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訃報

2011年12月30日
A路さんが亡くなった。それを知ったのは一昨日の昼近く、「ろうじ」のS賀さんからのメールによってである。それによれば、前の晩がお通夜、その日の正午から告別式で、弔電を打つ余裕もなかった。年が明けたら、時期を見て弔問に行かなければならない。11月にお見舞いに行けたのが、せめてもの慰めだ。

前に書いたように、私はA路さんから大きな研究上の恩恵を受けた。それは私に限ったことではなく、島本久恵の『北旅籠町』のあとがきにもそのようなことが書いてある。島本久恵は詩人河井酔茗の夫人である。酔茗は北旅籠町の生まれで、同じ町内の樽屋のせがれ河口定治郎(慧海)とも親しかったが、その夫人までが昔の堺に詳しかったわけではなかろう。無論文学はその作家のものだが、素材にはA路さんからのアドバイスも含まれていたものと思われる。

A路さんには文化人を後援した昔の堺商人の面影があった。ご冥福を祈りたい。


ある大学教員の日常茶飯

岡本隆司『李鴻章―東アジアの近代』

2011年12月29日
まだ仕事に区切りがつかないので厳寒の御山に留まっている。仕事というのは、来年7月にソウルで開かれる学会での発表題目と要旨である。一応書き終わったのだが、これじゃいかん、まるで進歩がない、と自分でダメ出しして、もう半日やることにした。

こんな時なんだが、読み上げた本があるので、忘れないうちに感想でも書いておこう。

岡本隆司『李鴻章―東アジアの近代』岩波新書、岩波書店、2011年

李鴻章(1823-1901)は清朝末期の政治家で、「東洋のビスマルク」とも呼ばれた。状況は彼にビスマルクほどの活躍は許さなかったが、やはり並外れた大政治家だったというのが本書を読み終えての感想である。

本書の中で私は、日本との関係を述べたところがやはり一番面白かった。李鴻章は日本の台頭を警戒し、よく研究していた。彼は、日本による台湾出兵(1874)と琉球処分(1879)を通して日本を第一の仮想敵国とみなすようになる。しかし彼我の力を冷静に計る目を持っていて、日本との戦いはできるかぎり避けようとした。が、日清戦争では北洋大臣・直隷総督として矢面に立ち、敗れて、清朝にとっては過酷な下関条約に調印を余儀なくされる。

重要なのはここからで、李鴻章は、日清戦争の敗北を挽回するために日本との問題にロシアを引き込む工作をする。このことがその後の東アジアの命運を左右したと著者は言う。李鴻章は三国干渉を実現させ、さらに露清秘密同盟を結んで、東三省にロシアの勢力を引き入れた。そしてそれが「日露戦争・満州事変の出発点をなし、ひいては日中戦争をひきおこす原因となった」。
こういう流れの中で中国が被った惨害は計り知れないものがあるから、その引き金を引いた彼の責任は重大と言わなければならない。ただ著者は、当時の状況では、誰がやっても、ほかの選択肢はなかったのだと言う。そして、李鴻章の失策を言うのであれば、「日清開戦を導いた朝鮮への出兵が、(彼の)生涯最大の失策であり、そうならざるをえなかった、一貫した日本敵視こそ、そもそも失策というべきであろう」と述べる。

ここまで読めば、李鴻章という一個人の意思と行動が、実は日本の近代の歩みをも大きく左右したということが理解される。そして1945年の敗戦から時間をさかのぼってゆけば、別の未来につながるさまざまな岐路があったかもしれない、という思いに誘われる。

本書を読み進めるうちに「団練」「教案」「督撫重権」などの用語が自然に身についてゆく。何気ないが、これはかなりの工夫だと思う。

ところで、李鴻章は太平天国の乱の血と硝煙の中で恩師・曽国藩の幕僚として頭角を現した。後に金陵刻経処を作って清末に仏教復興運動を展開した楊文会(1837-1911)も曽国藩・李鴻章の幕僚であった。彼は出身が安徽省で、李鴻章と同じである。その辺の関係がどうなっていたかは、今度陳継東さんに会ったら聞いてみよう。

