歯が、ものを噛むとじわっと痛むので、残念ながら、この食事があまり楽しめなかった。

その後、大学の黎明館に舞台を移し、3時から、インド舞踊、趣意書調印式、スピーチ、そして仕上げにアンベードカル像の除幕式と進んだ。除幕式が終わると、一行はすぐに下山し、東京行きの新幹線に乗るために新大阪に向かった。これには、彼らのいうBullet Train(弾丸列車)への試乗の意味もあったので、それ自体重要なイベントだった。われわれもチョパデ学長夫妻の専用車でそれを追う。きちきちのスケジュール、それもところどころハプニングありの2日間は、新大阪駅でチョパデご夫妻をお見送りしたところで幕を閉じた。しかし、県庁のスタッフは一行を案内して東京へ。あと3日はこれが続くのだ。みなさんほんとうにご苦労様。今回の一連の行事は、和歌山県文化国際課スタッフのすごい馬力のお陰をもって何とか終えることができたのであった。

その晩遅く大学に戻り、研究室で日本印度学仏教学会学術大会での発表のレジュメ作りをする。飛行機の中で、とか、ホテルの部屋で夜やろう、などとつい逃げを打ちたくなるが、今までの経験からすると、細かいことは、そういうところでは、できっこないのである。レジュメだけでも作っておく必要がある。

木曜日、金曜日とこれを続けながら、旅行の準備をした。家に戻ったのは土曜日の午前中のことで、それからやっておくべき残りの数項目をつぶしにかかり、旅装を完全に整えて、午後7時5分泉ヶ丘発関空行きのリムジン・バスに乗った。フライトは10時30分発のトルコ航空第47便である。というわけで、ようやく「ハルビエ・オルドゥエヴィ」へつながる。

高野山大学の力

昔見た夢

2015年10月08日
9月17日(木)
シンポジウム2日目であるが、私は朝から別行動を許してもらい、一人で旧市街に出かけた。まだ考古学博物館を見ていなかったからだ。小泉と善連が訪れたと思われる場所でまだ行っていないのは、ドルマバフチェ宮殿、スィルケジの駅、考古学博物館などである。次にいつイスタンブルに来られるか分からない。特に考古学博物館は是非にという気持ちがあった。シュレイマニエ・ジャーミーとガラタ塔も行ってみたいが、これらは今回は無理だと判断していた。

考古学博物館は修理改装中であった。ここだけではなく、トプハーネのモスクもユルドゥズ宮殿のモスクも、観光シーズンなのになぜか、修理中であった。おかげで、考古学博物館の目玉の一つである伝アレクサンドロス大王の柩を見ることができなかったが、シュリーマンがトロイから発掘した遺物の一部などを見てそれなりに満足した。

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*金角湾の入口に張られていた大鉄鎖(考古学博物館)。これがあるためにメフメット2世は、艦隊を山越えさせるという奇策に打って出た。越えたのはペラの高台の辺りだというから、相当な急斜面を上り下りしたことになる。

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トラムのギュルハーネの駅から坂道を登って考古学博物館へ行く途中、道端に石棺や石柱が無造作に置かれていた。それが、昔見た夢の光景によく似ていた。でもあれは確か場所はローマだったような・・・

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博物館を出て、トプカプ宮殿の入口の土産物屋で厄除けの青目玉を買って買い物の仕上げをした後、ギュルハーネに戻ってトラムに乗った。スィルケジのオリエント急行の駅には我慢して降りず、終点のカバタシュまで乗る。それからドルマバフチェ宮殿の側を通って、海軍博物館まで歩いてゆくと、ちょうどいい時間で、まもなくシンポジウムが閉じられ、記念撮影の後、軍艦のクルージングに参加することができたのであった。(→軍艦でクルージング)

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*ルメリ・ヒサール(ヨーロッパ側の要塞)。ボスポラス海峡のほぼ中間点、海峡が最も狭まったところにあるこの要塞は、メフメット2世がコンスタンティノープルを攻略するために造営した。背後に見える吊り橋はボスポラス大橋。対岸のアジア側にはアナドル・ヒサール(アナトリア側の要塞)がある。

この日の夕食は、ハルビエ・オルドゥ・エヴィの23階のレストランでの日本勢の解散式となった。メインは魚料理。終わって、空港まで送ってもらい、堀川先生たちと一緒に飛行機に乗った。ゲートはメッカに大巡礼(ハッジ)に出かける人々で混雑していた。

 関空に着いたのは18日の夕方だった。 ここからは何日か前に書いた「心臓がドキドキ」につながる。

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*御世話になったM沢先生とトルコの人たちに感謝!

