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リチャード・バートン

2011年08月13日
仕事の合間に『南方熊楠とアジア』に収められた諸論を読んでいる。松居竜五氏が「図書館の中のユーラシア大陸」の中で熊楠に対するリチャード・バートンの影響を指摘し、杉田英明氏が「知識の泉としての『アラビアン・ナイト』」で熊楠とバートン版『アラビアン・ナイト』とのかかわりを考察している。

バートンは、インド学畑の人間には、同じバートン版でも『カーマスートラ』の方でおなじみだ。もちろん往年の俳優ではなく、19世紀イギリスの探検家・オリエンタリストである。

バートンはナイル河の水源をめぐって、かつての同僚ジョン・スピークと争った。この話を題材にしたのが、原題 Mountains of the Moon、邦題「愛と野望のナイル」である。随分前に仙台の映画館で観た。まず原題と邦題とがかけ離れているのに驚いたが、「愛と青春の旅立ち」以来、こんな付け方が当時は流行っていたのかもしれない。これでも、英語をそのまま音写してしまう最近のやり方に比べればよほどましというべきか。

次に驚いたのは、ソマリアで現地人に襲われたバートンが両頬を投げ槍で串刺しにされるシーンで、実に痛そうだった。それでも戦って逃げおおせるのだから、インディー・ジョーンズも顔負けのタフな野郎である。帝国主義時代の探検家はこの位でなければ務まらなかったのだろう。ロマンチックで、かつ荒々しい時代だったのだ。

お盆で御山には参拝客が多い。赤ん坊を連れた若夫婦が、大学正門の掲示板に張られたダライ・ラマ法王の講演会のポスターを指さしながら何かしゃべっている。どうやら大阪舞洲アリーナの講演会に来てくれるようだ。

ダライ・ラマ法王の大阪・高野山大学での講演・法話の予約状況は専用ホームページ(http://koyasan-daigaku.rgr.jp/)に表示してある通り。そろそろ満席札止めになるパートが出てきている。
研究ノート

お盆攻勢

2011年08月11日
とても暑い日が続いている。しかし夕方空を見上げると、もう秋の雲がかかっている。

朝、研究室に入り、昼食をはさんで、夕方までいると、じっとり汗をかいて、その不快さに耐えきれなくなる。そこでこのごろは、夕方になったら曼荼羅荘に戻り、風呂に入って休憩してから出直すことにしている。

さて、お盆である。本来お盆は休戦のはずであるが、月末からのことを考えると今やっておくべきことが山ほどある。昔、ベトナム戦争ではテト(旧正月)攻勢というものがあった。正月期間で南ベトナム軍と米軍が休んでいるところに、北ベトナム軍とベトコンが大攻勢をかけた事件である。

それにならって、というわけではないが、今日あたりからごく私的にお盆攻勢をかけてみたい。

ミネルヴァの
*ミネルヴァのフクロウと私は夕方になって初めて飛び始める、なんちゃって。花巻市立博物館前にて。

オッベルと
*ついでながらこれは「オッベルと象」のモニュメント。花巻・宮沢賢治童話村。私は長くオッペルとばかり思ってきたが、原文は「べ」なのだそうで、「オツベル」の可能性もある。

アケボノ
*ついでのついでにこれはアケボノゾウの足跡化石。上の写真と見比べると、まるで石の象が歩き回ったよう。花巻市立博物館。
ある大学教員の日常茶飯

南方熊楠とアジア

2011年08月09日
東北から戻った翌日の8月5日、高野山経由で田辺に向かった。この日から2泊3日の予定で南方熊楠顕彰館で開かれる南方熊楠研究夏季セミナーに参加するためだ。2時開始の予定なのでなるべく早く行かねばと思いながら、野暮用がかさんだ上、途中、雨で道が壊れたとかで、中辺路町に大回りを余儀なくされ、着いた時には2時を回っていた。私は時間に遅れるのが大嫌いであるからして、絶望的な気持ちにさいなまれつつ、それでも安全運転を心がけながら顕彰館近くまで車を進めると、郵便局前の道路を見たような人々がぞろぞろ歩いていた。

初日は、公民館の一室を借りて、新刊の論文集の合評会が行われた。その論文集がこれである。

アジア遊学
田村義也・松居竜五編『南方熊楠とアジア』(勉誠出版、2011年)