読書ノート

高橋箒庵

2011年12月26日
高野山は昨日の最高気温がマイナス2.5℃だったらしい。おそらく今日はもっと寒い。


昨日電車の中で『白洲正子自伝』(新潮文庫)を読んでいて、おや、と思った。高橋箒庵(そうあん)の名前が目に飛び込んできたからだ。
この文庫本は、いつ買ったか記憶にないほど前に買ったものだが、最初の20ページほど読んだだけで放りだしていた。わがままいっぱいに育った華族のお嬢様の思い出話なんぞ…という気があった。改めて手に取ることにしたのは、この著者のものはやはり読んでおくべきだろうと思い返したからだ。案の定、気を入れて読めば、結構おもしろい。

「その頃東京には高橋箒庵と呼ぶ茶道のプロデューサーがいた。『大正名器鑑』を作成した人で、ああいう職業を何と呼ぶのか私は知らないが、桃山時代でいえば光悦のような教養人で(もちろん光悦ほどの才能も技倆も持ち合わせてはいなかったが)、建築や造園については広い知識があり、相談するには持ってこいの人物であった」(p.57)

ここでいう相談とは、著者の母から箒庵への、御殿場の別宅に庭を造りたいが、という相談である。箒庵は腕のいい庭師を紹介し、その庭師が箒庵の命令のもと手足のように動いて庭を完成させたという話になっている。

著者はこれ以上何も言わないが、箒庵は本名を高橋義雄といい、三井系の財界人で、同時に数寄者(すきしゃ)として知られた人物である。著者の父は、「益田鈍翁や三井家の人々と交遊があった」(p.54)という。高橋義雄も当然そういう交遊ネットワークの中に入っていたはずの人である。

高橋義雄の名前を知ったのは大分前だが、最近強く意識するようになったのは、U原君のおかげである。彼は今修士論文を書いているが、そのテーマが箒庵高橋義雄と深く関係しているのだ。私はこのテーマに以前から関心を持ち、ゼミ生の卒論に勧めたこともあるが、ものになりそうなのはU原君が初めてだ。









研究ノート

人文研研究プロジェクト 新春第1弾予告「開発僧―タイ仏教と地域開発」

2011年12月21日
公開講演会

テーマ「開発僧―タイ仏教と地域開発」

講師:プラユキ・ナラテボー師(タイ・スカトー寺副住職)
   「タイ開発僧との出会いから出家へ、そして自他の心の開発へ」

講師:泉経武氏(東京成徳大学非常勤講師)
   「『開発の時代』とタイ仏教」

コメンテーター:ロバート・ローズ氏(大谷大学教授)
司会:奥山

日時:2012年1月21日(土)午後2:00~6:00
場所:京都大学人文科学研究所本館 4階大会議室

というわけで、『苦しまなくて、いいんだよ。』(PHP研究所)などの著書で知られるプラユキ・ナラテボーさんとタイの開発僧に詳しい泉さんを迎えて、タイの開発(かいほつ)僧に焦点を当てた公開講演会を開きます。コメンテーターはロバート・ローズさんに二つ返事でお引き受けいただきました。

お問い合わせは、コメントまたは拍手の欄に!

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新春吉例「十二支考」輪読

2011年12月20日
新春吉例「十二支考」輪読
當る辰年「田原藤太竜宮入りの譚」

講演会
講師:松居竜五 龍谷大学准教授
日時:1月7日(土) 午後1:30~
会場:田辺市南方熊楠顕彰館 学習室


南方熊楠顕彰会には知恵者が多いが、それにしても面白いことを考えたものである。熊楠の代表的著作に「十二支考」がある。それぞれの動物に関わる民俗や伝説を博引旁証で記したものだが、これをその年の年男、年女が順番に責任者になって読んでゆくのを顕彰館の新春恒例行事にしようというのだ。

「十二支考」には「牛に関する民俗と伝説」がない。調べてみると、やはり研究者仲間にも丑年生まれがいない。実によくできている。

トップバッターは松居五先生である。賑々しくやってくれるに違いない。

私は申年だから、辰、巳、午、未、申でまる4年後だ、と、ここまで考えてはたと思い当たった。今度の申年に私は還暦であることに。あちゃ~…

ある大学教員の日常茶飯

203高地

2011年12月17日
午前2時過ぎに仕事が終わったが、用事があったので、朝まで待って6時27分発のケーブルで御山を下りた。この歳で完全徹夜はやはりきつい。

そもそも3日で60枚というのは、いくらもとがあるとはいえ、やっぱり無茶だった。その前は20枚と5枚に合計1ヵ月はかけている。私は、体力は人並み以上だが、筆が遅くて集中力がないから、遊びながらだらだら仕事をするのが自分のペースになっている。文章は何回も読み直しながら、あーでもない、こーでもないと手を入れないと気が済まない。一気にがーっと書くとめちゃくちゃになる。と、書いてから、メールで送った原稿を読み直してみると、これはこれでまあまあよく書けている。

