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来聴歓迎 9月の人文研国際シンポジウム!

2013年07月31日
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9月の人文研国際シンポジウムのチラシができた! この機にその内容を紹介し宣伝に努めたい。

このシンポジウムは、今年3月まで2年9ヶ月にわたって行われた人文研公募研究プロジェクト「グローバル化する思想・宗教の重層的接触と人文学の可能性」(通称奥山班)の成果の一部を発表するために企画された。今回は特に宗教を共通のテーマとし、仏教・ヒンドゥー教などの伝播や変容について論じてゆく。具体的には次の5つの講演を柱として討論を積み重ねる予定である。

9月21日(土)13:00~18:00

陳 継東(青山学院大学教授)「釈迦の原典を探す―近代仏教学の形成と日中仏教者の交流」

ミシェル・モール(ハワイ大学准教授)「ユニテリアンと日本仏教の接触―明治・大正時代に於ける普遍的真理の摸索とその挫折より学べるもの」

9月22日(日)9:00~16:00

ランジャナ・ムコパディヤーヤ(デリー大学准教授)「グローバル化の時代におけるエンゲイジド・ブッディズム(「社会参加仏教」)」

山下博司(東北大学教授)「グローバル化のなかのヒンドゥー教」

川橋範子(名古屋工業大学准教授)「『フェミニズム』と『仏教』の接触―トランスナショナルな視線」

で、私は司会進行、趣旨説明、コメンテーターの役を演ずる。

どうです。なかなかのものでしょう。快く講師役を受けてくれた皆さんにまずは深い感謝の意を捧げます。講師と講演内容についてはだんだんに紹介して参る所存です。





高野山大学の力

龍馬の手紙、慧海の手紙

2013年07月26日
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)を手元においてちらちら見ている。

「日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」(p.78)

有名なことばである。こういったものを読むかぎり、自由奔放な龍馬像はドラマや小説が作り上げただけのものではないことが分かる。文は人なり。イメージの基盤がしっかりあるのである。

ところでこの本には凡例がない。そのため、メインが龍馬が書いた手紙文であるにもかかわらず、それがどう翻刻され、どんなルールで活字化されたかが分からない。
そこで、D大の図書館で原本の『坂本龍馬全集』(光風社書店)を借り出して、凡例を含む最初の部分をコピーしてきた。

D大は小高い丘の上にある。6年ほど前に北京に行った際に、民族大学のCさんに会った。CさんはD大に留学した経験がある。Cさんが言うには、「D大は日本で一番高いところにある大学です」。

そこで即座にその間違いを正してあげた。

日本の「最高学府」は高野山大学です、D大の8倍は高い、と。

それにしても、この忙しいのに、なんで龍馬などにかまけているかというと、慧海さんの手紙の公表先がある学術雑誌に決まったのである。原稿の締め切りは11月だが、来月からは9月のシンポジウムと10月のアメリカ出張と11月の西蔵学会の準備でめちゃめちゃ忙しくなるので、早いとこ当たりを付けておこうと考えているのである。

慧海さんの手紙は翻刻がほぼ終わっているから、あとは解説をどの位の広さ、深さで書くかの問題である。この間の取り方次第で、中に入るものが全然違ってくる。当たりを付けるのはそういうところで、『龍馬の手紙』のやり方はある程度参考になる。

その関係で宇都宮のU野師から資料を送ってもらった。U野師から資料をもらうのはこれが確か3度目である。ありがたい。さらに宇治の万福寺でも調べものをしようと、T中師に電話すると、万福寺の境内に慧海の歌碑を建てる計画は順調に進んでいるとのこと。何十年か前からの心願だったと聞いてちょっと感動した。落成式は今年の秋から冬にかけてのことだろう。出席して、ついでに普茶(ふちゃ)料理で一杯やりたいところだが(タ・タイチョーも行くだろうし)、本当に出席できるかどうかは分からない。

さて、週末です。さすがに羽を伸ばしたい。「風立ちぬ」でも見にゆこうかな。





ある大学教員の日常茶飯

デューク大学からの連絡

2013年07月24日
デューク大学からタイムテーブルが送られてきて、私の発表は10月4日(金)の午前中であることが分かった。発表時間は20分。

チケットは既に買ってあるが、今回の連絡でいよいよ見えてきた。原稿はこれからだ。近頃だらけていた身心にぴしっとが気合いが入る。

予定では、10月2日に日本を発ち、ワシントンDC経由でノースキャロライナ州のローリー・ダーラム空港まで行って、ダーラムの指定の宿屋に入る。学会は10月4日、5日の2日間。帰りは6日早朝に現地を出発し、シカゴ経由でロサンジェルスまで行き、ここで2日ほど「研修」に励んだ後、サンフランシスコ経由で帰途に着く。

