10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

迷惑なほどに生真面目

2012年11月27日
最近朝が滅法寒くて研究室が遠い。夏場に比べると2時間は入るのが遅れる。

このあいだ北旅籠町をいっしょに回った島崎記者の記事が昨日の読売新聞朝刊(大阪版)に出たというので、堺市役所のN村さんが送ってくれた。「碑(いしぶみ)にきく」というシリーズで、慧海の生家跡の碑にちなんで、彼の事績が丁寧な筆致で紹介されている。あのあと、慧海の姪の宮田さんと、「別冊文芸春秋」に「ダライ・ラマの密使」を長期連載している夢枕獏さんを取材したようで、お二人の談話が載っている。私のもちょっと。

夢枕さんの慧海評「迷惑なほどに生真面目」というのは、以前からのものだが、あらためて言い得て妙だと思う。

夢枕さんとは、数年前仙台のシンポジウムでご一緒して一番町の蕎麦屋で飲んだことがあるが、人にとても丁寧でさわやかな印象の人物だった。その折のことは以前このブログ(「夢枕獏さんの手紙」)に書いたことがある。そのうちに高野山にも取材に来られるらしい。


ある大学教員の日常茶飯

ついでながら父方も

2012年11月26日
金曜日、同窓会のいろは支部の総会・記念式典にかりだされて、黎明館で30分講演する。題は「近代の高野山を彩った人々ー土宜法龍と南方熊楠」。30分ぴったりに話が終わったのはわれながら上出来であった。あとに芸人さんたちのアトラクションがあって結構楽しめた。

土日は家にいたが、気になることがあっておちおち寝てもいられなかった。昨夜はそれが酷くなって1時間ごとに目が覚める始末。それが今日の午前中、たった2本の電話で解決した。やっぱり抱え込んでちゃいけないことを再認識した。

さて、母方について書いたついでに、父方の方も少し書いておこう。

「うちの先祖はなに?」と子どもは親に一度はたずねるものである。うちの娘たちもそうだった。私は「農民」と簡単に答えておいた。日本人の大多数は数代さかのぼれば農民であるという気持ちであったが、実際、私の父は、寒河江市の先の月山に近い西海味(かいしゅう)という村の農家の出である。戦前は小さな地主で、代々小次郎を襲名していた。

そのルーツなどは知らない。私が知っているのは、曽祖父のことからである。それは、この小次郎が第1回の徴兵検査の対象者となり、1874年に台湾出兵に出たところから始まる。日本軍がマラリヤで散々苦しめられたこの遠征をきっかけに、小次郎は、どういうわけか、大隈重信公の知遇を得たというのが、奥山家の「言い伝え」である。まあ、勝手に言い伝えていることだが…
ただこの関係が根も葉もないかというと、そうとも言い切れないのは、明治14年の政変で大隈公が下野し、立憲改進党を結成すると、小次郎も入党して田舎で政治運動をやったという事実があるからである。

小次郎には中央政界に打って出たい野心があったらしい。しかし、病を得たこともあって、田舎の村長で終わった。何か書付でも残っていそうなものだが、私が知っているのは、金子堅太郎の書くらいなものである。

小次郎の娘婿が祖父の小次郎である。痩せて無口な飄々とした人物だったが、物事をまっすぐ見ているところがあり、それが威厳を感じさせた。

この小次郎に六男三女があり、父は六男坊である。

長兄が海軍軍人(海兵第61期)になったことは、ずっと以前に書いたことがあるので省略するが、一言だけ付け加えると、この伯父の兵学校時代の親友に、潜水艦の艦長として戦記の世界では有名なI倉氏がいる。氏は一度山形に墓参りに来たことがあり、父が案内役を務めたが、たいへんな酒飲みだったという。それでも天寿を全うして92歳で永眠された。28歳で南海の空に命を散らした伯父とは対照的な後半生を送ったわけである。

私も一度会ったことがあり、その時の印象は実に飄々とした「不良老年」のそれだったが、太平洋戦争末期には人間魚雷回天の指揮官を務め、最後には自らも特攻しようとして果たせなかったという。長い戦後をどのような心境で生きたかは、ゆるーい人生を送っている私などの想像の及ぶところではない。

次兄は教員になり、三兄は農学校を出て家督を継いだ。四兄はどういうわけか満州に渡り、ソ連軍にシベリアに連れ去られて死んだ。祖父は、彼に満州行きを許したことだけは後悔していたという。すぐ上の兄は他家へ養子に入り、姉と妹はそれぞれ嫁に行った。父は山形師範に入って中学校の国語の教員になった。