さて、「坂の上の雲」にはたくさんの人物が登場するが、その中で一番割を食っているのは第三軍参謀長としての伊地知幸介だろう。司令官の乃木大将は何といっても日露戦争のシンボル的存在である。最終的責任は軍司令官が負うとしても個々の作戦は参謀の仕事だ。「無茶な作戦」で部下を多く死なせた直接の責任は多く伊地知にあるというわけで、原作でも大分筆誅を加えられていたと記憶する。実際の評価はさまざまだということは前に書いた。

そういうわけだから先週の「203高地」でも伊地知役の村田雄浩(映画「203高地」では稲葉義男)にどうしても目がいった。で、彼は彼で必死にやっていたのだ、という感じがよく表れていてよかったのじゃなかろうか。乃木による203高地への攻撃目標の転換命令を電話で伝える場面なぞ、見ていて思わず目頭が熱くなる熱演だった。

相手「全力でやるんだな。全力で203を落とすんだなあ」
伊地知「やる。やりもうす。全力でやる!」(記憶のままに)

もう一つ。第7師団長大迫尚敏役の品川徹が203高地を眺めながらぽつりと漏らす一言もすごみがあってよかった。

「おいたちがみな死んだら何とか取れるじゃろかいのう…」

数日後、

児玉「北海道の兵は強いと聞いておるが」
大迫「さようでございます。強うございました。1万5千の兵が1000人になってしまいました…」




























ある大学教員の日常茶飯

締切、しめきり

2011年12月15日
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*キャンパス内の味のある樹。

とっくに締切が過ぎていた原稿を火曜日に出した。それからもう一つの原稿にかかったが、その締切が今日だ。おかげで昨日の教員忘年会は欠席せざるを得なかった。私にしてみれば、珍しいことだ。実は今日もあと2時間もすれば、どうしてもでかけなければならない用事があり、帰りは夜だ。まあ、原稿の送付は明日の朝までで許してくれるだろう。

ある大学教員の日常茶飯

日記に読む近代日本5 アジアと日本

2011年12月13日
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昨日届いた。すっきりしたいい装丁である。裏表紙には次のようにある。

「帝国主義の時代、アジアと日本のはざまで活動し交流を深める人たちがいた。
竹内好・河口慧海をはじめ、人類学者、実業家、アジア人留学生…。
民間レベルの外交に活躍した人々に光をあて、
知られざる波瀾の生涯を描く。」

なかなかの名調子である。前にも書いたが、私は本書で「河口慧海日記」と寺本婉雅の「蔵蒙旅日記」の2編の紹介を担当している。寄稿をお勧め下さった学習院大学の武内房司先生(本巻の編者)に感謝。
読書案内

田辺で開かれた第8回南方熊楠ゼミナールに参加

2011年12月11日
10日に田辺市のシティプラザ・ホテルで開かれた第8回南方熊楠ゼミナールに2泊で参加した。
今回は、熊楠没後70周年の記念大会で、ラジオ・ウォークもあり、別口でテレビ局も来ているということで、いつも以上ににぎにぎしい雰囲気であった。

9日(金)の午後3時過ぎ、初冠雪で寒~い御山を降りて、田辺に向かう。5時半ごろ田辺のシティプラザ・ホテルにチェックイン。翌日の午前中には和歌山放送の「ラジオ&ウォーク『今、南方熊楠が発信するもの』」があって、中瀬館長、濱岸さん、田村さん、安田さんがご出演だった。特に安田村の御両人によるしゃべくりは是非聴きたかったが、私は前夜3時過ぎまで原稿を書いていたので、残念ながら失礼して静養に努めた。

お昼、昼食を兼ねて打ち合わせを行う。1時半開演。

司会:田村義也先生(南方熊楠顕彰会)
本日のプログラム:

あいさつ 真砂充敏田辺市長・南方熊楠ゼミナール実行委員会会長

基調講演 中垣俊之先生(公立はこだて未来大学教授)「粘菌からのぞく行動知の起源―学際的視点から―」

研究発表 ①奥山直司「南方マンダラはどこまで曼荼羅か―「南方熊楠と仏教」研究の現在―」
     ②唐澤太輔さん(早稲田大学助手)「南方熊楠の夢―中間領域への関心/晩年の夢―」

