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ダライ・ラマ法王招聘実行委員会

2011年11月30日
11月の末としては妙に生温かい昨日の午後、難波で高野山大学ダライ・ラマ法王招聘実行委員会が開かれた。今回で13回目のこの会議、招聘事業そのものは1か月前に終わっており、もはや残務整理の段階なので、深刻なやり取りもなく、和気藹々とした雰囲気の中で進んだ。最後に日本チベットハウスのL代表から懇切なご挨拶があった。

法王招聘事業は「大成功」と胸を張っても決して手前味噌ではない結果を残すことができた。

「これは高野山大学以外では絶対に実現できないことだ」

金剛界灌頂を始めとするイベントに参加された多くの方々から聞かれた感想である。

ただこれを一時の打ち上げ花火に終わらせず、今後につなげていくことが肝心だと思う。

会議後、喫茶店でしばし懇談。L代表から、法王様による石巻での法要の様子を聞いて胸が熱くなった。

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*11月1日、灌頂一日目、受者の入場を前に、準備を整えるボランティアのみなさん。本当にお世話になりました。

高野山大学の力

ダライ・ラマ法王関係の写真がアップ

2011年11月27日
高野山大学のホームページにダライ・ラマ法王関係の写真が一挙にアップされた。

そこで私も一つ。

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完成した金剛界マンダラ(10月29日)。これが正面である。斜め上から見ると、

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最初は30日の夕方まで掛かるとの説明だったが、ナムギェル僧院のお坊さんたちが夜遅くまで頑張った結果、一日半ほど早く完成した。青く塗られた台板が1辺1.5m。うちの大学の建物では、これより大きいと出し入れに困ることが分かった。

砂を軽くフィックスして、今は本館の一室に保管されている。

ある大学教員の日常茶飯

「クッ」に行く

2011年11月25日
23日、「クッ」に出かけた。韓国シャーマニズムの公演である。

早めにロビーに行ったら、今日の講師の川村さんがうろうろしていた。川村さんに会うのは2年ほど前、京都の四条河原町の蕎麦屋で山折先生を囲むと称して飲んで以来だ。

「いやー、ただ飲み食いすればいいんだと思ったら、話だっちゅーもんだから…ところで何時から始まんの?1時?」といつもの川村さんであった。
「1時半です」

開演時間が近づくと会場はぎっしり満員になった。場所が韓国人会館、出し物がムーダンということで、観客のほとんどが韓国系の人々だったと思う。

川村さんの講演「日韓のシャーマニズム」は、マイペースな個性あふれる、なかなかのものであった。休憩時間に韓国からかけつけた女子学生が、「感動した」と言って話に行っていた。

つづいて「ハニャン・クッ」の公演。この種のものを見るのはまったく初めてで実に興味深かったが、なぜか途中から私自身がトランス状態に入り、しばらく夢うつつの間を彷徨った。

本来数日かけて演ずるものだという。韓国の村の神廟で飲み食いしながらゆっくり見物したらもっと面白かろう。その雰囲気は、以前、中国の青海省同仁県(レプコン)で見た「六月会」にも通じるもので、六月会では神々が憑依したハワ(神人)と呼ばれるシャーマンが銅鑼を鳴らしながら踊ったりご託宣を述べたりする。

第三部は韓国伝統芸能公演で、ヨ・ヨンファ(呂英華)さんとそのお弟子さんたちやお友だちが総出演で、踊ったり歌ったり、実ににぎにぎしく結構であった。みんなそろって美人であることもまた結構であった。

ヨ・ヨンファさんの解説もふるっていた。
「うちは美人しか採りません。でも私より美人は採らないことにしています」

とにかく大成功で、ヨ・ヨンファさん一党とスタッフとして働いた皆さんには、おめでとうと言いたい。

終演の後、会場を片付けてその場で宴会というのも、飾らなくてとてもよかった。F坂先生とU野さんのサバー組も残って参加した。

川村さんとは谷町線中崎町のプラットフォームで別れたが、「こんどまた遊びに来い」ということだった。でも川村さん、この前お宅に遊びに行ったのは、天安門事件の最中だったから22年前ですけど。






フィールドワークの記録

第五回 人文研公募研究会

2011年11月21日
昨夜から今朝にかけて高野山はやたらと寒かった。N田さんによれば、今朝の気温は2度だったという。考えてみれば、もう11月も下旬である。今年ももうじき終わりか。例年ならばそう考えただけで鬱々とした気分に誘われるが、今年はそんなことは、あーりません。