本書は、世界中の熊楠研究者の大半、つまり22人の研究者が執筆している。ずいぶん狭い世界でやっているようであるが、この本の中身は濃い。合評会には、勉誠出版の編集担当のY田氏も駆け付けた。

合評会
*合評会の現場。座り方にもそれぞれの個性が表われている。

合評会では、あらかじめ若手に分野別の批評を依頼してあり、それを軸に討論が行われた。こういうやり方はなかなかいいと思う。

合評会の後、ホテルにチェックインしてから、例によって「あじみ」に繰り込む。

二日目の午前中は、運転手となってM居先生、Y田さん、龍大大学院のS井さんを白浜の南方熊楠記念館に運んだ。久しぶりに行ったが、ここもなかなのところである。鬱蒼とした木々に覆われた小高い丘の上にあって白浜と田辺湾を見はるかすロケーションがまたすばらしい。
神島
*左上の双子島が神島。南方熊楠記念館の屋上から。

御製
*館の敷地内に立つ昭和天皇の御製の歌碑。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」昭和37年に白浜に行幸された陛下が、33年前に神島で熊楠から進講を受けた時のことを回想して詠まれたもの。ここからは見えるはずもないが、神島の浜には熊楠の歌「一枝も心して吹け沖つ風 わか天皇(すめらぎ)のめてましし森そ」の歌碑が立っている。この二首を長い時を隔てて詠まれた相聞歌と喝破したのは鶴見和子であったか・・・

西林館長にご挨拶してから、館長の案内で館内を見て回った。最近この館では、粘菌の紹介に力を入れているというだけあって、展示の標本も、それから粘菌の中の原形質流動を撮影したビデオもなかなかのものであった。

田辺に戻って昼食をとり、午後2時から顕彰館でシンポジウム「アメリカ時代の南方熊楠」に参加する。これは第11回特別企画展「南方熊楠のアメリカ時代」に合わせたものである。
松居竜五氏(龍谷大学准教授)が展示説明とパネルディスカッションのコーディネーターを務め、パネリストが武内義信氏(和歌山城文化財専門員)と中西須美氏(名古屋大学大学院非常勤講師)、そして私だった。

おもしろいのは参加者からアンケートを募ったことである。これは例えば、「熊楠がアメリカ行きを決意したのは何が原因だったのでしょうか」など、熊楠のアメリカ時代のさまざまな側面に関する4つの質問に対して選択肢を用意して回答を求めるもので、なかなか決着のつかない問題について、衆知を集めつつ楽しく考えてゆくというナイスな趣向だった。

その晩は、南方熊楠顕彰会の人々と合同の宴会が「銀ちろ」本店で開催され、いつも通りの大盛況だった。

三日目、午前中は顕彰館で過ごし、お昼過ぎに帰途に就いた。充実した三日間だった。
研究ノート

1日ボランティア

2011年08月08日
8月2日は午前5時に不動寺の本堂で目が覚める。前夜軽い余震があった。5時半から住職の朝の勤行に参加。朝食をいただいた後、8時に釜石駅に近い釜石市社会福祉協議会が運営するボラセン(ボランティアセンター)に出頭する。ここには他県の社会福祉協議会からも応援が来ていた。

名前・住所・運転免許の有無などを登録し、ボランティア保険に入っているかどうかをチェックされた後、名前が書かれたステッカーを渡される。これを服に貼り付けておいて、作業終了後に返すことで、ボランティアの無事帰還が確認される仕組みになっている。

ボラセン
*センターにはたいていのものがそろっていた。このボラセンに関する限り、作業用の服装さえしてゆけば、あとは作業の種類によって必要な装備を借りて、即現場に向かうことができる。仮設住宅などの引っ越しには重装備はむしろ邪魔で、靴も長靴でなく脱着しやすい運動靴かサンダル(つま先の部分が強化されたもの)の方がいい。一方、瓦礫の撤去には、ヘルメット、ゴーグル、マスク、手袋(皮革やゴムの)、そして鉄製のソールが入った長靴が欠かせない。

初心者のための説明を受けた後、石川県から来た中学校の先生と20年前に釜石に住んだことのある千葉県在住の若者とわれわれ二人でグループになり、午前中は、釜石北部で仮設住宅の物資の出し入れを2件こなした。