ところで、この間の密教研究会の懇親会の折、K谷君が「セーテン、セーテン・・・」とつぶやくように繰り返していたが、あれはいったい何だったのだろうか・・・。まあいいや、前に進もう。
ある大学教員の日常茶飯

天台山国清寺

2013年07月19日
先週から今週にかけて、大事な物を立て続けに三つもなくした。そのうちの二つは返ってきたが、ひとつは戻らない。これは諦めるしかない。財布をなくさないだけ、まだましだと思うことにしよう。

さて、明けて6月30日、大会参加者の何人かは帰途についたが、大部分は残り、大型バスで天台山に見学に向かった。途中かなりの吹き降りになったが、現地に着くと雨が上がり、傘なしに参詣することができた。ここでも観光開発が進んでいるのだろう。天台の町は宿泊所の建設ラッシュであった。しかし、国清寺に近づくと、さすがに凛とした空気が感じられる。

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*隋代の甎塔。長い歴史を感じさせる。この写真、よく見ると、塔が浮き出て見える。我ながら、好(ハオ)!

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*国清寺への参道。緑がしたたるようで、なかなかの風情である。

天台山国清寺は天台教学の大成者、智顗(ちぎ、538-597)ゆかりの名刹である。日本天台宗の開祖、伝教大師最澄がここで学ぶなど、わが国の仏教とも深いつながりを持っている。

前に書いたように、私のこの寺での目当ては梵文貝葉写本である。確かにそれはこの寺の陳列室のガラスケースの中に展示されていた。1葉の片面のみを観ただけに過ぎないが、初見としてはかなり満足できた。昔、西域や南海を経由して中国に大量にもたらされたはずの梵語仏典がほとんど隠滅していることを考えれば、これは貴重きわまりない遺品である。帰国後の7月12日、高野山大学で開かれた密教研究会の学術大会で、今回の実見で得たデータに基づく報告を行った。

お昼は天台山の駐車場前のレストランで取った。これがこの学会の最後の会食となった。

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*高速道路沿いの風景。田圃に農民が出ている。その向こうには三階建ての家並み。「あれは農民の宿舎ですか」と思わずつぶやく。このネタがピンとくるのは52歳以上です。

紹興に戻る途中で普浄寺という山上のお寺に立ち寄った。何でも仏舎利が奉安されているという。参道には信者たちが並んで私たちを迎えてくれた。彼らの中には、観音の六字真言「オンマニペメフーン」を歌うように唱えている人々もいる。どこかで聞いたような節回しだと思ったら、それはエリック・バリの映画「キャラバン」で使われたものだった。ひょんなところで、宗教のグローバル化を実感することに。

山上のお堂で五体投地で三礼してから仏舎利を拝観。ありがたや・・・

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*仏舎利を護る六牙の白象の頭リボンがきもかわいい。

龍華寺に戻り、呂先生を始めとするスタッフのみなさんに別れを告げて、午後6時半頃、上海まで送ってくれる高級乗用車二台に分乗する。300キロ近い路をひた走り、ホテルに到着した時には、10時を回っていた。食事をしにタクシーで街に出たが、実はこの日の朝から、頬から首筋にかけて赤く腫れ始めていた。帰国後皮膚科に駆け込んで、何かにかぶれたことが分かったが、そのせいで「魔都上海」の夜もたいして楽しめなかった。翌日の昼、浦東空港からのフライトで無事関空に戻った。

(この話題終わり)
フィールドワークの記録

王羲之の日

2013年07月18日
日曜日の午前中、いつもの通り、家の近くの喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら週刊誌を読んだ。『サンデー毎日』に連載中のなかにし礼氏のコラムが南方熊楠を取り上げている。熱度がとても高い。その中で、おっ、と思ったのが、熊楠が、寅年生まれの男女に於菟という名をつける典拠を『春秋左氏伝』の中に指摘しているということである(「十二支考」の「寅に関する史話と伝説、民俗」)。なかにし氏は、おかげで「雪之丞変化」で知られる作家三上於菟吉の於菟が寅年生まれにちなんでいることが分かったということを書いている。

これを読んで釈然とするものがあった。森鴎外は自分の子どもに西洋由来の名前を付けたことで知られる。於菟、茉莉、杏奴、不律、類である。そのなかで、於菟はドイツ語のOttoを写したものに違いなかろうが、それにしてもなぜこの漢字なのだろうか、とかねがね疑問に思っていた。早速スマホで森於菟の生年を調べると1890年(明治23年)の寅年である。於菟はOttoと虎(寅)の両方に掛けた名であったのだろう。

さて、中国の旅の続きである。6月29日の午前中はもちろんいろいろな発表があり、その中には張保勝先生の発表のような是非聞きたいものもあったのだが、司会が当たっている武先生だけを残して、日本人はマイクロバスで見学に行くという計画があったので、これに従うことにした。