さて、19日土曜日、今年度5回目となる京大人文研公募研究プロジェクト(奥山班)研究会が開かれた。今回の発表者と題目は次の通り。

舟橋健太氏(京大東南アジア研究所COE研究員)「インドの『エンゲイジド・ブッディズム』―R.B.アンベードカルの仏教改宗と現代インドの仏教運動―」
 
四戸潤弥氏(同志社大学神学部教授)「イスラーム法事案をめぐる信徒の世界と非信徒の世界の位相―ヒジャーブ論争を通じてみた教義と対立の構図―」

舟橋さんには急遽お願いして発表してもらった。インドのウッタルプラデーシュ州が主な調査地で、現地の実情が聴けたのが貴重だった。いわゆるインドの新仏教徒について基本から教えてもらった感じ。多くの質問が出て、発表時間の2倍くらいの質疑応答になった。これはとてもよいことだ。

近日広島や東京でも発表するらしい。勢いというのも大事である。

四戸さんとはK-GURSの評議員仲間として知り合い、すごい大家なのに敷居がとても低いのに惚れて、班員になってもらった。学者ってーのは、こうでなくっちゃいけないね、と思わされる人の一人だ。

K-GURSの評議会はよく今出川にある同志社の神学部棟の会議室で開かれることが多いから、そういう場合は、早めに行って研究室にお邪魔することにしている。この間も、行ったら缶コーヒーを一本おごってくれた。

発表では、どんな質問にもつるつる答え、イスラーム法学研究の重要性を説いて止まなかった。

とても愉快な一日だった。

研究ノート

マイナスの感情が消えた

2011年11月18日
最近感じるのは、怒り、焦り、後悔などマイナスの感情がほとんど湧かないということである。最近というのはダライ・ラマ法王ウィーク以来ということで、これもダライ・ラマ法王効果だと思う。

考えてみれば、ここ数年、ともすればマイナスの感情にとらわれがちだった。私の周囲にはそういう感情の因子が相変わらずうようよしているから、少しでも変わったとすればそれは私の心の方だと思う。そういうことにかかずらわっているより、残りの人生を有意義に使おう。いつまで続くかはわからないが、今はそう思っている。

でもあんまりのんびりしていたら、原稿の締め切りが一つ過ぎ、二つ目が来てしまった。
ある大学教員の日常茶飯

ダライ・ラマ法王をお見送り

2011年11月15日
11月4日(金)随行者用の小型バスに便乗して法王様を伊丹空港までお見送りした。

晴れた秋の一日、ドライブにはいい日和だが、高野山から大阪・伊丹までは結構な長丁場である。途中コンビニで休憩する。大阪市内で高速を降りてから道路が混みあい、昼食を取るためのホテルに到着するのがやや遅れた。昼食時、通訳の労をお取りいただいたMRさんと隣り合わせになった。時間があまりないので、こちらの用件を中心に少しだけ話をして再会を約する。

小型バスは他の車輛からどうしても遅れがちになり、空港に着いた時には法王様たちはすでにVIPルームへの入口を通過した後だった。

私はここまでである。エレベーターに乗った随行の人たちに「また会いましょう」と別れを告げた。

空港ビルで昼食を取る事務方に付き合い、N田さんの運転する小型バスで御山に戻った。

それから日曜日の錦西小学校での講演会用のレジュメを作った。明くる日はパワーポイントで映像をこさえて堺に戻る。→11月7日アップの「錦西小学校での講演会とA路さんのこと」へ続く。

法王様は仙台、石巻、郡山で法要や講演をした後、7日に次の目的地モンゴルに向かわれた。藤田学長によれば、高野山での滞在を非常に喜んでおられ、日本のポタラだ、ダラムサラに帰ったようだと仰っていたという。
高野山大学の力

高野山大学学長、ダライ・ラマ法王と密教を語る(2)

2011年11月15日
続いて、私は日本とチベットの交流史について簡単に説明した。唐王朝の宮廷で日本の使節団が吐蕃(古代チベット帝国)の使節団と会ったという記録があるが、本格的な交流は明治維新以後に始まること。1890年代に日本仏教界にチベット・ブームが起こること。その目的は本当の仏教を探すことにあったこと。