最初の1件は、ある仮設から別の仮設に援助物資を移動させる仕事。援助物資は家電6点セット(テレビ、冷蔵庫、洗濯機など)や布団などの生活用品である。「この間、テレビにちょっと傷がついていて、えらく怒られた」というので、テレビは毛布でくるんで抱いて車に乗る。2件目は、家電以外の物品を別の仮設に移す仕事であった。

この後一度ボラセンに戻って報告する。昼食は妙紀さんに紹介してもらった町中の食堂でとる。こういうのはもちろん自腹である。12時半に戻ると、今度は瓦礫の撤去の応援に行けという。また同じ4人組で現場に向かう。現場は商店街の一角にある2階建てのビルで、仕事は、1階のフロアーの瓦礫をシャベルを使って土嚢に詰める作業であった。

ここで瓦礫というものに初めて対峙する。土砂にモルタルや木材やガラスや鉄屑やビニールや、その他この町の人たちが使っていたほとんどあらゆるものが混じっている。CDや伝票らしきものや本のきれっぱしも出てくる。アルバムや印鑑が出てくる場合もあるので、そういう時には取りのけておいてくれと指示される。

妙紀さんの話では、津波とともに無数のチョウザメが上がり、それが腐乱して一時はすごい臭気だったという。そういうものにはお目にかかりたくないな、と思いながら作業を続けたが、幸い海の生物の遺体に遭遇することはなかった。

とにかくガラスで手足を傷つけないように細心の注意を払った。瓦礫を詰めた土嚢はかなりの重さである。汗が流れてゴーグルが曇る。こりゃ明日は腰痛だな、と思いながら作業を続ける。

作業は3時過ぎに一段落した。ボランティア活動は午後4時には仕事が終わっていなくても打ち切るルールになっている。先乗りしていたグループのリーダーが今日はここまで、というので、みんなであいさつしてボラセンに引き上げる。ここで石川と千葉の二人とはお別れ。半日一緒に働いただけなのに、なんだかとても親しくなったような気がした。

その後、ウィマラさんの車で沿岸道路を南下してみる。シーガリアマリンというホテルの大浴場で汗を流し、お寺に戻ったのは6時過ぎであった。

8月3日(木)不動寺のお二人に御礼を述べて、ウィマラさんに駅まで送ってもらい、7時40分の快速で釜石を後にした。実質たった一日のボランティアであったが、貴重な体験をさせてもらった。だいたい、学者というものは自分勝手であると相場が決まっている。純粋に他人のために何かをするなどということはほとんどないといってよい。でも、こういうこともまっとうな人生を歩むためには必要なのだ、きっと。

沿岸部には釜石より状況が悪いところがまだまだあるだろう。しかし釜石がさらにいろいろな人手を必要としていることも事実だ。不動寺とのご縁に従い、まずはここを拠点に活動させてもらうのがよい。高野山大学の震災ボランティアはこの後、第2波、第3波と続けらてゆく。

銀河鉄道
*銀河鉄道の始発駅のモデルとされる釜石線の土沢駅。

新花巻で時間を作り、花巻市立博物館に足を運ぶ。一通り展示を見てから、学芸員のT沢さんを呼び出してもらい挨拶する。この博物館には、かつて花巻の高徳寺にあった多田等観のコレクションが収蔵されている。その中の仏伝図タンカ・セットについては、以前、写真家の松本栄一さんと組んで、解説付きの復刻版を学研から豪華本として出版した。これは今も誇れる私の仕事の一つだ。今回の訪問はそれ以来で、博物館も初めてだった。

近くには宮沢賢治の記念館と童話村もあるのだが、実家の母が首を長くして待っていると思われたので、見学はまた今度ということにした。
ボランティアに来たはずが、遊んで帰るようであるが、ボランティア活動で汗を流したあとはみんな観光客になって東北地方にお金を落としてゆく、ということでよいのだ。
山折先生2
*博物館で見つけたポスター。恩師はますます健在であらせられるようだ。山折先生は花巻出身。

仙台からは仙山線に乗り換えて山形の実家に戻った。私の実家は馬見ヶ崎川の作った扇状地の上部にある。ここに引っ越したのは小学1年生の夏で、それから高校3年生まで暮らしたから、故郷と言ってもいいのだが、私にとっては、それまで暮らした旅籠町1丁目と、3年間通った慈光寺幼稚園とお世話になったM川さんのお宅があった北山形駅周辺の方がもっと懐かしい。いずれ時間を作って、その辺りを歩いてみたいと思っている。

