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総合診断

2014年10月31日
女性医師「血圧が高めですね」
私「ええ、白衣を見ると血圧が上がりまして」
女性医師「は?」
私「いやほんとに。さっきロビーで自分で計ったら大分下がってました」
女性医師「じゃあ、自分で血圧計を買って、自宅で時々計る習慣を付けて下さい。お宅では白衣は見ないでしょうし」
私「それもそうですね・・・そうします」
女性医師「トータルカロリーが少し高めですね。肉や油ものが好きですか」
私「油は意識して取らないようにしてます。夕食なんか、納豆と豆腐と豆乳ですませています」
女性医師「理想的です。運動はなさってますか」
私「全然、してません。自慢じゃないですけど」
女性医師「意識的に運動することをお勧めします」
私「階段上りなんかどうでしょうか」
女性医師「いいですね。それから●●に××が見られますが、大丈夫です。心配ありません」
私「ははっ」

というわけで年に一度の「人間ドック」のお勤めを終えた。鼻から胃カメラを入れられてしんどかったが、口から入れるよりはちょっとましだった。クリニックからもらったホテルの食事券でビーフストロガノフ、ケーキ・紅茶付きを平らげて帰途についた。
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*クリニックのロビーから眺める堺港。南蛮船が行き交った頃の面影はない。右端にうっすらと見えている山並みは神戸の六甲山。
ある大学教員の日常茶飯

茨城県稲敷郡河内町 妙行寺

2014年10月29日
10月25日(土)
午前11時から、隊長の49日法要が泉北のK寺で行われた。参列者は隊長の家族・親戚がほとんどで、その以外で呼ばれたのは4人だけだった。そのあと、泉ヶ丘のパンジョの豆腐料理店で会食があった。お寺で、隊長が去年入院前に書いた「『河口慧海の道』(上トルボ)を行く」(『登山時報』2012年12月号)が配られた。隊長のいわば絶筆である。それが、隊長が執念を持って探索した慧海のトルボ越境ルートの案内であることに深い感慨を覚えた。何年先になるかは分からないが、私も身体を鍛えて、この道を歩きに行こうと思った。

10月26日(日)
正午過ぎに東京駅でK野先生と待ち合わせ、上野から常磐線に乗る。佐貫で下りて、大宮師の出迎えを受け、車で河内町の妙行寺に向かった。天台宗妙行寺は大宮孝潤(おおみや・こうにん)のお寺である。
『チベット旅行記』の注意深い読者は大宮の名前をご記憶かもしれない。旅行記の終わり近く、チベットを脱出した慧海がカルカッタに出て転がり込んだのが、大宮の寓居だった。大宮は明治28年末にインド留学に旅立ち、途中1年余りの一時帰国をはさんで、明治39年4月までおよそ8年間、ボンベイ、スリランカのコロンボ、そしてカルカッタで勉強した。

大宮は江戸日本橋の米問屋の息子で、家が没落した後、父親の故郷に近い常陸国行方郡麻生村の他家に養子に行った兄の元に母親と共に身を寄せ、やがて縁あって妙行寺に入り、11歳で得度した。

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*大宮の第二の故郷は、利根川流域の低湿地帯を開発した豊かで広々とした米作地帯だ。その反面、かつては坂東太郎の氾濫に悩まされた歴史を持つ。このような土地柄が、インド留学後、新進気鋭のインド学者として活動を始めた大宮孝潤の人生を一転させたのだ。私は長いことこの景色を見たいと思ってきた。

妙行寺では、たくさんの資料を見せて頂いた。毎度同じ事を言っているようですが、このご恩は研究成果を出すことでお返しします。2時間弱お邪魔した後、また佐貫まで送ってもらって、東京に戻り、ハロウィーンで賑わう池袋駅前のホテルに投宿した。

10月27日(月)
午前9時過ぎから大正大学図書館で古い雑誌を閲覧した。午後5時過ぎまでたっぷり8時間近く堪能させてもらった。
フィールドワークの記録

国立国会図書館 関西館

2014年10月23日
すばらしい秋晴れの土曜日、一念発起して、国立国会図書館関西館に行ってみた。


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とにかく凄い建物である。
正面入口を入り、ゆるやかなスロープを下りてゆくと、突き当たりが受付であった。

勝手が分からずまごついていると、「挙動不審者発見!」とばかりに、警備員ならぬ、女性職員が飛んできて、いろいろ説明を始めた。私は、とまどうと怒りだす、という厄介な性格の持ち主である。どうしても仏頂面になる。しかし、彼女は飽くまで丁寧でにこやかであった。多分、私のような訪問者が一日に何人かはあるのだろう。

期限の切れた利用証(東京永田町の本館で作った)を作り直してもらい、鞄をロッカーにしまった。ついでに言うと、ロッカーを施錠するための100円玉がなかったので、カウンターで借してもらった。それでようやく、ゲートを通って閲覧室へ。