行く先は南方の嵊州(じょうしゅう)市にある王羲之(おうぎし)の墓である。王羲之(4世紀)が書聖と崇められる大文化人であることは改めて言うまでもない。その王羲之の赴任地が会稽郡であり、蘭亭序で知られる蘭亭も紹興にある。終の棲家もこの地方だった。

王羲之の墓は嵊州市郊外の草深い山間にあった。

その敷地内に静先生の詩碑が立っている。静先生が書いた碑はあちこちにあるが、これは王羲之の墓所に建てられたものだけに格別の意味を持っている。紹興(昔の越州)は、弘法大師空海が帰国を前に4ヶ月ほど滞在した地でもある。つまり、中国の書聖と日本の書聖の両方にゆかりがある。それを謳ったのがこの詩とのことだった。

その後、近くの村にある王羲之を祖とする王氏の宗祠(祖廟)に参詣した。なかなか味わいのある場所だった。

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*宗祠のある村の一景。急速な「発展」とはあまり縁のない村の生活を垣間見る思いがした。

それから紹興にとって返し、明心書院で昼食を取った。この書院の由来は聞き漏らしたが、建物はモダンで、内部には密教図像が飾られている。今日は四時半からここで最後のセッションが行われ、その後が閉幕式だ。それにはまだ時間があるので、われわれは蘭亭に向かった。王羲之ゆかりの書道の聖地である。今日は王羲之の日だ。

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*蘭亭内では、王羲之も楽しんだ曲水の宴が再現される。まあ、観光客用の出し物ということで。

閉幕式の後、懇親会となった。龍華寺はお寺だから酒肉は御法度である。この書院が最後の会場に選ばれた理由の一つはこれだろう。最後はやはりカンペイ、カンペイで締めくくらねば。

それにしても今回の学術大会は、中国側の強い意欲が表れた盛大なものであった。国内外から60人以上の学者が集まっている。そのうち何人が招待なのかは分からないが、相当な費用が掛かっていることは事実だ。
中国における密教研究の柱は、唐代の密教(唐密)の研究であり、それは唐代文化の復興という国家的な目標に叶っている。しかし、長い歴史の中でいくたびも文化の破壊を経験してきた中国では、時に法門寺地下宮殿のような大発見はあるものの、密教関係の史料はどうしても限られる。その点、1200年以上の伝統を保持している日本への期待は大きいと感じられる。

フィールドワークの記録

学術検討会1日目

2013年07月15日
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*開会式の前、禅堂に集まってくる参加者たち。

28日、8時から開会式があった。最初に主持人(司会者)の呂健福先生(陝西師範大学宗教研究中心主任、教授)による趣旨説明や主な参加者の紹介があった。そのあと何人かが挨拶。最初が静先生、二番目が比叡山延暦寺執行の武覚超先生、そして三番目が乾仁志高野山大学副学長だった。

静・武両先生は別格として、三番手に乾先生がきたのは、中国側の高野山大学重視の姿勢の顕れである。高野山大学はこの大会に副学長を送り込んできた。副学長といえば、学長の代理である。肩書きと序列を重んじる中国社会では、このことは相当なアピールになったようだ。

今後は、ゆめゆめ「イヌイさ~ん」、場合によっては「イヌイちゃ~ん」なぞとは呼ぶまいぞ、と心に誓う。

長い開会式が終わって、いよいよ分科会に分かれる段になった。私は、敦煌研究院の劉永増先生とペアで第二組の午前中の主持人をおおせつかっている。劉先生とは昔からのなじみなので気は楽だ。ついでに言うと、私の漢族観の半分は劉先生からもらっている。
それは「漢族には言いたいことは120%言わなければならない。どんなに激しく議論しあっても、あとを引くことはない」というものである。

ところが初手からハプニング。静先生と王益鳴先生が、同じ時間帯に第一組の主持人と第二組の発表人とにダブルブッキングされていたのだ。この問題は、お二人を第一組に回し、第二組の穴は後の二つの発表を前倒しして埋めることで解決された。まあ、たいした問題ではなかったのだろう・・・

私の発表「中国浙江省発現的二種梵文貝葉経典」は、昼食を挟んで2時から再開された第一組においてなされた。通訳は中国社会科学院のモンゴル人、嘉木楊(ジャムヤン)氏が務めてくれた。彼は日本で勉強した人で、とても丁寧で人なつこい。

発表は十分な時間がないことは始めから分かっていたので、原稿は肝心なところだけを読んで、あとはできるだけ質問や意見を受けるようにした。浙江省発現の二種の梵文貝葉経典とは、天台山高明寺にあった写本と嵊県の普安寺にあった写本を指している。まさにご当地ものなのだ。私は大分前からこの両写本に興味を持ち、研究史をまとめたりしている。今回この学会に参加したのも、天台山で写本の現物を見ることができるという期待があったからだ。