ついでながら、エルトゥールル号事件を題材にした日本・トルコ合作映画「海難1890」が12月5日に封切られる。
フィールドワークの記録

海軍博物館シンポジウム

2015年10月07日
二日連続受賞!今年はあと一、二個出るんじゃないかな?

9月16日(水)
今日は125年前に和歌山の海でオスマン帝国のフリゲート艦エルトゥールル号が沈没した日である。これに合わせ、この日から二日間にわたってイスタンブルの海軍博物館で開かれたのが、「エルトゥールル号の事跡における海軍および外交シンポジウム」である。

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発表者はトルコ人19人。日本人は:
堀川徹先生(京都外語大学)
小松久夫先生(東京外語大学)
三沢伸生先生(東洋大学)
中山紀子先生(中部大学)
今松泰先生(京都大学)
福田義昭先生(大阪大学)
大曲祐子先生(日本・トルコ協会)
という豪華メンバーに私を加えた8人であった。

日本の横井大使と主催者であるトルコ海軍司令部の総司令(参謀)ビュレント・ボスタンジュオウル提督のご挨拶の後、早速セッション1が始まった。

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(三沢先生撮影)。

私の論題は「「比叡」と「金剛」でコロンボからイスタンブルへ赴いた二人の日本人僧侶」(Kolombo’dan İstanbul’a Giden Hiei ve Kongo Gemilerine Refakat Eden İki Japon Budist Rahip)で、日本語からトルコ語へ同時通訳された。

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セッションが終わる毎に、発表者に賞状と記念品が贈られるのが新鮮だった。プレゼンターは提督(左端)だった。記念品はエルトゥールル号の模型で、私はこれを研究室の壁に掛けて、毎日眺めている。(三沢先生撮影)

夕方、この日のセッションが終了すると、イスタンブル北部のボスポラス海峡に面したレストランに移動し、夕食会が行われた。トルコ海軍一家総出という感じの豪華なパーティーであった。








フィールドワークの記録

ユルドゥズ宮殿、イスティクラール通り、アジア側

2015年10月04日
9月15日(火)
この日も、M沢先生のご案内を受けて、F田先生と、ユルドゥズ宮殿、 チュラーン宮殿、トプハネのモスク、イスティクラール通りのモスクなどを回った。
M沢先生は私の書いたものを丁寧に読んでいて、私の行きたそうな所を予めリストアップしていてくれたのだ。まったく頭が下がる。
私が書いたものというのは、善連法彦と小泉了諦が125年近く前に残した記録を整理したものである。二人は、セイロンのコロンボから「比叡」と「金剛」に便乗してこの町にやってきた。軍人ではないから、使節団の日程にしばられず、結構自由にこの町を歩き回っている。M沢先生にとって、イスタンブルは自宅の庭のようなものらしい。

「これが善連が言うボスポラス浜の球院だと思います」
「へ~」
「小泉と善連もあの坂道を登ったのでしょう」
「ほお~」

私は靴ずれもあって足が大分くたびれたので、つい、
「二人は歩き疲れたとは書いていませんが」
「昔の人は歩き慣れていたでしょうから」
まさにその通りである。

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*旅情ですなあ。♪岬のはずれに、少年は・・・♪
1889年のある日、イスタンブルの港から一隻の軍艦が極東目指す大航海へと旅立った。オスマン皇帝スルタン・アブデュル・ハミト二世の命を受け、日本の皇帝に親書と贈り物を届けるために。しかし、数百人の乗務員は二度と故国の土を踏めなかった。大島島民の決死の救難活動によって嵐の海から生還した69人を除いては。

