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高野山米国別院

2013年10月29日
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*日本の小学校の校庭からはとっくに姿を消したこの人がリトルトーキョーを闊歩していた。相変わらず薪を背負いながら、本を読んでいる。偉いねえ。

10月7日(月)
朝、フロントにタクシーを呼んでもらうと、やってきたドライバーは大阪出身の純日本人男性だった。行く先を聞いて、彼、「何でしたら、3時間150ドルでサンタモニカ、ビバリーヒルズ、ハリウッドを回るというのはどないでっしゃろ」ともちかけてくる。
ハリウッドに行くだけでも7,80ドルかかるというから、3時間150ドルにはお得感がある。それにリトルトーキョーを訪ねるのは午後からの方がいいだろう。最後にリトルトーキョーで降ろしてもらうことで話がまとまった。

月曜日の午前中、それも渋滞時間を過ぎた頃だったので、タクシーはすいすい進んだ。ドライバー氏の話では、最近の日本人は以前のように団体旅行をしなくなった、今団体で来るのは第一に中国人だという。

そうしているうちに車はサンタモニカに入る。

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*サンタモニカ・ピアの突端。♪きた、きた、きた、きた、サンタ…♪
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*ルート66の標識に「フォレスト・ガンプ」を偲ぶ。背景の建物はシーフード・レストランで、名前は「ババ・ガンプ・シュリンプ・コーポレーション」とある。おおい、映画そのままじゃないか。

ビバリーヒルズに入るとドライバー氏が要所要所で解説してくれる。
「このビバリーヒルトンは、ホイットニー・ヒューストンが亡くなった場所ですわ」
「このウィルシャー・ホテルは、『プリティーウーマン』のロケに使われた場所で・・・」
「この庁舎の地下に『ビバリーヒルズ・コップ』に出てくる警察署が・・・」
「この通りがサンセット・ブルヴァード(「サンセット大通り」のサンセット大通り)でして・・・」

チャイニーズシアターの横で降り、車が30分ほど余所に行っている間に、急いでそこいらを見て回る。

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*ウォーク・オブ・フェイム
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*マイケル・ジャクソンの手形・靴跡
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*ドナルドダックの足形。やっぱり水かきの形だね。

それからリトルトーキョーに行ってミヤコ・ホテルの前で降ろしてもらう。超過料金にチップを上乗せして締めて205ドルであった。

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*高野山米国別院

別院に顔を出すと、「先生方は会合で出かけていて2時過ぎに戻る」ということだった。また来ることにして、先に1st Streetの向かい側の日系人博物館に向かう。ところが、何ちゅーことか、今日は月曜の定休日。阪南大学の守屋先生にここでの資料調査を勧められていただけに、2日連続の休みにはがっかりした。また来いということなのだろう。

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*博物館の裏手には、第2次大戦中の日系人部隊の記念碑がある。主にヨーロッパ戦線に投入された彼らは、敵だけでなく、味方の差別や偏見とも戦わなければならなかった。しかも彼らの留守家族の多くは強制収容所に収監されていたのである。だからこそ忠誠心を示すために一層勇戦し、多くの死傷者を出したのが悲しい。碑文には「当たって砕けろ(Go for broke)」という彼らのモットーのほかに、「二世は無数の命を救い、戦争を二年早く終わらせた」という言葉も見える。

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*二世部隊が日系アメリカ人の過去の英雄なら、現代の英雄はこの人。1986年1月、スペースシャトル・チャレンジャー号の事故で殉職したハワイ出身のエリソン・ショージ・オニヅカ大佐だ。リトルトーキョーには彼を記念したオニヅカ通りがある。

気を取り直して西本願寺別院(本派本願寺羅府別院)に向かう。実はロスに来た最大の目的はここを訪ねて、川上貞信の資料を探すことにあった。川上貞信は熊本出身の本願寺派僧侶で、セイロン、インド、ビルマ、中国、アメリカと行動半径が大きかった人物である。私はこの人を10年以上も追いかけている。アメリカ西海岸には最初開拓でやってきて、それからロサンゼルスで布教に従事した。私の手元には、彼の、どうみてもアメリカ時代に違いない写真があるので、そのコピーを持参した。