北京大学の張保勝先生から有益なサジェスチョンをいただいた。

一日の日程を終えて部屋に戻ったら、ヤマモモが一篭置いてあった。その心遣いが、私には大伽藍よりも素敵なものに思われた。
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フィールドワークの記録

会稽山龍華寺

2013年07月09日
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*黒塗りの高級車がばんばん走っているかと思うと、こんな危なっかしい人もいる。原付に三人乗りも珍しくない。

杭州を出てまもなく大河を渡った。銭塘江である。雨のせいか道路が渋滞し、紹興市の会稽山までは結構時間がかかった。紹興は昔の越州である。春秋時代、越と呉の抗争は、臥薪嘗胆、呉越同舟、会稽の恥など、私たちにも親しい故事成語を生んだ。

竹の繁る山を登って龍華寺に着いた時には5時を回っていた。龍華寺といっても予備知識があったわけではない。それもそのはず、この寺は、秋の竣工を目指してまだ工事中であった。山の斜面を削って、壮大な伽藍が建設されようとしている。完成した諸堂にはすでに仏像などが搬入されているが、ビニールの覆いをかぶったままだ。寺の建立というよりは、地域開発の趣である。実際、今回寺側の代表者として出てきたのは、管長ではなく、開発公司の総裁であった。

私たちの車が着くと、入口から傘を持った人々がわらわらと迎えに出てきた。入口はかなりの混雑である。その中、揃いのポロシャツを着た人たちがきびきび働いて、登録、支払い、資料渡し、荷物運び、案内をしてくれる。みんなボランティアのようで、総勢百人近くもいるだろうか。

ぱんぱんに膨らんだひどく重いザックを渡された。部屋に入ってから開けてみると、分厚い電話帳のようなものが二冊詰められている。それは今回の学術大会の論文集で、外国語のものにはすべて中国語訳が付いている。私は原稿を早めに出したが、イヌイさんが出してから2週間も経っていない。まさに人海戦術の突貫工事であったに違いない。このエネルギーには圧倒される。

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*この晩は気づかなかったが、谷を隔てた山の上にはこんな建物も建設中。弥勒の宮殿、兜率天宮だという。現段階ですでに高さ80メートル。ひょっとすると、否まちがいなく、この上に弥勒の像が乗るんだよね・・・




フィールドワークの記録

西泠印社との会食

2013年07月07日
翌27日は雨、それもかなりの吹き降りであった。

午前中、Cさんにデパートまで連れて行ってもらって靴を買った。運動靴にいつのまにか穴が開いていて、堺を出る時から靴下がぐっしょり濡れた。梅雨時の旅にずっとこれではかなわない。割引を効かせて368元なりで、結構いい値段だったが、以後は快適に行動できた。

お昼は、西泠印社(せいれいいんしゃ)の幹部の人々と会食。西泠印社は杭州に本部のある学術団体で、中国における書・篆刻の「大本山」であるという。この方面に無趣味な私にはぴんと来ないが、その道では交流しただけで箔になるほどの団体らしい。私は黙々と食べて飲んで写真を撮っただけだが、こういう経験ができたのも静先生のおかげと言わなければならない。

食後、ホテルに戻って預けていた荷物を車に載せると、隣の紹興市に向かった。

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*雨の杭州市内。右は杭州最大のデパート。1階には高級ブランドの店が並んでいる。





フィールドワークの記録

雨の江南

2013年07月02日
江南地方の旅は毎日が雨だった。最近梅雨に入ったとのことで、蒸し暑さがものすごく、滝のように汗が流れた。

6月26日(水)現地時間14時43分、関空から2時間のフライトで上海の浦東(プドン)空港に到着した。日本と中国の時差は1時間だ。

第二回中国密教学術検討会への日本からの参加者は、高野山大学5名、種智院大学2名、叡山学院1名、大正大学1名、早稲田大学1名であった。

空港にはCさんが迎えに来てくれていた。174センチの長身痩躯の女性で、呂建福先生の下で学ぶ大学院生だ。2台の車に分乗して、高速道路をまず200キロ先の杭州に向かう。高速道路はとてもよく整備されている。ところどころにパーキングエリアがあるなど、中国語の標識を除けば、日本の高速道路とほとんど何も変わらない。

杭州市での宿泊先は蓮花賓館だった。実は別のホテルに予約が入っていたのだが、急きょ浙江省の社会科学院が接待してくれることになり、ホテルが替わったのである。こういうことになったのは、ひとえに、私たちの中に静慈円先生がおられるからである。中国の斯界における静先生の名声は圧倒的だ。今回の旅では、ゆくさきざきでそれを実感することになった。

この日の晩餐会で飲んだ紹興酒が魔法のようにおいしかった。
フィールドワークの記録
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