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仮設住宅訪問

2012年09月27日
19日(水) 南三陸町に来て3日目。今日は仮設住宅を訪問し傾聴の実習を行う。
少し早めにハウスに行って、朝のミーティングで今日の予定を確認した後、荷物を積み込んで車2台で出発。向かった先はH仮設住宅である。南三陸町内には58の仮設住宅がある。HUGハウスは、そこを順番に回ってカフェと呼ばれる談話会を開いている。1日1ヶ所回って、2ヶ月で一巡する計算だ。地元の人はそれを「お茶っこ」と呼んでいるらしい。

H仮設住宅は小高い尾根道沿いにあった。ここの人たちは海沿いの75戸ばかりの集落の住民だった。そのうちの16軒が今この仮設に住んでいる。代々半農半漁で生計を立ててきた人々のようだ。

志津川湾は養殖の適地で、ホタテ、ウニ、カキ、のり、ワカメ、ホヤなどが豊富にとれる。「森は海の恋人」は、唐桑町の畠山重篤氏のキャッチフレーズだが、里山を通って川が海に流れ込む地形が豊かな漁場を作りだしているのは、志津川も同じだと思う。

いい町だったのである。

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*朝の志津川湾。餌をやる人がいるのだろう、ウミネコが催促するようにバルコニーの手すりに何羽もやってくる。

私たちが着くと、仮設の集会所に人が集まりはじめた。高齢の女性が多く、手押し車にすがってゆっくり坂を登ってくる人もいる。

「お茶っこ」は和気藹々としたものだった。HUGハウスの人たちがすでに顔なじみであるのに加えて、こういう訪問には慣れっこになっているのだろう、仮設の人たちに警戒や緊張は感じられなかった。一通りのあいさつが済んだ後は、それぞれのテーブルに分かれお茶とお菓子で談話となった。他の3人は関西人なので言葉が分からずに苦労していたが、私は何とか理解できる。

よく話す人もいれば、そうでない人もいる。私の隣りは82歳の女性で、寡黙だったが、何かをすること(doing)よりも、いっしょにいること(being)の方が大切と昨日の研修で学んだので、話が途切れても焦らずに、ゆったり構えるようにした。
カフェは90分で終了。最後に、HUGちゃんが、「せっかく高野山からお坊さんが会いに来てくれたのだから、いっしょにお経を唱えましょう」と提案すると、みんな異論はないようなので、イヌイさんが頭を取って『般若心経』と諸真言を唱えた。クリスチャンであるおしょうさんは同時に別の祈り方をしていた。H村では16人が亡くなっている。

実は出発前、同僚の森崎さんから、「初めから僧侶の格好で行くな、お経は唱えるな」とのアドバイスを受けていた。ろくに話も聞かず、自分がやりたいパフォーマンスだけやろうというのでは、被災者に受け入れられるはずがないからである。「お経は最後」。これは大事な教訓を得た。

一度ハウスに戻った後、さんさん商店街に昼飯を食べにいった。

午後はA仮設とB仮設の個別訪問だった。A仮設にゆくと、ボランティアが作ったテーブルとベンチに人が集まっていた。地元ボランティアの一人はここの住人で、自分の家の中を私たちに見せてくれた。つまり被災者自身が被災者の心のケアをしているわけである。こうした地道な活動が「いやしのリレー」となって伝わってゆくことを願う。

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*こういうテーブルとベンチ。これが住人同士の交流にとても役に立っているようである。

B仮設でも外のベンチに何人かのお年寄りが集っていた。近頃雨が少なく、作付をしたいので、みんな雨を待っているという。

ここで私は一人の老人に出会った。薄くなった髪の毛も無精ひげも白くなっているが、骨格のがっしりした、よく日に焼けた古武士のような面構えの人物である。私はこの人の語りに舌を巻いた。震災の話ではない。それ以前の昔話である。私たちが高野山から来たと知ると、彼は、昔、大人たちから「高野山の可哀そうな子どもの話」を聞いたことがあると言った。「イシドウマルといったけかな。俺をおどなしくさせるために聞かせたことだろうけんど」

私たちが、それは刈萱道心と石童丸の話です、といって説明すると、老人は、生きているうちにこの話を知っている人が来たらいいなと思っていた、おかげで胸がすーっとした、と言って笑った。私は宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を連想していた。

ここでも最後にお経が上げられた。この地区では40人が流され、遺体はほとんど上がっていない。その場に集まった人のほとんどが肉親を失くしており、一緒に読経して泣く人が多かった。