事務所で案内を請うと、開教師のN田先生が出てきてとても丁寧に応対して下さった。N田先生はさらに私にM山さんという、この種の資料に詳しい日系人女性を紹介してくださった。M山さんとはメールをやりとりしただけだが、また親切な人で、帰国後もメールでいろいろ教えてくれた。お二人のおかげで分かったことが大分ある。いずれきちんとした形で報告できるだろう。

その後、頃合いを見計らって再び高野山別院に行くと、加古啓真君がニコニコしながら出迎えてくれた。加古君は高野山大学の出身で、駐在開教師としてロスに赴任して3年目だ。この別院の前監である宮田諦詮先生にもご挨拶する。偶然にも加古君はガーデナ地区の私がいるホテルの近くに住んでいたので、彼の仕事が終わる6時半までリトルトーキョーを巡りながら待って、彼の車でホテルまで送ってもらった。

リトルトーキョーで2回和食を食べたが、量だけ多くてあまりおいしくなかった、と私が言うと、加古君はやや憤然として、ロスにもおいしい和食の店がありますよ、と主張する。そこでガーデナ地区の彼が推奨する店に案内してもらって、いっしょに夕食を取った。確かに味はなかなかであったが、それより、若手の真言宗僧侶にいろいろと抱負を聞くことができたのがよかった。

10月8日(火)
早起きしてフロントでホテル代を払い、5時半に予約してあったタクシーで空港に向かう。入国時には指紋と顔写真を取られたが、出国手続きは実に簡単であった。チェックインカウンターで自動チェックイン機にパスポートをかけると、ボーディングパスが出てくる。あとはスーツケースを預け、バッゲージクレイムタグをもらって終わり。早く行き過ぎて時間が余ったので、空港内で朝食を食べたり、土産物を物色したりして過ごす。

ロサンゼルスからサンフランシスコまでは1時間半ほどかかった。サンフランシスコ空港は今回訪れた中では一番忙しそうな空港だった。乗り換え時間は1時間10分しかない。
この乗り換え時間の少なさが事前の心配の種だった。飛行機が20分やそこら遅れるのは珍しいことではない。下手をするとボーディングタイムが過ぎてもまだ空港内をうろうろしていることになりかねない。そこで念のため私の知る二人のアメリカ人に聞いてみた。
コロラド・カレッジのガーデナー氏「ピストル(治安)よりも乗り遅れる方が恐いよ」
本学のドラさん「ボクの知り合いが昔サンフランシスコ空港の中を荷物をかかえてマラソンしたんですよね」

いずれも、私がほしかったのとは逆の答えである。だが、結局、飛行機は時間通りにサンフランシスコに着き、私は特にまごつくこともなく国内線から国際線の所定のゲートにたどりつき、お土産の免税品もちゃんと確保できたのであった。

11時半、関空行のユナイテッド機が離陸。うつらうつらしたり、映画を「ローンレンジャー」「ワールドウォーZ」「今そこにある危機(Clear and Present Danger)」と3本も見たり、機内食を食べたりしているうちに飛行機は日付変更線を越える。関空に降り立ったのは9日の午後3時半だった。(この話題はこれでおしまい。ふーッ)

















フィールドワークの記録

ロサンゼルスへ

2013年10月27日
10月6日(日)
3時頃目が覚めた。こっちに来てからはこんな調子で困ったのだが、この日ばかりはこれで助かった。4時半に予約された空港行きのタクシーに吉永先生、ブリティッシュコロンビア大学のナムリン・ハール先生と乗ることになっていたからである。タクシーは大分前に予約する必要がある。日本のような流しのタクシーはない。おまけにフロントはこんな早朝には誰も起きていない。乗り遅れたら大変なことになっていたはずである。

二人とは空港で別れ、私は一人シカゴ経由でロサンゼルスに向かった。

ローリー・ダーラム空港発が7時、シカゴのオヘア空港で乗り換えて、ロサンゼルス空港着が11時半であったが、その間にタイムゾーンを二つ飛び越えて三つ目に入っているから、掛かった時間は3時間プラスである。

