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スルタン・アフメット・ジャーミー

2015年09月28日
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*続いて行ったのが、1616年竣工のスルタン・アフメット・ジャーミー、通称ブルーモスク。ハギア・ソフィアに対峙するように立つこの堂々たるモスクにはミナレットが6本もある。

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*内部は唐草模様に花柄をまじえたタイルで埋められている。青が基調であることがブルーモスクの名の由来である。ステンドグラスからの光が堂内を様々な色合いに染めている。

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*何重にもなったアーチが音楽的な効果を上げている。

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*これはヌーリ・オスマニエ・ジャーミー(18世紀)。

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*ヌーリ・オスマニエの近くに有名なグランド・バザールの入口があるが、今日は日曜日なので閉まっている。門の上に付いているのはオスマン帝国の紋章である。トルコ航空機内で007シリーズの「スカイフォール」を見たが、冒頭の「つかみ」のアクションがまさにこのグランドバザールの屋根の上を走り回るバイクのチェイスだった。偶然か、それともサービスのひとつだったのか。

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*1777年創業の老舗菓子店ハジ・ベキルのエミノニュ支店。ここでロクムをお土産に買った。ゆべしを甘くしたようなもので、ナッツ入りがなかなかいける。トルコはお菓子がおいしい。こういう店があるところに文化の高さが感じられる。

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*それから金角湾にかかるガラタ橋を渡って新市街へ行く。橋の上は釣り人と観光客と買い物客でごったがえしている。丘の上に見えるのはガラタ塔。

テュネル駅から1区間だけの地下鉄に乗って丘の上に登る。かなりの急勾配を上り下りするこの地下鉄は開業から140年も経っているというから驚かされる。駅を出ると、イスタンブルの銀座通りと言われるイスティクラール通りである。裏通りの店でムール貝の串焼きをさかなに1杯だけビールを飲む。イスタンブルは魚介類が豊富だ。その後、タクシン広場まで行って、エルダル先生と別れ、オルドゥ・エヴィに戻って、長い一日を終えた。
フィールドワークの記録

ハギア・ソフィア

2015年09月26日
9月13日(日)
軍事博物館を出て、オルドゥ・エヴィに戻り、カフェでトルココーヒーとパンでブランチを取った。帰る途中で、歩道のカフェに寄ろうかとも考えたが、着いたばかりなので自重した。お金を払う段になって、プリペイド・カードかクレジット・カードの提示を求められる。今朝、空港のターンテーブルの近くで、預けたトランクが出てくるのを待つ間に両替していたのでトルコリラは持っていたが、現金は受け取らないという。仕方がないので、3トルコリラあまりをクレジット・カードで支払った。1トルコリラは約40円である。ちょっと驚いたが、後で三沢先生に聞くと、少額でもカード支払いがトルコでは普通なのだそうだ。

1時半頃、エルダル先生がやってきた。先生とは初対面である。日本語の達者な人で、柴田幹夫先生編の『大谷光瑞とアジア』(勉誠出版)にも「大谷光瑞とトルコ-建国の父ケマルパシャのパートナーとしての大谷光瑞」の一篇を寄稿しているから、興味のある人は読んでもらいたい。さて、どこへ行きますか、ということになって、予め三沢先生から、「初日に旧市街のアヤ・ソフィア、ブルーモスク、ヌリ・オスマニヤを見ておくと、後が楽です」とアドバイスを受けていたので、それに従うことにする。

シンポジウムの日程は、ころころ変わった挙げ句に、16日開幕に決している。したがって、今日を入れて3日はイスタンブル探訪に使える訳だ。

タクシーでガラタ橋を渡り、地下宮殿の入口近くで下りる。まずはランチということになり、カフェテリア式の食堂に入る。焼き魚を指指したら、鮭の大きな切り身を皿に放り込んでくれた。とても食べきれなかった。

さて、いよいよと言うか、ついにと言うか、ハギア(アヤ)・ソフィアを訪れる時がきた。もともと私の望みは、死ぬ前に一度イスタンブルを見ることだった。だから特に急いではいなかったのだが、それが研究の都合で早まったのである。なかでも最大の目標はこの大聖堂である。ここで詳しく述べることはとてもできないので、写真を何枚かキャプション付きで掲げることにする。

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*西暦360年に創建され、537年にビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世によって再建された大聖堂。オスマン帝国のコンスタンティノープル征服後、モスクに改装され、今は博物館になっている。