HUGハウスに戻り、昨日と同じようにそれぞれ感想を述べあった。私はここまでであった。研修は明日までだが、私は山形の実家に行くことに決めていた。最後は、スタッフ全員との「ハグ」であった。いやはや、本当にお世話になった。

この日の夕食はホテル内にある「磯浜通り」というちょっとした料亭の個室だった。イヌイさんが「おしながき」を見て一言。

「おっ、今日の調理長は小野君か」

これが、この旅でのイヌイさんの最高のギャグだった。分かります?この何ともいえないおかしみ。

20日(木)9時前、HUGハウスに出かける3人を見送った後、ホテルの送迎バスで仙台駅に向かった。車窓から眺める志津川の海はあくまで穏やかに晴れ渡っている。独りになったせいか、いろいろな感情が一度にこみあげ、涙が流れて仕方がなかった。
高野山大学の力

HUG、HUG、HUG!

2012年09月27日
土曜日、クリーンセンターに粗大ごみを搬入したあと、久しぶりに「ろおじ」に行ったら、Kさんがお茶を飲んでいた。S賀さんは私を見るなり一言、「最近、市役所の人と何かこそこそやってはるんじゃないですか」。「ええ、こそこそやっていますが、まだ言えないんです」「(ブログに)あんな(曖昧な)こと書くぐらいやったら、書かない方がましなのに」。これには一本参ったが、書きたくとも書けないが、書けなくとも書きたいんだよね。

さて、18日午前9時過ぎ、私たちは志津川字田尻畑のHUGハウスに着き、代表の堤さんや宇根さん、そして地元ボランティアの人たちに迎えられた。そこには仮設住宅にベンチとテーブルを造って回る活動をしている二人組もきていた(このベンチとテーブルがとても役に立っていることを翌日訪れた仮設住宅で目撃することになる)。

HUGハウスは、カウンセリングやスピリチュアルケアの学びとケアの提供を通じて社会に貢献することを目的に掲げる団体だ。もともと神戸で発足したが、震災後、避難所になった志津川高校から活動を始め、2011年8月に田尻畑にケアカフェ心香(coco)をオープンさせてからは、南三陸に常駐して被災者支援活動を展開しているという。私たちは、HUGハウスが開いている「Come & See IN南三陸」という体験型研修を受けるためにここに来た。

挨拶の後、最初にしたことは自分の通り名を考えて名札に書くことであった。スタッフは全員そうしている。堤さんはHUGちゃん、宇根さんはおしょうさんという具合。これは社会的地位や肩書などを外して、一個の人間として相手に向き合うための準備と思われる。というわけで、私はそれからニ日間は「なおさん」になった。

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午前中は、こころのケアと傾聴のためのミニ研修で、「痛むいのち」によりそう心構えなどを学んだ。その中に沈黙の時間(10分間)とアイコンタクト(3分間)が含まれていた。アイコンタクトはペアを作って互いの目を見つめあうというもので、私はHUGちゃんと組になったが、なかなか印象的なことであった。なにしろ普段こんなことはすることはまずない。

この研修では、一段落するごとに全員がコメントを述べて、発見や感想を共有することになっている。「イヌイちゃん」とペアを組んだおしょうさんは、この人はとても正直な人だと思ったという。なかなか本質を突いているではないか。で、私はといえば、最初は何かニュアンスを出さなければならないのかと思ったけれど、そのうち力が抜けて心が静まるのを覚えたので、そういうことを述べた。これに対してHUGちゃんは、「優しさを感じた」と言ってくれた。この辺から、この研修に自分が前向きになるのを感じた。

昼食は、おしょうさんの案内で、おおもり食堂に食べにいった。

午後のプログラムは「町ナビ」であった。スタッフに案内してもらっての見学である。
最初に行ったのは、南三陸町立戸倉中学校である。この中学校は小高い丘の上にあるにもかかわらず、「台形の」波が二方向から押し寄せて校舎と体育館とをつなぐ渡り廊下を破壊した。窓から中をのぞくと、黒板に当時の予定が「3月11日(金)3・4校時卒業式総練習、3月12日(土)第64回卒業式」と書いてある。3・4校時が卒業式の練習であったとすれば、生徒たちは午後は帰宅したに違いない。ということは彼らの多くは自宅で被災した可能性が高い。

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はっとしたのは、玄関先のタイルにいっぱい書いてある子どもの落書きの中に次のことばを見つけた時であった。

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*「上からめせんで ドラキュラが!」

慌てて自分の心を点検してみる。自分は特に上から目線でも、吸血鬼でもないはずだが… しかしすぐに、これはそういう意味で書かれたものではないと思い当たった。ドラキュラが上から襲ってきた、というだけのことである。よく見ると、周りにそういうホラー系の絵がいろいろ描いてある。子どもはこういうのが好きなものだ。