夕方、渡し船に乗ってボスポラス海峡をアジア側に渡った。着いたところはカドゥキョイ地区。451年に、東ローマ皇帝の召集により、カルケドン公会議が開かれた場所だという。ここにあるM沢先生ご推奨のレストランで、今回参加の日本人全員に留学生も加えて食事会が開かれた。葡萄棚の下のテーブルでとても気持ちのよい夕べを過ごした。
フィールドワークの記録

タイル、タイル、タイル

2015年10月02日
9月14日(月)
昨夕から今朝にかけて、日本からの参加者が到着して、この日の朝食は賑やかなものになった。みなさん、トルコやアラブの専門家だ。
イスタンブル滞在中、朝食は2階のレストランで食べた。くだもの、蜂蜜、チーズ、ヨーグルトをよく取るので、お腹の調子がすこぶるよかった。

食後、それぞれの行動に移る。私はトプカプ宮殿の見学組に入る。
タクシン広場まで歩き、そこから地下に降りてケーブルカーに乗り、カバタシュでトラムバイ(路面電車)に乗り換えて、旧市街に向かう。この時に買ったイスタンブル・カードという交通機関用のプリペイドカードがあとまで役に立った。このあたり、イスタンブルに慣れた人ばかりなので実に気楽である。

イスタンブルは坂の町である。おまけに、石敷き、というよりは石を植えた路は歩きづらい。私は新調したばかりの靴を履いていたため、すっかり靴ずれを起こしてしまった。タクシー、バス、路面電車、地下鉄、ケーブルカーをどう乗りこなすかが、イスタンブル・レッスン初級の要点らしい。

トプカプ宮殿に入って、真っ先に向かったのはハレムである。ハレムは混むので先に見た方がよいという判断だ。一度かの有名なハレム(の跡)が見てみたい、というのは人情だろう。日本でも、江戸城の大奥が残っていたら今頃大人気スポットになっていたに違いない。
私は、デリーのラールキラーとアーグラのアーグラ城でも、ムガール皇帝のハレムだった場所を垣間見ているが、荒れているせいか、暗く閉鎖的な感じで、マイナスのイメージを持っていた。ここは、それとは大違いであった。

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ハレムはどの部屋もタイルが美しかった。イズニック・タイルとはこれを言うのだろう。あとのお土産のためにも、目を肥やすつもりでじっくり見ていたら、時間がどんどん過ぎた。それから宝物館に行こうとしたが、そこは待ちの行列が長大になっている。これは諦めて、陶器の部屋などを見てから、待ち合わせの場所に戻った。

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*トプカプ内の土産物屋で、こういう皿を買った。いや、これは考古学博物館内のタイル博物館にある16世紀イズニック・タイルの名品。これに似たやつを買ったのである。伝統柄のチューリップとカーネーションが組み合わせてある。こういうのを買いあさるためだけに、イスタンブルにもう一度行ってもいいくらいだ。

ランチはM沢先生お勧めのピデ(ピザ)屋に入って、ぱりっと焼き上げられた舟形のピザを食べた。それから大阪大学のF田先生と私は、M沢先生に案内されてグランド・バザールなどを回った。

私は、直前に見たテレビの旅番組の影響か、グランド・バザールに入れば、たちまち方々から「コンニチワ」、「ニホンジンデスカ」などの声がかかり、何かとちやほやされるのではないかという錯覚をどこかに持っていた。ところが、だれも「コニチワ」などとは言ってこない。
初めてかけけられた言葉は、「ニーハオ」。横を向いて相手にしなかったら、ようやく「コニチワ」。まあ、これでいいのである。外国の盛り場で日本語で声をかけてくる者がいたら、何かを売り付けるか、こちらにその気はないのに、勝手に着いてきて、あとで案内料をせしめようとするか、いずれにしても、ろくなことはない。

グランド・バザールを出て、本屋街を通り、イスタンブル大学の近くからタクシーに乗って、総主教座とギリシア人学校を見にゆく。それからバスで新市街に取って返し、イスティクラール通りのあちこちでお土産物色の手伝いをしてもらう。それにしても、M沢先生のガイダンスの、かゆいところに手が届くような丁寧さよ。自分はここまではできないが、こうあらねばならないと、つくづく感銘を受けた1日であった。



フィールドワークの記録
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