ロサンゼルス空港からガーデナ地区のホテルまではタクシーで40ドルかからなかった。ガーデナを選んだ理由はただ空港に近いということだけである。後で聞いた話では、ガーデナはもともと日系人が多く、治安は比較的よいという。ただここはダウンタウンには遠く、タクシー代がかさむ。もっともこの地区のホテルはダウンタウンに比べて割安だから、そこのところをどう考えるかである。

フロントでは日系人らしい女性が日本語で迎えてくれた。

部屋でしばらく休んでから行動を再開。フロントでタクシーを呼んでもらってリトルトーキョーへ向かった。しばらく高速を走ると、渋滞に引っかかった。サムというドライバーの話では、ロサンゼルスは世界で7番目の大都市だが、交通事情の悪さは世界で3番目だそうな。途中から高速を下りて一般道を走る。

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サムは、帰りも呼んでくれとか、明日5時間300ドルで市内観光はどうだとか、しきりに持ちかけてくるが、縛られるのがいやなので全部断ってしまう。

リトルトーキョーに着き、ミヤコ・ホテルの前でタクシーを降りる。私の目当ては、高野山米国別院である。それはミヤコ・ホテルのほぼ隣にあるのだが、最初はその入口に気づかず、通り過ぎて日本村に入ってしまった。入口に昔の出雲大社の神殿のような足の長い神社がそびえる日本村は、土産物屋とレストランが集まった日本大衆文化の出店のような横町だった。

そこで尋ね尋ねして一回りして別院の入口に着くと、何と門が閉じられている。アメリカではお寺も日曜日は休むのかと不審に思ったが、どうしようもない。実はこれは何とかというイベントがあるための臨時の休館だったのだが、その時の私には知るよしもない。

同じように全米日系人博物館と西本願寺ロサンゼルス別院も入口が閉じられていた。そのうちに日が暮れてきたので、日本村の中で食事をし、早めにホテルに戻ることにした。タクシーをどう捕まえるかが課題だったが、ミヤコ・ホテルの前で空車らしいタクシーに合図したらちゃんと止まってくれた。





フィールドワークの記録

デューク学会2日目

2013年10月25日
10月5日(土)
今回の学会は、トップにいるのはジャフィさんだが、実務を取り仕切ったのはキムさんだったようだ。学外からの招聘者が20人近くだから事務量はかなりのものであったはずである。

2日ともランチにはケータリングの業者がきた。こういうやりかたをそっくり真似るわけにはゆかないが、日本でも何かやるときの参考にはなる。とにかく、熱いコーヒーをいつでも飲むことができて、その気になれば、こってりしたケーキも食べることができるというのは悪いことではない。

服装は、てっきり皆さんカジュアルと思い込んでいたら、背広ネクタイ組もいて、彼らをホテルの食堂で初めて見た時には出張に来たビジネスマンと思い込んだくらいだ。まあ、各人の趣味で何を着てもよい、ということである。

さて二日目は、午前中が星野先生を含む3人の発表とディスカッション、ランチを挟んで、ボッキング先生のキーノートスピーチ、そしてインケンさんの司会でラウンドテーブル・ディスカッションがあり、午後4時前にお開きとなった。一言でいって、おそろしく刺激的な二日間であった。

この日のディナーはホテルの食堂で開かれ、この辺の名物という豚肉のバーベキューが出された。お別れパーティーも兼ねたものであるはずだが、別に堅苦しい挨拶などは何もなく、いつのまにか始まり、いつのまにか終わる体のもので、これも私には心地よかった。

私はエイミーとカルサンの夫婦と話し込んだ。エイミーは前に書いたようにニュージーランド出身である。私が、日本とニュージーランドの間には特に何も問題はないよね、と言うと、エイミーは、「ないけど…、敢えて言えば、クジラね」という。なるほど、そういうこともある。でも鯨の利用は日本の文化だと私は答えた。
「それから原発も」
そこから話はフクシマに移ったが、これにはちょっと参った。別に何か言われたわけではなく、自分で話しているうちに、ワインの酔いも手伝って、どんどん感情が激してきた。二人がとても聞き上手で、またなぐさめ上手であったこともある。席を外して一息いれて戻ったら、エイミーがこう言った。