ただ、想う。被災地には実にいろいろな人間がやってくるだろう。そこではごまかしは通用しない。試されるのは私たちのように外からやってきた人間の方である、と。また、絶対的に足らないとはいえ、被災地復興に巨額の資金が投じられていることは事実である。復興の血液は何といってもお金である。その血液が末端まで行き渡らないうちに、それを吸い上げようとする、それこそドラキュラのような輩がいないともかぎらない。さまざまな復興事業に行政の監視の目がきちんと行き渡っているのだろうか。

それから神割崎(かみわりさき)という景勝地に行って休憩した。この日は暑く、ハウスが用意してくれた冷たい麦茶がありがたかった。この岬にはおもしろい伝説があるのだが、ここでは省略する。それから町に取って返し、災害対策庁舎を訪れた後、ハウスに戻ってミーティング。一日の締めくくりは、やっぱり、というか何というか、お互いを「ハグ」しあうことであった。

特に動き回ったわけではないのに、どーっと疲れて観洋に戻り、夕食と入浴の後、早めに布団をかぶった。






高野山大学の力

ともかく志津川へ

2012年09月25日
4泊5日と聞いて私は驚いた。そりゃボランティアは大事だよ。しかし働き盛りの男が4人揃って4泊5日はないんじゃないかなあ…2泊で十分じゃないの、というのが正直な気持ちだった。
でもCome & See(見に来て)と言うのだから、行くだけ行ってみよう。とまあ、こんな心境で、何をするのかよく分からないまま、17日(月)の朝、東北に向かった。

新今宮のホームでイヌイさんをキャッチし、東海道、東北と新幹線を乗り継いで、2時半に仙台に着いた。東口で先着していた藤田学長と事務職の後藤さんと合流し、レンタカーで南三陸町に向かう。南三陸町は平成の大合併で志津川町と歌津町が合併してできた町だ。

町まで休憩を入れて約2時間のドライブは快適だった。しかし、下の一二列だけが枯死した奇妙な杉林が見えてきた時には、いよいよか、と思った。杉が枯れたのは塩害によるもので、それはそこまで津波が来た印だった。
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南三陸町滞在中の宿は、観洋という大きな観光ホテルだった。食事がよくて、お風呂はもちろん温泉。隅々までサービスが行き届いている。ちょっと贅沢なようだが、結果からいうと、これが正解だった。昼は慣れないことをやり、夜は雑魚寝では、身がもたない。それに現実問題、志津川ではここ以外には何軒かの民宿が営業を再開している程度らしく、後で知ったことだが、ボランディアに来たほかの人たちもここに泊まっていた。

部屋は10畳だが、4人相部屋なので、布団を敷くと結構狭い。3人のイビキに悩まされながら、何とか寝に就いた。

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*志津川湾の夜明け(撮影:後藤さん。この時私は睡眠中)。

18日(火)目覚めたら浴衣にびっしょり寝汗をかいていた。ひと風呂浴びてから朝食の会場に行くと、昨夜の泊り客は意外に多い。震災以後、さまざまな営業努力でここまで立ち直ってきたということが感じられた。

9時過ぎ、田尻畑にある「HUGハウス&ケアカフェ心香(ここ)」に到着。農家の納屋の一部を改造した体のものだ。



高野山大学の力

南三陸町防災対策庁舎

2012年09月24日
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有名になった防災対策庁舎である。あの日あの時、この庁舎の防災無線から流れ続ける、高台への非難を呼びかける若い女性の緊迫した声が、多くの人命を救った。その声の主、遠藤未希さん(南三陸町危機管理課職員)は帰らぬ人となった。未希さんだけはない。この建物で役場の職員と市民、あわせて41人が犠牲になった。

さんさん商店街という仮設の商店街の一画にある写真館で、高台から撮られた庁舎の写真を見た。一枚は荒れ狂う津波に囲まれた屋上に数十人の人間がいる恐ろしい写真。次の一枚は、その屋上が波に呑まれ、アンテナに一人だけしがみついているというさらに恐ろしい写真だ。この時流されたうちの何人かが非常階段の手すりに引っかかって命拾いしたという。

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私たちはここを2度訪れたが、いずれの場合も、多くの人がお参りに来ており、一種の聖地のような雰囲気だった。

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この建物には保存か取り壊しかの議論があるという。南三陸町民が決めることだが、震災からすでに1年半が経過しており、保存するならば、その措置は急いだ方がよいとの印象を受けた。