私が、「1901年に日本人で初めてハサ(拉薩)に到達したのは河口慧海です」と述べると、

「おお、カワグチの名は聞いたことがある」との仰せであった。

慧海の後、西本願寺によって青木文教師とともにチベットに派遣された多田等観先生に触れたところでは、多田先生がダライ・ラマ法王13世より遺言によって贈られた仏伝図タンカ・セットの複製(『釈尊絵伝』学習研究社)を2枚ほどお見せした。現在花巻市立博物館に蔵されているこのタンカは、チベットの仏伝図の白眉というべき名品である。これを日本に贈れと命じた法王の思いは、世界に正しい仏教を弘めよ、ということにあったとされる。こういうこともお話させてもらった。

私の話を受けて法王は、これからの学術交流について積極的なご意見を述べられた。最後に未来に向けたメッセージが発信できたら、と考えていた私には、願ったり叶ったりのことだった。

ここでタイムアップ。ダライ・ラマ法王ウィークはついに大団円を迎えた。

法王をお見送りした後、最後にイヌイさんが閉会のあいさつに立ったが、万感胸に迫って言葉に詰まり、見ている人がもらい泣きをするほどだったという。私は楽屋にいてこれに気付かなかった。惜しいことをしたものである。

聴衆が去ってすっかりがらんとした講堂で、余韻に浸りながら後片付けの手伝いをした。その後どうやって曼荼羅荘に戻ったかはよく覚えていない。

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*静寂を取り戻した黎明館。



高野山大学の力

高野山大学学長、ダライ・ラマ法王と密教を語る(1)法王に自分が見た夢について相談する

2011年11月14日
「密教を語る」の大学側の出席者は、藤田光寛学長、乾仁志教授、川崎一洋密教文化研究所受託研究員、それに私、である。

予め大雑把に決めていたことは、藤田学長が高野山滞在の印象などをお聞きした後、本題に入る。藤田学長の話題は、8世紀後半、チベット最初の僧院サムイェー寺で行われた授戒に関するものだ。藤田学長はインド・チベット仏教の戒の専門家である。これは前々から一度聞いてみたいと思っていたことらしい。

乾さんは日本密教の世界観・生命観などを話題にする。川崎さんは当初巡礼について話す予定が、法身の問題に切り替えた。いずれも真言宗の教義の根幹にかかわる問題である。こういう話題は聴衆には必ずしも分かりよくはないだろう。だがこうした問題に触れることも、日本密教とチベット密教の学術交流には必要なことであり、またふさわしいことだという思いがあった。

案の定、議論は途中からとても晦渋なものになった。通訳の言葉の問題もいくらかあったらしく、議論がうまくかみ合わない。ただ収穫はあった。こういうテーマでチベットと日本の学者が意見交換することも可能なことが分かったことである。これは将来につながることだと思う。

チベットの学僧は一般に伝統的な教学について博大な知識を持っている。これに対して日本の学者は日本密教の伝統の上に科学的な方法論を身に着けている。両密教の交流が本格的に進めば双方にとって得るものは大きいはずだ。

さて1時間半以上経ってから、私の番になった。以下に記すやりとりは、かなり圧縮したものである(正確には録音を聞いて直すことにしたいと思っている)。

「私の質問は二つです。一つは質問というよりは個人的相談のようなものです。もう一つはより一般的な説明です。まず法王様にお伺いいたします。昨日まで二日にわたって金剛界灌頂を授けてくださいましたが、その中に二日目の夜明けに見た夢で成就の吉凶を占うということがありました。その際、自分がどんな夢を見たかをこのような大勢の人の前でしゃべってもよいものでしょうか」
法王「かまわないよ」
私「私が見た夢は、マンダラの一部のような図形です。色はライトブルー。そして頭の中で『滅』(めつ)という声が聞こえました。苦集滅道の滅です」
法王「それはとてもよい夢だ。将来、涅槃に入ることができるよい兆しのように思われる」
私「ありがとうございます。心に刻んで努力します」
法王「しかしよい夢を見たということで、それに執着心を起こすようであれば、かえって修行の妨げになるので注意しなければならない」
私「はい、肝に銘じます」

それまで毎日砂マンダラが大きくなってゆくさまを観察していたから、このような夢を見たのかもしれない。公の席で法王様に個人的相談とは相当に厚かましかったが、会場の空気を換える効果もいくらかあったかと思われる。
高野山大学の力

ダライ・ラマ法王と科学者の対話

2011年11月13日
11月2日の昼、ダライ・ラマ法王はD院を訪ね、人々と昼食を共にされた。それにしても驚くのは今年76歳になられたとは思えない法王のタフネスぶりである。29日に来日されてから、過密ともいえるスケジュールを平然とこなしておられる。しかも高野山の後は被災地の仙台、石巻、郡山に行かれるのである。