魚や
*北山形駅に近い鉄道沿線の魚屋。この店は私が幼稚園児だった時にも確かにあった。

ところで、今回初めて知ったのであるが、7月に藤沢周平原作の「小川の辺」という映画が封切られている。おなじみ海坂(うなさか)藩もので、主演は東山紀之。海坂藩は庄内の酒井藩がモデルだが、今回は山形市でもロケが行われ、何と実家の近くにも撮影隊が来たという。それだけのことでも、ちょっと見てみたいと思うのが人情ではないか。ところが今上映している映画館は大阪・堺近辺ではほとんどないようだ。DVDを待つしかないのだろうか。

*海坂という藩名は、酒井(さかい)→かいさ→かいさか→海坂→うなさか、の順序で作られたと私は思っているのだが、どんなものだろうか。

そうそう、先日、「入野」は「丹生野」ではないか、と書いたが、やはりそうであった。『和歌山県の地名』(日本歴史地名大系31巻)に「入野又丹生野と書す、是を正字とす、是天野祝文に日高郡江川丹生とある丹生にしして、丹生は旧此辺の大名なり」との史料が引用されている。


高野山大学の力

震災ボランティア 駒木山不動寺

2011年08月08日
8月1日、8時過ぎに家を出た。電車を乗り継ぎ、釜石駅に着いたのは午後5時55分。早速、先着している同僚の井上ウィマラ准教授に電話を入れて、駅まで車で迎えに来てもらう。彼は山梨の自宅から車で13時間かけてやってきたばかりだった。

釜石の商店街を通る。道路はかなり復旧しているという印象で、車も予想外に多い。しかし、信号は点いておらず、営業している店はほとんどない。釜石の瓦礫の撤去は、三陸沿岸で一番遅れているという話だ。町にはパトカーと警官の姿が目に付く。一つは信号の替りに交通整理しているからだが、このところ交通事故が増えているからでもあるらしい。被災地の人々にいらいらが募っているのだろうか。

釜石


駒木山不動寺

駒木山不動寺。ここが宮城県大崎市の弘法寺とならぶ、高野山真言宗の震災復興ボランティア活動の前線基地だ。住職の森脇義眞師と住職補佐の森脇妙紀師の出迎えを受ける。震災以後の不動寺の活動はめざましいもので、すでに大勢の「坊さんボランティア」がここを拠点に活動している。その功績が評価されて、この寺は全日本仏教会から表彰を受けた。

さらにJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)や大阪の淀キリ(淀川キリスト教病院)からも大勢のスタッフがやってきて、ここに滞在したと聞いた。宗教の違いを超えた協力関係が、この寺を拠点に成り立っているのだ。この点について興味のある方は、日本キリスト教団出版局発行の『信徒の友』2011年7月号「特別報告 東日本大震災」に掲載されている「宗教の垣根を越えて協力 釜石・不動寺住職補佐 森脇妙紀さんに聞く」を読んでもらいたい。

夕食後、妙紀さん(高野山大学の卒業生)から、そういう話をいろいろうかがった。詳細は省くが、たとえ同じ場所でも、時間の経過とともにニーズは変化している。それをつかまえて、時機をはずさずに効果的な手を打ってゆく必要を感じた。とにかく、こういうことにかけては、キリスト教は動きが速い。しかも組織立っている。これから我々は何ができるか、帰って相談しなければならない。

新日鉄
*不動寺のある山から川をはさんで対岸に新日鉄釜石の製鉄所が見える。太平洋戦争末期、釜石が米軍の艦砲射撃を受けた時には、人々はこちらの山に避難してきたという。

高野山大学の力

負げねっすよ!! 釜石

2011年08月06日
小白浜
*釜石市唐丹町。「波を砕き郷を護る」の願いを込めて建設された堤防が大津波の圧力で崩壊した。しかしこの堤防があったからこそ助かった人々も多いことと思う。

雨にも
*同上

負げねえ
*沿道に「負げねっすよ!! 釜石」の旗を見る。

風にも
*新花巻駅構内に掲げられた「雨ニモマケズ」の一人一行書き。「東京中野発 東日本大震災エール筆にこめ」とある。一目見て涙が出た。
高野山大学の力
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