この建物から海に向かって300メートルほど離れた場所に、高野(たかの)会館という一部4階建ての建物がある。鉄骨だけになった防災庁舎と違い、外壁が残っている。堅牢な感じの建物だ。あの日、ここでは南三陸町の高齢者芸能発表会が開かれており、2階の会場には400人もの人がいたが、この会館の営業本部長の判断で4階に誘導されてほぼ全員が助かった。水位は4階のガラス窓にも達し、まるで水族館の中にいるようだったという。だが幸運にも窓ガラスは割れなかった。

紙一重の差で明暗が分かれるのが人間の運命であり、ここから簡単に何かが引き出せるわけではないかもしれないが、地方自治体の防災担当者にはもれなく参考にしてもらいたい事例である。



高野山大学の力

南三陸町おおもり食堂

2012年09月23日
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南三陸町志津川のおおもり食堂。津波で店が全壊した後、同じ場所に仮店舗を建て営業を再開した。テレビでも取り上げられたので知っている人もいるだろう。

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食堂の近くに立つ標柱。昭和35年のチリ地震津波の高さ3.1mを示している。その下に小さく明治29年の三陸地震津波の高さが2.9mと書いてある。今回の津波の水位は何と16mだった。

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食堂の背後の高台からの眺め。海が近い。瓦礫は一応片付けられており、夏草の間に建物の土台だけが顔をのぞかせている。

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*「悲しくても笑ってみる、なんとなくきらく」「この町でがんばります」「津波も来たけど 春もきた」

店内にはマスターの渡辺清吾さんやその他の人々の絵や文が飾られている。一つひとつが胸を打つ。

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*「お父さん もうさがさなくてもいいですよ ちゃんと天国ついたから」

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*「おい おまえら 一年すぎたぞ かえってこい 俺もさびしいぞ」

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*上「力をあわせすぎの図」=確かに「頑張ろう」とか「一つになろう」とか言われすぎるのは、息苦しいことだろう。
右下「23年3月11日の前の日の南三陸はなくなりました。のこされた私たちは町をつくらなければなりません。帰らぬ人々のためにがんばります」

 
 
高野山大学の力

マス・ヒステリア

2012年09月17日
ひと夏放置していたら、庭がジャングルになった。20日からマンションの大規模修繕がはじまるので、とりあえずサルスベリを枝打ちした。高い枝は二階のバルコニーの天井までとどいている。よく文句を言われなかったものだと思いながら、約1時間で作業を終えた。枝を切ったら急に庭が明るくなった。

加藤徹氏の『西太后』(中公新書)によると、清朝末期の西太后の時代には、その後の中国史の中で拡大再生産された多くのものがすでに現われているという。そのひとつが排外主義的マス・ヒステリア(大衆狂乱)である。西太后が義和団の乱を利用したように、毛沢東は文革を発動した。いずれにしても、その悲惨な結果を見れば、これがきわめて危険な政治手法であることが分かるはずだ。

これから東北に出かける。南三陸に3泊し、山形を回って帰る予定。

ある大学教員の日常茶飯

健康第一

2012年09月09日
私にとって、今回のチベット調査の一番の収穫は、これからもう一段スキルアップして、もう一仕事しようと心に決めたことである。何歳になっても、こういうことに遅すぎるということはない、と思う。

今度のチベット旅行は、眠れなくて困った。ある夜など「高地にはもう二度と来ません」と心に誓ったほどであったが、その後数時間眠ることができ、目が覚めた時には「これだけ眠れりゃあ、もうこっちのもんだ」という気になった。とにかく今回は高地への順応がゆっくりだった。

これからはいっそう健康第一、無理は禁物でいかなければならない。これは皆さんも同じですよね。

17日から南三陸に出かける。去年は釜石で瓦礫撤去のボランティアの真似事をさせてもらったが、今年はCome & See IN 南三陸というプロジェクトの研修を受けることが主になるらしい。らしい、とは他人事のようだが、計画はイヌイさんが受け持っているので、私はとりあえず現場に行けばよいことになっている。教職員4人のグループだ。

ただ帰りは独りになって、石巻、多賀城、名取あたりを見てこようと思っている。

ある大学教員の日常茶飯

京都でひと遊び

2012年09月07日
「今度京都でK寺のT村さんと一緒に飲みましょう」

菅澤先生のお誘いも3度目だったので、行くことにした。一昨日の午後のことである。その日のうちに出したいゲラがあったので、電車の中で校正していった。これが意外に手間取り、最後は阪急大宮駅のホームのベンチで20分ほどチェックしてから、階段を上がったら、ちょうど待ち合わせの6時半だった。