私のしもぶくれの丸顔は父方からの遺伝で、父→祖母→曽祖父とさかのぼることができる。










ある大学教員の日常茶飯

自然のデザイン

2012年11月25日
NEC_0660_convert_20121125122926.jpg

雨に濡れたベンチとちりばめられたモミジ葉のハーモニー。自然のデザインに感心して一枚撮る。
ある大学教員の日常茶飯

神谷孫兵衛

2012年11月20日
私には兄と弟がいる。兄は分からないところもあるが、弟は確実に、先祖のことなど無関心である。そうすると、私が黙ったままだと、こういう情報はやがて消えてしまう。親族以外には三文の値打もないことは分かっているが、幸いこのブログは長女も見てくれているので、ここに書いておけば、何かは残るだろう。ということでもう一つ。

神谷春治の父は神谷孫兵衛といった。この孫兵衛がローカルな芝居か何かに出てくるということを、私は小学校1年生の頃に聞かされた記憶がある。

今回春治について調べたついでに孫兵衛も検索してみた。するとこれまたちゃんとヒットするではないか。「水野家ルーツ探訪記」というブログで、水野氏のことを随分細かく調べてある。これによって、神谷孫兵衛は、水野藩の首席家老、水野三郎右衛門元宣の家臣であったことが分かった。石高は40石とある。やはり相当な小身である(同時代の、あのたそがれ清兵衛でさえ50石の設定だ。もっとも20石はお借上げだから、30石でやっていたことになる)。せめて百石取ってほしかったと子孫としては思うが、歴史的事実とあらば、昔からお金に縁のない家系だったとあきらめるしかない。

問題は彼が水野三郎右衛門の家臣だったことである。このことを知って、私は釈然とした。上に述べた芝居とはこの三郎右衛門を主人公にしたものに違いない。

山形市桜町の済世館病院の隣りに豊烈神社という神社があり、古式に則った打毬(和製のポロのようなもの)で知られている。その境内に三郎右衛門の銅像が立っている。説明書きには「山形を戦火から救った」ことが讃えられている。

幕末、水野藩は5万石という小藩の悲しさで、新政府と東北諸藩との間で揺れ動いた。何しろ南には上杉氏の米沢藩、西北の月山の向こうには酒井氏の庄内藩、東の奥羽山脈の向こうには伊達氏の仙台藩がある。中でも江戸の薩摩藩邸を焼討した庄内藩は、会津と並んで討伐の対象にされていたから、武器商人スネルから買い込んだスナイドル銃など最新式の武器で防備を固め、やる気十分だった。戊辰戦争で最後まで頑強に抵抗し、官軍を寄せ付けなかったのは庄内藩である。

結局、水野藩は、米沢藩が降伏した後、新政府に謝罪、恭順し、水野三郎右衛門が全責任を負って処刑されたのであった。刑は切腹ではなく斬首。さぞや無念だったと思われるが、ご本人は従容として死についたらしい。それではわが先祖の孫兵衛はどうなったか、というと、他家へお預けの身となった。

この神谷家にとっての一大事がその後どう展開したかは皆目わからない。水野三郎右衛門の死は、山形人の同情を集めていたはずだから、その旧家臣の孫兵衛も邪険には扱われなかったという気もするし、案外そうではなくて、一家で辛酸をなめたのかもしれない。ただ、その息子の春治は「高等官校長」になるだけあって、仙台に通ってちゃんとした教育を受けたらしい。母は「漢文の先生だった」と言っている。

春治に何人の子どもがあったかは分からない。祖父は末子だったが、兄や姉たちがみな山形を出ていってしまったので、否応なく家督を継いだ。姉の中には東京の医師に嫁いで皇族の乳母になった人があり、その際、憲兵(役人?)が実家に家系調査にやってきたことを祖父はよく覚えていた。

神谷家の墓は、山形市寺町の来迎寺にある。墓石には「神谷氏之墓」と刻んである。家ではなく氏としているのが武士の家の古い墓なのだ、というのが祖父の口癖だった。母が小学生だった時分には、試験の答案用紙に「身分」を書かせる欄があって、そこに「士族」と書けるのが、子ども心にもたいそう誇らしかったという。