そこはまるで壮大な神殿だった。こういうのを「知の殿堂」と呼ぶのだろうね。惜しむらくは、土曜日の午後だというのに閲覧者がずいぶん少ないことだ。まあ、この辺は、資料の電子化が進んでいるので、直接足を運ぶ必要が少ないのだろうと、好意的に解釈する。

端末で目当ての雑誌を探し当て、そこでまた一悶着あったのだが、何とか複写依頼を出すことができた。カウンターで順番札を渡され、ものの20分も待つと、ちゃんとコピーがもらえた。複写料は(東京と違って)安い。

なかなかの資料が手に入ったので、帰りは、にこにこだった。
ある大学教員の日常茶飯

善連法彦の『土耳其行紀事』

2014年10月15日
台風一過晴天とはならず、昨日今日やけに寒い。

14日の夜明け前に原稿がだいたいできた。それから改めて投稿規定を読み直したら、横書きは読点の代わりにコンマを使え、原稿は2段組にせよ、紙媒体を投稿票と一緒に郵送せよ、英語のデータを付けろ、など結構細かい。こういうのは投稿には付きものだが、身心の疲れがピークに達していたため、のろのろ対処していたら、完全に夜が明けた。

私はまず徹夜はしない。お勉強はマラソンのようなものだから、ペースが大事で、急に全力で走ったりすると後が恐いのである。しかし、今回は止むを得ない事態であった。

でもこれくらいやると見えてくるものがあるのも確かなことだ。

今回扱ったのは、善連法彦(よしつら・ほうげん)が残した『土耳其(トルコ)行紀事』という手記である。善連は明治26年に28歳の若さで世を去っている。彼よりも2倍以上も生きて、退嬰的な生活をしている私は、せめて彼の思いを広く伝える仕事をしたいと思っている。

この手記を読むと、明治24年の1月に、前年熊野灘で遭難したトルコの軍艦エルトゥールル号の生存者たちを乗せてイスタンブルに到着した「比叡」と「金剛」の乗組員たちが、トルコの人々から熱い歓迎を受けた様子がよく分かる。

タイトルの『土耳其行紀事』の英訳は、昨日の夜明けに考えて、An Account of Travels to the Ottoman Empireとしておいた。Turkeyとしないで、Ottoman Empire(オスマン帝国)としたのがこだわりです。
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3連休

2014年10月12日
大型台風が近づいているためか、妙に静かな連休である。一昨日から山内放送が、「ドノー(土嚢)が必要な方は役場又は支所までお知らせ下さい」とやっている。近頃天変地異が続くせいだろう。こういう広報が全体的に早くなっているような気がする。

原稿を書くために御山にいる。昨日の朝は出がけにこう自分に言い聞かせた。

今日進まなかったら白旗を上げるんだな。

今朝は、

あと12時間が限度だ。ギアを上げろ。

今、日曜日の午後11時。あと30分で帰って寝よう。明日は何と言って自分を鼓舞しようかな。


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ある大学教員の日常茶飯

高野山で観る皆既月食

2014年10月08日
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おお、結構いけるじゃないか。よくみると星々も一緒に写ってる。

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おっとっと、こりゃぶれた。

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うむむ、まだぶれてるけど、オレの腕じゃ、これが限界か・・・
ある大学教員の日常茶飯

戸田文化講座 高野紙

2014年10月02日
午前3時までかかって原稿を書き上げたので、一昨日は一日中眠かった。論文ではなく、紹介文のようなものだが、意外なほどてこずった。担当のM田先生には迷惑をかけたが、喜んでもらっているようなので、投稿してよかったと思っている。ただそのために「次」に使うことができる時間が減ったのが痛い。どう対処するか、今日中に対策を練らなければならない。

本日午後4時40分より図書館閲覧室で「戸田文化講座」が開かれた。図書館主催で時々開かれる、なかなか結構な講演会だ。今日の講師は高野紙の漉き手、飯野尚子さん、お題は「高野紙(こうやがみ)の歴史と現在」であった。
飯野さんは高野山大学大学院修士課程の修了者でもあるから、まあ、身内だ。それがいつのまにか、高野紙漉きの唯一の伝承者になっていた。

高野紙は、高野山麓の村々で漉かれていた和紙である。かつて高野山では仏教書を中心とする出版が盛んで、高野版と呼ばれた。そこに紙の需要があったのである。

飯野さんによると、高野紙の製法は、よその手漉き和紙とはかなり違っており、簀(す)などの道具類も全部手作りだという。紙とその原料の楮などの実物を見せながらの分かりやすいお話に加えて、簀の編み方の実演もやってくださり、とても勉強になった。

ついでだからと思って、飯野さんにチベットの紙を見てもらった。以前、四川省のデルゲ(徳格)のパルカン前の店で買った経典と、K先生から借りている、ある手紙である。飯野さんによると経典の紙は簀で漉かれているが、手紙の紙は布で漉いたものではないかということだった。

ちなみにこの手紙、100年近く前に書かれた、ちょっとびっくりするものである。いずれ発表するのでお楽しみに。

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*楮の標本を持つ某先生。
「こうぞは、こうぞ」
「ふぁーい、分かりましたあ」






高野山大学の力
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