「さあ、これからは楽しい話をしましょう」

最後は、ハグで別れた。また必ず会いましょう、と。二人は夏場はシッキムで過ごすことも多いというから、会いに行ってもいい、と私は本気で考えている。

キムさんに挨拶して部屋に戻ったら、疲れがどっと出てすぐに寝入った。
フィールドワークの記録

デューク学会1日目

2013年10月20日
10月4日(金)
いわゆる時差ボケは2日目がきついというけれど、私の場合は着いて2日目の10月3日の夜からだった。外から帰ってちょっと眠ったのはいいが、すぐに目が覚めてしまい、それからは朝まで一睡もできなかった。というわけで、重い頭で会場に向かうはめになった。

キングズドータズ・インの向かい側にはデューク大学のイーストキャンパスが広がっている。このキャンパス内を6,7分歩いたところにバス停があり、イーストキャンパスとウェストキャンパスを結んで学バスが頻繁に走っている。学会の会場はウェストキャンパス内のマクレンドン・タワーというビルの中だった。

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EastとWestを結ぶバスは今回の学会のテーマを象徴しているようでおもしろい。そのテーマはBordering the Borderless: Faces of Modern Buddhism in East Asia(ボーダレスにボーダー(境を接)して-近代東アジア仏教の諸相-)である。

会場はさして広くないホールであった。1年半ぶりでリチャード・ジャフィ先生に会う。ジャフィ先生は開口一番、「私が河口慧海について発表するのは申し訳ないですね」。こちらこそ、釈興然と釈宗演について発表するから、お互い様である。ジャフィ先生の原稿は前もってドロップボックスから取り出して読んだが、慧海の思想と行動を近代東アジア仏教史の中に位置づけようとする意欲的なものだ。

私の発表は午前中の4番目だった。タイトルは"Japanese 'Students in India'of the Meiji era:The Monastic Lives of Shaku Kozen and Shaku Soen in Colonial Ceylon"(明治「インド留学生」-植民地セイロンにおける釈興然と釈宗演の僧院生活-)である。内容は、これまで何回か発表してきたものをこの学会用に20分に圧縮したものだ。
Power Pointで画像を見せながら、用意の原稿を読み上げていったが、途中からどーっと疲れが出て、歯切れが極端に悪くなった。だがどうすることもできない。この手の学会では時間制限は日本よりも厳しいから絶対にオーバーしたくなかったのだが、おそらく2分近く過ぎてしまった。やれやれである。今の体調では英語で20分しゃべり通しはきつい。

それでも何とか終わって席に戻ったら、フランチェスカさんが、声を出さずに口の動きだけでこちらに合図を送っている。明らかに「よかったよ」という意味だと分かって嬉しかった。

その後、午前中の4つの発表をまとめて討議が行われた。ディスカッサントはノースカロライナ大学チャペルヒル校のバーバラ・アンブロス先生である。バーバラさんとは10数年前、ハワイ大学で開かれた真言学会で顔を合わせたことがある。

こういうディスカッションは私の英語力ではきついと思っていたが、案の定、意見や質問がことごとく恐ろしい早口でなかなか理解できない。しかし、ジャフィ先生とバーバラさんの助けで何とか乗り切ることができた。インケンさんがとても理解のある意見を出してくれたのもありがたかった。

その後、ランチタイムになったが、フランチェスカさんを含む4、5人がわざわざ「よかった」「おもしろかった」と言いにきてくれた。

午後は二部構成で3人ずつの発表とディスカッションがあった。最後の発表者は吉永先生でなかなか堂に入ったものであった。明治以降に日本で刊行された英文の仏教雑誌を紹介するもので、まとまった研究のなかったものだ。