ある大学教員の日常茶飯

神谷春治

2012年11月15日
一昨日の夕方、地鳴りのような雷鳴が轟いて、窓のサッシをびりびり震わせた。次の瞬間、叩きつけるような豪雨が始まった。昨日は、朝からの風雨が、昼近くに風雪に変わった。今日は朝から時々雪というより雹が降っていたが、今は日がさしてきている。高地は天候の変化が急だ。御山にはすっかり慣れたつもりだが、やはり時々驚かされる。

さて、去年の8月に山形の実家に帰った折、母から一冊の本を渡された。

服部公一『ふるさと散歩 味な話 味なひと』(廣済堂出版)

母の祖父のことが書いてあるから見ろ、というのである。早速指定のページを開いてみると、「この第二の理由に女学校側も大いに困惑したらしく神谷春治初代校長御自ら陣頭に立ち、近郷近在の旦那衆を一軒一軒歴訪し、子女の女学校入学を説いて回ったというから(中略)おかしい話ではある」とある。さらに続きを読むと、「生徒募集の困難さにウンザリしていたこの高等官校長が、員数合わせのためならどんな田吾作の娘でもかまうものかと、来合わせた重助を口説き」、その結果、めでたく入学した重助の娘タキが、すなわち著者、服部公一氏の御祖母様と、こういうつながりであった。

ここに出てくる神谷春治(かみや・はるじ)こそ、母の祖父、つまり私の母方の曽祖父である。彼が初代校長を務めた女学校は山形市立女学校で、今の県立山形西高校に当たる。

音楽家でエッセイストでもある服部氏は、私の高校の大先輩である。春治については母から何となく聞いてはいたが、この本のお蔭で、そのイメージが少し具体的になった。

母の実家である神谷家は、もとは山形の水野藩に仕える武士であった。水野家は、殿様の水野忠邦が天保の改革に失敗した責任を取らされて、浜松から山形に左遷された。静岡の温暖な気候に慣れた先祖たちは、夏暑く冬寒い山形盆地の気候にさぞや苦しんだことだろう。武士といっても下級武士だったので、その暮らし向きは、いっそう厳しかったはずだ。

水野家が山形に転封されたのは1845年だから、明治維新までそんなに長くはかからなかった。母の実家は今はもうないが、もとは山形市霞町(もとの旅籠町、今の大手町)にあった。霞ヶ城の異名を持つ山形城の大手門からそんなに離れていない場所である。

以前、祖父から聞いた話では、祖父がまだ子供だった頃には、隣近所の古老たちは皆浜松弁をしゃべっていたという。そういえば、浜松近辺には神谷姓が多いと聞いている。では浜松の前はどうかというと、これが九州の唐津であると、これも祖父から聞いた。これは、水野忠邦が唐津から浜松に国替えしたからである。つまり神谷の方の先祖は、水野の殿様に付いて、唐津から浜松、浜松から山形と日本列島を北上したことになる。ではその前はというと、これはまったく分からない。だが、水野氏は家康の生母於大の方の実家であり、神谷姓は愛知・静岡に偏って多いことを考えると、わが遠祖ももとは三河辺りの出て、代々お殿様に着いてあちらこちら移り、最後に山形で明治を迎えたと、こういうことかもしれない。

さっき試しにインターネットで「神谷春治」を検索したら、国会図書館の近代デジタルライブラリに収められた『小学教員学力検定試験問題集』(明治22年)なるものがヒットした。神谷春治はその編纂者である。同姓同名もあるかと思って奥付を見たら、住所が山形旅籠町とある。これはまちがいない。

まあ、私も似たようなことをやっていると言えなくもないが、曽祖父が、山形の女子教育を通じて果たした社会貢献の方がはるかに勝っていることは間違いない。今度山形に帰る時にこの本をプリントして母に持っていってやろう。
ある大学教員の日常茶飯

能海寛研究会移動学習会 in 田辺

2012年11月12日
11月10日(土)
12時ちょっと前に仕事を中断し、能海寛研究会の面々を迎えるために田辺に向かった。高野山内の道路は混みあっていた。何でも世界遺産関係のイベントがあるらしい。龍神スカイラインも護摩壇山辺りまでは紅葉狩りの車が多く予想外に時間がかかった。高野山周辺の山々の紅葉も見ごろはこの土日までである。