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*正面「皇帝の門」の上のモザイク画。中央に全能の救世主としてのキリスト。その前に額づくのは皇帝レオン6世。向かって左のメダリオンの中は聖母マリア、右のメダリオンの中は大天使。

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*つるつるの石畳。1400年以上前に造られた床の上を今自分が歩いているかと思うと、不思議な気分になる。

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*この圧倒的な量感。1453年5月29日、オスマン軍が、総攻撃によってテオドシウスの大城壁を破り、イェニチェリ軍団を先頭にして町に雪崩れ込んだ時、この聖堂に響いていたのは祈りの声か、はたまた絶望の叫びか・・・。歴史の重みをずしりと感ずる瞬間。

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*大理石の板の自然の文様がそのまま活かされている。

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*西南の入口。
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*門上のモザイク画。中央、幼子キリストを抱く聖母マリア。向かって右、コンスタンティノープルを捧げる大帝コンスタンティヌス1世。左、ハギア・ソフィアを捧げるユスティニアヌス1世。




フィールドワークの記録

ハルビエ・オルドゥエヴィ

2015年09月25日
9月13日午前5時半、トルコ航空機はイスタンブルの空港に降り立った。出口で海軍からの出迎えを受け、差し回しの車に乗り込む。助手席には自動小銃を持った兵士が乗っている。イスタンブルは特に治安が悪いとは聞いていないので、これは軍隊流の出迎えの作法なのだろう。天候は雨の後の曇り。イスタンブルは北緯41度で、函館とほぼ同じである。9月はかなり涼しいと聞いていたが、それほどでもなさそうだ。

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*夜明けのモスク。毎朝5時半過ぎにミナレットから朝の礼拝を促すアザーンが流れる。

車は金角湾に架かる橋を渡って新市街に入る。

6時45分、宿舎であるハルビエ・オルドゥ・エヴィに到着した。ハルビエは地名、オルドゥは軍、エヴィはホームの意という。後で聞くと、トルコ軍の保養施設である。少々古そうだが大きく立派な施設で、タクシン広場まで1キロ以内と立地もいい。
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*イスタンブルはどこへ行ってもトルコ国旗が翻っていた。日の丸は私たちのために揚げてくれたもの。さすが親日国である。

今日は、午後からボアジチ大学のエルダル先生が来てくれて、旧市街を案内してくれることになっている。それまでは休んでいていいのだが、2時間もすると外出したくなった。
ガイドブックを見ると、オルドゥ・エヴィのすぐ北に軍事博物館がある。さっそく出かける。

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*軍事博物館の入口に置かれた砲身(424㎝)。1453年のメフメット2世によるコンスタンティノープル攻略戦に使われた可能性があるという。事実とすれば、これぞ、テオドシウスの大城壁を撃った「国崩し」の巨砲である。

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*コンスタンティノープル攻防戦をパノラマ的に描いた絵。右下に大砲の模型も置いてある(軍事博物館)。

とにかく規模が大きい。疲れが取れないのか、途中から根気がなくなって、飛ばし飛ばしになったが、トルコ人の尚武の気風は十分に感じられた。中央アジアに発した彼らの先祖が何世紀もかけて西に移動して、最終的にこの地を得た。それまでにいったいどれほどの戦いを経験してきたか。

たまたま日本語の分かる館員がいて、その人から、日本に関係のある品は二つしかないと聞いて、確認しておいた。入口近くに展示してある日本刀と、朝鮮戦争時に入手したという日本製の小銃である。この博物館では、午後3~5時、有名なメフテル(軍楽)の実演が行われる。私はこれを楽しみにしていたのだが、結局時間が合わなくて見ることができなかった。
ハマム(蒸し風呂の共同浴場)も同様である。これらは次回に取っておこう。

なおイスタンブル滞在中、治安に不安を感ずるようなことはまったくなかった。イスタンブルは近代化の進んだ国際観光都市である。ただシリアに接するトルコ東南部は厳戒態勢がしかれているという。シリアから難民が押し寄せ、トルコからヨーロッパに渡ろうとして多くの悲劇を生んでいることは周知のことだ。
フィールドワークの記録