パネルディスカッション
没後70年「今、南方熊楠が発信するもの」
コーディネーター 松居竜五先生(龍谷大学准教授)
コメンテーター 萩原博光先生(国立科学博物館名誉研究員)
パネリスト 尾関章先生(朝日新聞東京本社編集委員)
      唐澤、奥山

閉会あいさつ 西林則男先生(南方熊楠記念館館長)

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中垣先生のお話は、お人柄がよく表れたユーモラスでありながら理科系的にきっちり組み立てられたもので、どのような方法で実験・観察・測定をしているのかが大体分かった。つづめて言えば、中垣先生の御著書の帯にあるように、粘菌は「脳はなくても賢い」。松居先生もおっしゃっていたが、人間とはまったく違った知性のあり方があるという事実に驚く。そもそも知性とは何か、心とは何か、さらに生死とは何かを考えさせられた。

研究発表①はおいておいて、②は唐澤さんがずっと取り組んでいる「夢の採集者」としての熊楠の研究の一部を披露するもの。その資料に紹介された娘の南方文枝さんが伝える熊楠の最期のことばに改めてしんみりする。

「私はこれからぐっすり眠るから誰も私に手を触れないでおくれ。縁の下に白い小鳥が死んでいるから明朝手厚く葬ってほしい。…頭からすっぽり自分の羽織をかけておくれ。では、おまえたちもみんな間違いなくおやすみなさい。私もぐっすりやすむから」

熊楠にとって、白い小鳥のむくろとはいったい何だったのだろう。

パネルディスカッションは、1時間半の時間があっという間だった。萩原先生には、そもそも粘菌とは何なんですか、という幼稚な質問に答えていただいたし、尾関先生の「最近も発見が相次いで、人類と地球外生命との遭遇が存外おとぎ話ではなくなってきている。それは人間とはまったく違った種類の知性の持ち主かもしれない」という言葉にはわくわくした。

終演後、6時半ごろから同じ会場で懇親会。1次会で部屋に切り上げたのが、私としては上出来だった。しかし、翌日○さんに「昨夜はおとなしかったですね。次はしっかり騒いでください」と言われた。どうも前回「銀ちろ」の宴会で私は騒ぎすぎたらしい。でも、あのときは○さんこそむちゃくちゃ騒いでいたよなあ。まあ、酒の飲み方だけ熊楠に近づいても仕方がない。

一夜明けて、10時に顕彰館に行き、ゼミナールを機に資料調べにやってきた院生のHさんを手伝う。昼食はパークサイド・ホテルの上階で取り、2時過ぎに顕彰館をあとにした。



研究ノート

ニチャン・リンポチェ師来校

2011年12月06日
今日の午後、チベット仏教ニンマ派の活仏ニチャン・リンポチェ師が来学されたので、応接室で懇談した後、黎明館をご案内した。

ニチャン師は1974年にダライ・ラマ法王の命によって初来日し、高野山大学で数年間チベット語とチベット仏教を教えられた。その後、東京に移り、日本とインドを中心に活動されてきた。

ニチャン師とのご縁は、東北大学の河口慧海コレクションの図録の作成に編集スタッフの一員として携わってからのことである。ニチャン師はチベット仏教の図像に非常に詳しく、師に教えられながら、私は現物に即して学ぶという得難い機会を得た。

思い出に残るのは、この図録の追い込みのため、1985年の12月に東京の中野辺りの旅館に数日間缶詰になったことである。そこはさる有名な俳優同士が結婚前に密会を重ねた、いわくつきの場所であった。

その旅館で二晩ほど、私は師と枕を並べて眠った。仕事が終わって仙台行きの新幹線に乗ったのはクリスマスイブのことだったように思う。

黎明館でビデオを見ながら、ニチャン師に、
「ダライ・ラマ法王のおかげで、私も悪い心が少し減りました」と申し上げると、師は、
「それはオクヤマさんが以前から密教を学んで準備ができていたからでしょう」と言われた。
師の言葉はいつも肯定的だ。

そのあと、イヌイさんと一緒にD院の玄関までお送りした。お別れするとき、師は、私たち二人を見比べるようにして、
「二人とも大学教授らしくなりましたね」とおっしゃった。

ニチャン先生、いつまでもお元気で、仏法のためにご尽力下さいますよう。

ありがとうございました。

ニチャン・リンポチェ師は法王様より3歳年上の今年79歳である。





ある大学教員の日常茶飯
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