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ついでながら父方も

2012年11月26日
金曜日、同窓会のいろは支部の総会・記念式典にかりだされて、黎明館で30分講演する。題は「近代の高野山を彩った人々ー土宜法龍と南方熊楠」。30分ぴったりに話が終わったのはわれながら上出来であった。あとに芸人さんたちのアトラクションがあって結構楽しめた。

土日は家にいたが、気になることがあっておちおち寝てもいられなかった。昨夜はそれが酷くなって1時間ごとに目が覚める始末。それが今日の午前中、たった2本の電話で解決した。やっぱり抱え込んでちゃいけないことを再認識した。

さて、母方について書いたついでに、父方の方も少し書いておこう。

「うちの先祖はなに?」と子どもは親に一度はたずねるものである。うちの娘たちもそうだった。私は「農民」と簡単に答えておいた。日本人の大多数は数代さかのぼれば農民であるという気持ちであったが、実際、私の父は、寒河江市の先の月山に近い西海味(かいしゅう)という村の農家の出である。戦前は小さな地主で、代々小次郎を襲名していた。

そのルーツなどは知らない。私が知っているのは、曽祖父のことからである。それは、この小次郎が第1回の徴兵検査の対象者となり、1874年に台湾出兵に出たところから始まる。日本軍がマラリヤで散々苦しめられたこの遠征をきっかけに、小次郎は、どういうわけか、大隈重信公の知遇を得たというのが、奥山家の「言い伝え」である。まあ、勝手に言い伝えていることだが…
ただこの関係が根も葉もないかというと、そうとも言い切れないのは、明治14年の政変で大隈公が下野し、立憲改進党を結成すると、小次郎も入党して田舎で政治運動をやったという事実があるからである。

小次郎には中央政界に打って出たい野心があったらしい。しかし、病を得たこともあって、田舎の村長で終わった。何か書付でも残っていそうなものだが、私が知っているのは、金子堅太郎の書くらいなものである。

小次郎の娘婿が祖父の小次郎である。痩せて無口な飄々とした人物だったが、物事をまっすぐ見ているところがあり、それが威厳を感じさせた。

この小次郎に六男三女があり、父は六男坊である。

長兄が海軍軍人(海兵第61期)になったことは、ずっと以前に書いたことがあるので省略するが、一言だけ付け加えると、この伯父の兵学校時代の親友に、潜水艦の艦長として戦記の世界では有名なI倉氏がいる。氏は一度山形に墓参りに来たことがあり、父が案内役を務めたが、たいへんな酒飲みだったという。それでも天寿を全うして92歳で永眠された。28歳で南海の空に命を散らした伯父とは対照的な後半生を送ったわけである。

私も一度会ったことがあり、その時の印象は実に飄々とした「不良老年」のそれだったが、太平洋戦争末期には人間魚雷回天の指揮官を務め、最後には自らも特攻しようとして果たせなかったという。長い戦後をどのような心境で生きたかは、ゆるーい人生を送っている私などの想像の及ぶところではない。

次兄は教員になり、三兄は農学校を出て家督を継いだ。四兄はどういうわけか満州に渡り、ソ連軍にシベリアに連れ去られて死んだ。祖父は、彼に満州行きを許したことだけは後悔していたという。すぐ上の兄は他家へ養子に入り、姉と妹はそれぞれ嫁に行った。父は山形師範に入って中学校の国語の教員になった。

私のしもぶくれの丸顔は父方からの遺伝で、父→祖母→曽祖父とさかのぼることができる。










ある大学教員の日常茶飯
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