心臓がドキドキ・・・

2015年09月23日
大きな出来事が立て続けにあったため、どこから手をつけてよいのか分からないような状態である。

学術大会が終了した20日の晩、大円院で小峯先生、ドルチェ先生を囲んで内輪の懇親会を行った。それが終わって、研究室に戻って、種々「反省」に努めていると、急に胸の動悸が激しくなった。これは身体が悲鳴を上げているのだと理解。何しろ、17日は夜中のフライトの機中泊でろくに寝ていないし、18日は午後8時過ぎに帰宅して、家人に土産を渡すと、直ぐに御山に戻り、翌日午前4時半まで発表の準備(これはイスタンブルのホテルの部屋でやろうとして、案の定、できなかったこと)、朝は7時半集合で理事会受付などを行い、午後からは第10部会で司会と発表をこなし、夕方から懇親会で、その後もいろいろあり・・・というわけで毎晩2時間位しか睡眠が取れなかったのである。

これはまずいと思って曼荼羅荘に戻ってすぐに横になったが、動悸は朝まで収まらなかった。おかげで疲れているのによく眠れない。時差の影響も微妙に作用しているのだろう。何しろ、午前3時がトルコでは午後9時だ。やはり2時間ぐらい眠ったところで、無理に起床して一度研究室に行き、ドルチェさん用に、和歌山市のホテルから関空までの案内書を作る。ドルチェさんのフライトは22日の午前中の早い時間だ。高野山からではきついので、和歌山市内にホテルを取った。シルバーウィークまっさいちゅうで、大阪市内のホテルはどこも混んでいるという事情もあった。それに和歌山市内だと、今日の日程が楽なのである。

9時、大円院に二人を迎えに行ってイヌイさんの車で御山を下る。今日はちょっとしたエクスカーションで、ドルチェさんはもとより、私も楽しみにしていたのである。しかし、さすがに身体が重い。

まず天野の丹生都比売神社を訪ねる。ここで一つの出来事があった。詳述は控えるが、例の「ありふれた奇跡」、つまり、人と人との出会いである。その後、慈尊院を見てから、小峯先生を橋本駅まで送る。

街道筋の中華屋で昼食を取った後、根来寺、和歌山県立博物館を回り、中央郵便局で図録類などをロンドンに郵送するのを手伝った後、ドルチェさんをホテルまで送り届け、「また会いましょうね!」

橋本まで戻ったところで、イヌイさんと別れ、電車で帰途に就いた。胸の動悸はいつの間にか収まっていた。




ある大学教員の日常茶飯

軍艦でクルージング

2015年09月19日
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まさかとは思ったが、やってきたのは本当にトルコ海軍の軍艦だった。最終日、すべての発表が終わってから、今日はボスポラス海峡をクルージングしながらランチだ、と聞いて、埠頭で待っていたら・・・。正確に言えば、海軍の保有する接待艦らしい。一生に一度あるかないかの贅沢な時間であった。
フィールドワークの記録

高野山大学・マラサワダ大学趣意書調印式

2015年09月11日
2日間、インド・マハーラーシュトラ州からのお客様、特にマラサワダ大学のチョパデ副学長夫妻(副学長=Vice Chancellor, 学長は名誉職だから副学長が実質的な学長)の迎接にすべての時間を費やした。2日とも台風に起因する雨に祟られたが、結果はまずまずだったと思う。一夜明けて、上天気。これが1日前だったらという思いもあるが、一仕事終えて気分は清々しい。

われわれにとってのハイライトは、高野山大学とマラサワダ大学の提携に関わる趣意書の調印式であった。これが、ぶっつけ本番とは思えないほど見事に決まった。

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*趣意書への調印を終えて記念撮影。左から、ファドナヴィス・マハーラーシュトラ州首相、チョパデ・マラサワダ大学副学長、藤田光寛高野山大学学長、仁坂吉伸和歌山県知事。役者が揃ったという感じ。

学内の協力体制が万全だったこともあるが、やはり、今回の招聘の主体である仁坂知事率いる和歌山県、特に文化国際課の力が大きい。高野山大学は、そこに乗っからせてもらった格好である。和歌山県はマラサワダ大学のあるアウランガバードに事務所を持ち駐在員を置いている。この件では、今後も県のご協力を得たいものだ。