閭ス豬キ遐秘㍽螟也比ソョ莨・006_convert_20121112195257

顕彰館に着いたのは2時半で、ちょうど先発隊が到着したところだった。

能海研からの参加者は私を入れて9人だった。最初に学習室でN尾さんの説明を受けた。次いで事務室などを見せてもらった。私が顕彰館見学の企画を立てたのは、能海研の幹部の人たちに、顕彰会と顕彰館がどのような組織と仕組みで動いているのかを知り、施設と設備がどんなもので、資料がどう保管され、学術部がどんな活動をしているかを自分の目で見てもらいたかったからだ。

顕彰会・顕彰館と能海研では相当条件が違うが、できるところから見習ってほしい。いや、私もどういうわけか副会長を拝命しているから、見習いたい。

4時半頃、顕彰館を後にしてパークサイドにチェックイン。6時から「あじみ」でN尾さんも誘って懇親会を持った。8時、お開き。翌日は白浜の南方熊楠記念館に案内する予定だったが、急に用事ができて、私は車で堺に戻った。だからもちろん懇親会ではアルコールは控えた。まあ、こういうのもいいんじゃないかな、と思いながら、食べることに専念した。

11月12日(月)
朝4時半に起きて研究室へ。論文が締め切りを過ぎてもできないから仕方がない。しかし間が悪いことに今日は堺で約束がある。私がこの約束をしたのは、論文はもうとっくに終わっているはずだったからだが、今更キャンセルもできない。

8時過ぎのケーブルで山を降り、南海高野線とJR阪和線を乗り継いで、約束の10時きっかりに堺市博物館に行くと、N村さんたちが待っていた。用件は、来年1月の展示と講演会の詰めである。2時間話をして切り上げ、堺東まで行って昼食を取ることにした。

堺東駅前の商店街は、政令指定都市にしてはちょっとさびしいが、それでもいろいろな店がある。何を食べたいか、自分に相談したところ、ネパール料理とでた。そこでスマホ様にお伺いを立ててみると、近くにあるではないか。
そこでマップに従って店を探すと、何のことはない、さっき通りかかった「インド料理屋」である。中に入ると、そこはネパール。壁には「ムスタンビール」の広告が貼ってあったりする。「ネパール料理」ではまだまだお客は呼べないのだろうか。そういえば、再審で無罪になりそうなマイナリさんも幕張の「インド料理屋」に務めるネパール人だった。

注文したのはナンとカレーにタンドリチキンなどが付いた定食であるが、あとでネパール人の女将に聞いたら、夜はまたいろいろなメニューがあり、ダルバートも出せるという。そのうちにまた来ることにした。

すっかりおなかがいっぱいになって、特急で御山に戻った。途中少し眠ったので気分がよくなり、今また机に向かっている。







研究ノート

宗教の事典

2012年11月08日
螳玲蕗縺ョ莠句・_convert_20121108210935

朝倉書店から山折哲雄先生監修の『宗教の事典』がついに出た。
私は5人の編者の中に名を連ねている。

4月からゲラの校正に無茶苦茶時間を取られた。これまで何回か触れた、真っ赤っかにし続けたゲラというのはこれのことである。赤ペンを入れるだけのスペースがなくなって、あちこちに紙を張り付ける。それを送った後で、校正漏れに気づいて、メールでデータを送信する。これの繰り返し。ゲラの大部分は今私の手元に戻っているが、神棚にでも上げて、今後こういう段取りの悪い仕事をしちゃあいかん、という反省材料にしようかと思っている。

編集担当のK氏も、よく我慢して確実な仕事で応えてくれたものだ。
嬉しくないわけはないが、これで今年は終わり、とならないようにもう一仕事しなければ。

読書案内

ダルバート

2012年11月03日
タイフーン隊長がカトマンズからメールをよこした。

何でも登山が一段落して休養を取っているらしい。毎日、酒盛りをやらかし、ダルバートをたらふく食っているとのこと。くそー、こっちも食いたくなるではないか。

ダルバートは、ダル(豆スープ)とバート(ご飯)の意で、ネパールの代表的な家庭料理。

海外に出稼ぎに出たネパール人が無性に食べたくなるのがこれらしい。ネパール人のソウルフードといったところだ。

あと30分ほどで横浜へ出発する。7時半に落ち合って仕事の打ち合わせ。ダライ・ラマ法王の講演会は明日10時からだが、検問に時間がかかるから、早く出かけなければならない。


ある大学教員の日常茶飯
 | HOME |