この日のディナーは郊外にあるシタールというインド料理店で開かれた。
フィールドワークの記録

講演会のお知らせ

2013年10月16日
昨夜は台風による風雨が収まるのを待って午前2時まで研究室にいたので、今日は一日眠くてたまらんかった。夕方、6月の中国密教国際学術研討会に提出した論文の校正版を西安のCさんに送信する。簡体字を使って校正するのにエライ手間がかかった。

明日は、何の因果か、朝一番と午後4時半に締め切りが二つもあるので、アメリカ出張報告は相変わらず進まないが、間隙をぬって、ひとつだけお知らせを。

10月24日(木)14:45~16:05
大阪府立大学中百舌鳥キャンパス「Uホール」にて堺学シリーズの一つとして講演を行います。
講題は「河口慧海を支えた人々-堺の篤志家・肥下徳十郎を中心として-」

内容は、今年1月に堺市博物館で行った講演の続きというか、双子の姉妹のようなもの。
入場無料。定員600人(どうやって埋めるんじゃ?)
ご用とお急ぎのないお方はお待ちしとります。

委細は↓
http://www.sakaiupi.or.jp/35c_kouen.html
ある大学教員の日常茶飯

キングズドーターズ・イン

2013年10月11日
今日から大学に復帰した。時間が区切られた仕事があるので、学会報告は一拍置きたい。

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*King's daughters Inn 朝の顔
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*King's daughters Inn 夜の顔

どうです?「風と共に去りぬ」のテーマが聞こえましたか。
ノースカロライナ州はアメリカ南部の一州で、かつてはタバコ栽培のプランテーションに奴隷を用いていた。南北戦争では南のアメリカ連合国についている。農園主たちは、ここダーラムよりも西隣りのチャペルヒルに多く住んでいたようである。
キングズドーターズ・インはキングズドーターズ・ホームを前身とする。1911年に開かれた女性専用の老人ホームである。これが2006年に閉じられた後、改装されてホテルとして再生したのがこのインである。

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*King's daughters Inn2階廊下

フィールドワークの記録

ペーパーワークの日

2013年10月07日
10月3日(木)
とにかく分からなかったのが、租税条約がらみの書類である。7月の終わりにフォームを送られたが何がなんだかさっぱり分からないので、ほったらかしにしていた。直前になってこれでいいのかと心配になり、ドラさんにも相談したが、結局何の手も打たないままアメリカに来たのであった。この日、そのための手続きがあった。分かったのは、別に何の手も打たなくて正解だったということである。

朝の食卓で、ハイデルベルク大学のインケン・プロール先生やアイルランドのポーク大学のブライアン・ボッキング先生、国学院大学の星野靖二先生に会った。この学会に招待された日本人は3人。あとの一人は舞鶴高専の吉永進一先生である。午前中はゆっくり部屋ですごし、午後からキム先生の運転する車で手続きに向かった。

そこはタバコの葉の積み出し工場の広大な跡地を大学が買い取り、廃墟になっていた赤レンガの重厚な建物群を外観はそのままに、中身を改造して再生させたものであった。

書類書き(ペーパーワーク)は、事務職員が二人も立ち会い指導してくれたが、それでも相当大変な仕事であった。
日本にいてこれをやろうとしても土台無理な話だったのである。ともかく、これで私もITINというアメリカ政府が発行するナンバーを持つことになる。

終わってからしばらくデュークのウェストキャンパス内を散策し、デューク大学チャペルなどを見て回った。

ディナーは藤という日本料理のようなタイ料理の店で開かれ、ほとんどの出席者が参加した。去年人文研での私の講演会に来てくれたクイックさんもその一人で、彼は今ジャフィ先生の下で院生をやっている。カルサンとエイミーの夫婦に出会ったことも私にとっては大きなことだった。カルサンは西シッキム出身のブティア(チベット系民族)、エイミーはニュージーランド出身のチベット学者である。
私がシッキムについて知っていることを並べると、カルサンはとても喜んでくれた。これがきっかけで、二人とは会期中いろいろな話をして友情を深めた。
さらに、ニューヨーク大学のフランチェスカ・タロッコ先生。フランチェスカさんは、SOASのルチア・ドルチェ先生の友だちで、ルチアさんが3月に私たちの招待で人文研に来たことも知っていた。あごを突き出すようにして、ぐいぐい押してくる姿勢はなかなか迫力がある。