9月9日(水)
朝6時半、Wさん運転のワゴン車で関空に向けて出発。台風18号の接近で天気は雨だ。8時過ぎに関空に着き、昨日成田経由で先乗りしたM儀典長らに挨拶する。「今日はあいにくの天気だが、明日は晴れるでしょう」
シンガポールからの飛行機は、9時着の予定が、少し早く着き、ファドナヴィス・マハーラーシュトラ州首相一行も無事到着した。マハーラーシュトラ州はインドのほぼ中央にあって、人口は1億人以上。巨大産業貿易都市ムンバイを州都とするインド有数の先進地域だ。同時にこの州は、人類の至宝アジャンター、エローラを始めとする数々の文化遺産を抱えている。

私たちは、遅れて出てこられたマラサワダ大学のチョパデ副学長夫妻を迎えると、先発した一行の車列を追って、今日の催しの会場である大阪のホテル・ニューオータニに向かった。今日の行事は、専らこのホテルで行われるマハーラーシュトラ州の観光セミナーと投資セミナーである。

10時半にホテルに着くと観光セミナーがもう始まっていた。1時間ばかりそれを見た後、チョパデご夫妻に早めにランチを取ってもらい、学長の希望に副って大阪大学吹田キャンパスに表敬訪問に向かった。行った先は、生物工学国際交流センターである。急な訪問にもかかわらずセンター長が機敏に対応して下さり、私たちも案内した甲斐があった。

3時過ぎにホテルに戻ると、今度はJetro主催の投資セミナーが始まっていた。午前中の観光セミナーとはまた一味違う雰囲気で、おもしろかった。その後、場所を大阪南港に移動してもう一つセミナーを行った後、高野山に向かう。州首相一行も観光ではなく仕事に来たのである。実にタイトなスケジュールを精力的にこなしてゆく。

夕食は橋本の「ニューデリー」でインド料理。高野山の西南院に着いた時には午後10時を回っていた。藤田学長が花束をもって出迎える。遅いので、すべては明日ということで早々に失礼して大学まで送ってもらい、研究室でロンドン大学のルチア・ドルチェ先生に何回目かのメールを送った。ドルチェさんは、すでに書いたように、来たる19日、20日の両日、高野山大学で開かれる日本印度学仏教学会学術大会のパネル発表のパネリストの一人だ。彼女の招聘は私の発案なので、去年から連絡役を務めている。

というわけで、まだ二日目(昨日)が残っているが、イスタンブルへの出発は明日の夜なので、この辺で失礼したい。再開は、多分20日以降になる。







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イスタンブル・エルトゥールル号シンポジウム

2015年09月01日
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*トルコ記念館屋上から眺めた遭難現場(和歌山県串本町大島)
 説明板の上に見える岩礁がそれだ。

エルトゥールル号事件をテーマとするシンポジウムに参加するために、9月12日からイスタンブルに出かける。帰国は、日本印度学仏教学会学術大会@高野山大学が始まる前日の18日だ。
M沢先生からお誘いがあった時、この日程に大分躊躇した。だが、トルコ海軍省の主催のこのシンポジウムが、これまでのエルトゥールル号研究を総括するものと聞けば、行かざるを得ないではないか。
何とか学内の同意をいただき、晴れてイスタンブルに飛べることになった。

飛行時間12時間、時差は6時間で、12日の夜に出て、13日の早朝に到着する。それから2日ほどは自由時間があるので、エルトゥールル号の生存者を本国に送還するためにイスタンブルに向かう「比叡」と「金剛」にコロンボから便乗した小泉了諦と善連法彦が124年前に訪れた所をあちこち回る予定を立てている。もちろんバザールでのお土産の物色も欠かせない。

これが一つ。二つ目が5月に予定されていてマハーラーシュトラ州側の都合で延期になったアンベードカル博士の銅像の除幕式が9月10日に開催される。これに合わせてインドから大勢の人が御山にやって来る。3月に訪問したオーランガバードのマラサワダ大学の学長もその一人。連絡係を務めているのは私だ。

三つ目は、19日、20日の日本印度学仏教学会の学術大会。個人の発表の他に、基本構想を立てるのを手伝ったパネルディスカッションが、ロンドン大学東洋アフリカ学院のルチア・ドルチェ先生、立教大学名誉教授の小峯和明先生を迎えて開催される。テーマは「中世の密教儀礼と舎利信仰」だ。これも楽しみだ。

というわけで、今月はちょっと忙しい。学会が終われば一段落だが、後期の授業が始まる前にもう一度赤倉に行こうかとも考えており・・・

研究ノート
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