2日目の灌頂本会も無事終了し、砂曼荼羅の御開帳も終わると、スタッフの間にほっとした空気が流れ、「あと一日ですね」という声も聞かれた。その通りではあるが、その1日が問題だと私は思っていた。
午前中は「ダライ・ラマ法王と科学者の対話」である。これはもう茂木健一郎先生にすべてお任せするつもりでいるので気は楽である。しかし最後のセッション「高野山大学学長、ダライ・ラマ法王と密教を語る」は、今回の法王ウィークの総まとめにもなるためうまく乗り切らなければならない。この「密教を語る」は、ダライ・ラマ法王と藤田学長が一対一で対談するのではない。イヌイさん、川崎さん、そして私も一緒に出ることになっている。

基本は法王の御話であることは間違いない。聴衆は何よりもこれを聴きに来るのだから。しかし、ある程度は議論になることが望ましいと私は考えていた。「法王様にも日本密教について知っていただく」不遜にもこう考えていた。しかし、これまでにも書いた通り、本番が近付くにつれて、下手なおもんぱかりや意地のようなものはすっかり脱落して、「法王様のお話をお伺いする」というスタンスでいいのだという気持ちになっていた。

それでも11月2日の晩には、イヌイさんと簡単な打ち合わせをした。イヌイさんは今日まで灌頂に忙殺されてきたので、考える暇はなかったはずである。しかし私が大体の構想を話すと、これから帰って準備すると言ってくれた。つくづく土壇場に強い人である。

11月3日はあいにくの小雨であった。早くにセッティングを終え、控室で佐治晴夫先生、ナターリア・ポルリャーフ先生、茂木健一郎先生をお迎えする。特に一番早く来られた佐治先生からは興味深いお話をいろいろ伺った。

「科学者との対話」は、茂木先生の軽妙な司会もあって、とてもおもしろく刺激的なものになった。惜しむらくは、時間が足らなかった。茂木先生は、自然科学系の人らしく、時間を厳密に守ってくださり進行役としては助かったが、聴衆の一人としては、もう少し聴きたかった気がする。もっとも、宇宙や生命の本質に迫るこの議論、いくら時間があっても足りることはないだろう。またこれにはわが藤田学長も飛び入り参加した。

この日は法王がS院に来られ、昼食会が開かれた。間近で見ていて驚いたのは法王の健啖ぶりであった。法王は非時食戒(ひじじきかい=正午から翌日の夜明けまで食事をしない戒)を守って夕食は取られない。非時食戒を守ったことで知られる河口慧海も一回の食事の量は多かったと伝えられる。自然にそうなってゆくのだろうが、法王の御年を考えれば、まことに結構なことである。

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*S院での会食の席でのひとこま。

この会には、午前中に出演された三先生も出席され、法王との間で続きの議論が展開された。このことと、当日が文化の日で道路が混んでいたことが重なって、一同が黎明館に戻ってまもなく、午後のセッションの開始時間となった。

高野山大学の力

ダライ・ラマ法王による金剛界灌頂

2011年11月11日
11月1日、2日の両日、ダライ・ラマ法王による金剛界灌頂が執り行われた。
これに先立って法王は、1日の朝、高野山奥之院に参拝された。奥之院の参道を管長・学長らにエスコートされながら歩かれる法王の御姿はとても絵になるものであった。

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*11月1日の灌頂初会のもよう。左手奥に並ぶのは砂曼荼羅を描いたナムギェル僧院の僧侶たち。

この灌頂は日本密教とチベット密教の学術交流の一環として行われたもので、日本密教の僧侶にとっては、あくまで体験的学習というべきものである。だがそれにしても、チベット密教の灌頂(それも砂曼荼羅の建立に始まる本格的なもの)が行われるのは、高野山1200年の歴史の中で、まったく初めての出来事である。歴史的瞬間に立ち会っている実感があった。

初日の最後にすべての受者に長短2本のクシャ草(吉祥草)が渡された。短いものを枕の下に、長いものを布団の下に敷いて寝て、夜明けに見た夢で成就の吉凶を占うのである。私が見た夢については後に書きたい。
この日の晩、梵恩舎でミニコンサートが開かれた。タ・タイチョ―、テンジン・ヌルブと一緒に聞いたが、テンジンは、その演奏がえらく気に入って、遍照光院に戻ってからも大はしゃぎだった。
高野山大学の力
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