夕食後、日本人3人だけで近くのホールフーズというスーパーに寄り、ホテルまで夜道を歩いて帰った。スーパーは品揃えがとても豊かでにぎわっていた。私はお土産にこのスーパーのロゴ入りのトートバッグを買った。
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*月末にハロウィンを控えて大きなカボチャが店先に山積みになっていた。3個12ドルなり。
フィールドワークの記録

長ーい一日

2013年10月06日
10月2日(水)
早朝5時過ぎに家を出て電車で伊丹空港に向かう。国際線乗り継ぎとしてチェックインし、全日空機で成田へ。成田は台風の影響で雨だった。サンフランシスコで乗り換えてローリー・ダーラムに行くという最初のプランをワシントンDC乗り換えに変更したのは、見知らぬ街に夜の10時過ぎに出るのを避けるためだった。

アメリカはタイムゾーンが4つに分かれている。目的地のノースカロライナ州はイースタンタイムゾーンに属し、日本との時差は13時間もある。日本とは昼夜が逆さまだ。

11時半に成田を全日空とスターアライアンスの共同運航便で飛び立つ。昼食が出てしばらくすると機内の灯りが落とされる。時差の調整のため眠った方がよいということのようだ。

映画もおもしろくないので、原稿を読み飽きた後はうつらうつらするしかない。

いつのまにか飛行機は夜のゾーンに入る。

セントラルタイムゾーンで8時10分、飛行機はミシガン湖上空にさしかかる。ミシガン湖を越えると、モニターには、ランシング、アナバー、トレドと、どこかで見たような地名が表示される。なるほど若き日の熊楠が歩き回ったのはこの辺りかと下界に目を凝らすが、眼下には似たような農村地帯がどこまでも続いているだけだった。
10時29分、ワシントンDCダレス空港着陸。外気温度は華氏77度(摂氏25度)である。ダレス空港は、アメリカの首都の空港とはちょっと思えないようなのんびりした雰囲気だった。

入国審査、税関ともまあまあ無事に通過し、地下の電車で指定された国内線ターミナルに向かう。腹ごしらえをして、待つこと数時間。1時間遅れで離陸した飛行機でローリー・ダーラム国際空港に降り立ったのは5時ごろだった。上空から見るダーラムは町というより森の中に家々が点在し、道路が通っているという感じであった。

ワシントンで預け直したスーツケースを受け取るのにはちょっと手間がかかった。ターンテーブルに私のスーツケースが出てこないのである。まさか、と思いながら、サービスカウンターに相談に行くと、私のスーツケースはそこにあった。おそらく一つ前の便で運ばれたのである。実は私自身、ワシントンに着いたとたんに、私のネームボートを持った人物に、一つ前の便に乗るように言われたのである。理由はその人にも分からないという。ところが、指定されたゲートがあるターミナルに行って、ユナイテッドのカウンターからボーディングパスをもらおうとすると、係りは、その飛行機はすでに満員だから、予定通り3時の便でゆきな、という。理由を説明しても受け付けてもらえないので、従わざるをえなかった。

まあ、万事こんな調子なのだろう。それが何か問題かと言われれば、別に、である。

ダーラムでの宿はキングズドータズ・インというクラッシックなホテルであった。「まるでスカーレット・オハラになった気分だわ」とは翌朝会ったドイツの女性研究者のことばである。学会の招待者はみなこのホテルに泊まった。

着いてすぐキム先生から電話があった。ディナーの誘いである。疲れていたがせっかくなので受けると、サルグエロ先生が車で迎えにきてくれた。場所はホテルから遠くないフレンチの店。そこの庭のテーブルでの夕食はとても気持ちのよいものであった。

8時半頃部屋に戻り、しばらくPCに向かったが、どうにも頭が動かないので、ベッドに横になり、長ーい一日を終えた。







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