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吉村昭『冬の鷹』

2015年06月17日
土曜日、泉ヶ丘の紀伊國屋書店に文房具を買いに行ったついでに、何か一冊と思い、つい吉村昭の『冬の鷹』(新潮文庫)に手を出してしまった。この忙しいのに、この晩はそればかり読んでいた。この小説を読むのは初めてではない。今から30数年前、法学部の友人の先輩から、これがいいという話を聞いて、読んだことがあった。

この小説の主人公は、『ターヘル・アナトミア』(邦題『解体新書』)の実質的な翻訳者である前野良沢である。彼の生き方が、同じくこの書の翻訳・出版に携わった杉田玄白の生き方と対蹠的に描かれる。むろん著者の思い入れは、本書の出版によって功成り名遂げた玄白よりも、不完全なものに訳者として名を残すことを拒否し、世間的な栄達に背を向けて、蘭学者としての道を追究していった良沢の方に深い。前に読んだときには、私も同感だった。しかし、今回は読後感が少し違ったものになった。ひたすら自己に沈潜し、清貧に生きることは、美しいが、エゴイスティックでもある。『解体新書』そのものの価値を考えれば、「とりあえず出しちゃう」決断をした玄白さんの方がよほど偉いともいえる。また、玄白は、結果的には富と後世まで残る名声を手に入れるのだが、当初は蘭書の出版主として、良沢よりも遙かに大きなリスクを踏んだのである。

ともかく、この二人に、中川淳庵、桂川甫周を加えた学者グループの、『ターヘル・アナトミア』との静かだが息づまるような闘いは、読み応え十分である。これも(調査力も含めた)筆力だなあ。
読書ノート
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