場所はさるホテル内の天ぷら割烹で、いつもの居酒屋とは大分勝手が違ったが、それだけに、すべてがおいしかった。T村さんの話がまた絶妙におもしろかった。

やはりその土地の決め手は人間である。この10年、京都にはゆうに200回は来ているが、あらためて思う。

京都は深い。

会が終わってから、喫茶店でもう一度ゲラをチェックし、タクシーでJR京都駅前の郵便局に出しにいった。それから四条大宮に取って返して、ホテルにチェックインした。菅澤先生が予約してくれたこのホテル、リーズナブルでとてもよかった。場所がまた便利である。これから、せいぜい使わせてもらおう。

翌朝、せっかく京都まで来てただ帰るのはもったいないので、京博で開かれている「大出雲展」に行った。最近こういう展覧会では、なるべく音声ガイドを借りるようにしている。耳で聞いた方が楽だし、なるほどと思わせる情報もある。会場が混んでいる時には集中力を失いがちなものだが、そういう時このガイドは、立ち止まって陳列品をよく見るきっかけにもなる。

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これは、2000年に発掘された宇豆(うづ)柱。出雲大社大型本殿遺構の柱材である。杉の大材を三本束ねた巨大なもの。鎌倉時代の遷宮に際して立てられたものらしい。昔の出雲大社がとんでもなく高い建物だったらしいということは、私の知識の中にもあるが、これはそれに肉付けしてくれる証拠の一つ。

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これがその復元模型。本物を高さ48メートル、階段の長さ109メートルと想定して作ってある。上の宇豆柱が発見される前に制作されたもので、異論もあるらしいが、壮大なイメージは伝わってくる。

ちなみにこのコーナーだけは写真撮影が許されていた。






ある大学教員の日常茶飯

白浜行

2012年09月03日
昨日午前8時半、「死せる孔明」が「生ける仲達」を走らせたのを確認した後、白浜に出発した。

白浜までは、龍神スカイラインを通って110数キロメートル、2時間半足らずの道のりである。

1時半から始まった講演会はなかなかの盛況だったと思う。例によって、話が脱線して時間をロスし、まとまらないまま終わったのは反省材料だが、だいたいにおいて「分かりやすかった」という評価だったようなので、まあ、よしとしておこう。

終わって、館長室で話をしているうちに、岡本理事が私をいい温泉に案内してくれることになった。せっかく白浜まできたのだから、ひと風呂浴びてから帰りたかったのだ。

その温泉は丘の上のホテルの中にあり、大浴場からは白浜一帯が見渡せた。実に爽快だった。地元の岡本さんが通っているだけあって泉質もよいようだった。

帰路は行楽帰りの車で道が混んでいたので、バイパスを避けて田辺の市街地に抜けた。夕食をとろうとウロウロしたが、あいにく駐車場のある適当な食堂が見つからなかったので、来た道を高野山に戻った。

ある大学教員の日常茶飯

南方熊楠を知る講座~熊楠ワールド~

2012年09月01日
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*昨日の夕方、霊宝館前で。大雨のあと、木々から雨水がしたたりおちるのがきれいだった。

このところ、意図的に仕事のペースを落としている。仕事をやりながら、疲れを取るためだ。

しかし明日は、白浜町の南方熊楠記念館で「南方熊楠と仏教」と題して講演をするので、今日の午後からはその準備のために頭を動かさなければならない。

この講演、「南方熊楠を知る講座~熊楠ワールド~」と題された3回シリーズの1回目で、胴元は「コンソーシアム和歌山」だ。

3回の講座日程は次の通り。

第1回 9月2日(日)13:30~15:00「南方熊楠と仏教」 奥山直司
第2回 10月7日(日)同時間「熊野における南方熊楠」 吉川壽洋先生
第3回 11月4日(日)同時間「南方熊楠と粘菌」 山東英幸先生

場所は南方熊楠記念館の会議室、参加費は無料、お問い合わせは南方熊楠記念館内の南方熊楠ワールド研究会まで。

ところで、今朝のワイドショーによると、スパゲティのナポリタンの発祥地は横浜のホテル・ニューグランドであるとのこと。ニューグランドの創業者は、土宜法龍とも深い縁のあった野村洋三である。以前、『高山寺蔵 南方熊楠書翰』(藤原書店)の編集をしていた時、これが終わったら打ち上げは是非ニューグランドで、と考えたことを想いだした。ホテルは山下公園のすぐそばで、なかなかレトロな建物のようだ。これはいつか食べにゆかねばならぬ。
ある大学教員の日常茶飯
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