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稲むらの火

2011年07月18日
御坊を後にして広川町に向かう。訪ねたのは、濱口梧陵記念館と津波防災教育センターである。

濱口梧陵(はまぐち・ごりょう 1820-1885)を有名にしているのは「稲むらの火」、つまり稲束に火を放って、安政南海地震による津波に襲われた広村(現広川町)の人々を高台に導いた話であるが、彼の本領は、この大災害の後、被災者用の小屋(今でいう仮設住宅)の建設、農具・漁具の配給、さらには堤防の築造などに発揮された。小規模ながらも復興担当大臣を自ら買って出たようなものである。

彼の本業は醤油醸造業(現・ヤマサ醤油)であったが、社会事業にも熱心で、特に医療技術の開発に支援を惜しまなかった。また中央にパイプを持つ地方政治家としても活躍した。

それから今回初めて知ったのであるが、メゾチントの浜口陽三は梧陵の子孫である。昔私の家では『芸術新潮』をとっていたので、中学頃からこの版画家の作品は見ていたが、数十年後にこんな形で再会するとは。

記念館と防災教育センターはいずれも立派なもので、展示も興味深かった。今回の震災のデータはほとんどないが、しきりに身につまされた。折から、中学生の団体が「学習」に励んでいた。

3Dシアターの映像は、2004年のインド洋大津波のデータを参考にして作ったのか、とてもリアルなものであったが、私たちは不幸にも、これよりはるかに恐ろしい本物の映像をこの3月から何度も見ているわけである。神戸には「人と防災未来センター」があり、ここにはこれがある。今はそれどころではないだろうが、いずれ東北にも今回の惨害を後世に伝えるための施設が造られなければならない。

「稲むらの火」は、明治29年、明治の三陸大津波のニュースに接したラフカディオ・ハーンが梧陵の逸話をヒントにして「生き神さま」(A Living God)を書き、それを中井常蔵が再話した「稲むらの火」が小学国語読本に掲載されるに及んで一般に広まった。中井は梧陵が設立した学校の流れをくむ中学の卒業生であった。こういう説話の形成・伝播過程そのものが興味深い。

稲むらの火
*津波防災教育センター内のモニターに映し出された梧陵が稲むらに火を放つシーンの再現。実際とはいくらか違っているかもしれないが、梧陵の生涯を象徴するシーンとして十分に感動的だ。ついでにいえば、これほど劇的ではないにしても、命がスパークするような瞬間は、どの人にも生涯に何度かは訪れる気がする。

醤油
*広川の隣りの湯浅は日本で最も古い醤油生産地の一つ。市街地が古く道が狭くて、とってもいい感じだった。今度はここの旅館に泊まろうかな。

最後の訪問先は、海南市南部の藤白神社である。目的はなんといっても、この神社の御神木の大楠を見ることだが、

鈴木さん

まずはこんなのぼりに迎えられる。この神社は全国の鈴木氏の発祥地の一つという。

大楠3
*境内にある子守楠神社(右奥)。子どもの神様。ここにお参りして、楠、藤、熊の名を受けると、その子は長生きして出世するという。熊楠は熊と楠の2文字をもらった。彼の兄弟は1字ずつで、藤吉、くま、常楠、楠次郎、藤枝である。

大楠2
*裏から見た子守楠神社の御神体の楠神さま。どうです、なかなかのものでしょう。河口慧海であれば、自分の知った少年にこう書き送ったに違いない。

「明治(あきはる)さん よくべんきょうしてますか。この楠の大樹は約600年を経たものであります。能(よ)く雨や風や雪や日光の熱を忍(た)へて漸く大樹となりました よく ごらん」(拙著『評伝 河口慧海』429ページ)

大楠4
*木肌にそっと手を触れると、ひんやりして気持ちがいい。二百年後も三百年、五百年の後も、ずっとここに立ち続けていてもらいたい。

台風が近づき、大雨警報が出て、今日は午後から授業(補講)が中止になった。
俳優の原田芳雄氏が亡くなった。追悼の意味を込めて「父と暮らせば」を見ることにしたい。

研究ノート

入野、道成寺

2011年07月18日
御坊の旅荘に着いたのは午後7時過ぎであった。宿のおかみさんに聞いて、R42沿いの居酒屋まで歩いてゆく。

翌朝8時半に宿を出て、かんかん照りの中、まず道成寺に行く。安珍と清姫の伝説であまりにも有名な寺である。ここの目当ては、なんといっても絵巻を用いた絵解きであるが、時間的にちょっと早かったので、参道の茶店で道を聞いて、まず入野(にゅうの)に行ってみることにする。

和歌山県日高郡日高川町の入野は南方熊楠の父弥兵衛の出身地である。入野の入は「にう」つまり丹生ではないかと私は思うのであるが、どんなものだろうか。この名から、高野山麓の天野(あまの)のような隠れ里を連想していたが、実際の入野は日高川沿いの細長い集落だった。前は日高川の堤防、後ろは低い山で、耕作地はそれほど広くない印象である。
入野村
*入野の風景

道沿いにお寺があるので寄ってみた。浄土宗栄林寺とある。住職は瞳の明るい人で、いきなり訪ねたにもかかわらず、気さくに対応してくれた。熊楠の名前を出すと、向畑家はあそこの青い屋根の隣り、親戚の古田家はこっちの蓮池の側と話が早い。

栄林寺は江戸時代に真言宗から浄土宗に転宗した寺らしく、本尊の阿弥陀如来立像は、寺伝によれば、高野山麓に安置されていたものを村人がもらってきたものだという。ここにも高野山とのつながりがある。

padma.jpg
*入野の蓮池

南方弥兵衛はこの村の庄屋向畑庄兵衛の二男に生まれ、13歳の時から御坊村で丁稚奉公をした。後に和歌山城下に出て、南方家の入り婿になり、努力と才覚によって一代で富を築いた。

熊楠は、土宜法龍宛の明治26年12月16日付の手紙の中に次のように書いている。

「吾等父の生れし入野村といへる寒邑に一夏おくりしことあり。其処の人来りて色々の農事をはなす。小生も植物学又化学など知れる故、稲虫ありと聞ば、盥に水入れ灯を泛べて之を駆り、麦に黒奴つきたりと聞ては、早速之を焼失せしむるなど、又其村の辺は昔は畠山の領分なりしが、秀吉に亡ぼされしことなどとききかせ、浄瑠璃の舎あれば、往て今語りし『鎌倉三代記』の「時まつたいらの時政」とあるは、「松平の」とつづけてかたるが口伝也、これは頼家と時政の名を仮りて、実は秀頼と家康のことを作りし也、昔は世の中がかやうに不自由にて、言いたきことも表向は言れぬ世なりし、今は有難き事に非ずやなど、語り聞す」(奥山・雲藤・神田編『高山寺蔵 南方熊楠書翰』藤原書店、2010年、77ページ)

これはおそらく明治19年の記憶である。

入野を後にし、道成寺に向かう。

土産物屋
*道成寺門前の土産物屋。名物つりがねまんじゅうの中にはあんちんならぬあんこが入っている。

鐘巻
*鐘巻之跡。大蛇に変身した清姫が安珍を鐘ごと焼き殺したスポット。女性は怖や、怖や・・・

本堂の国宝の千手観音などを拝んだ後、小野俊成師による絵解き説法を聞いた。参拝者を適当にいじりながら進める説法はおもしろく、さすが「お経を読むより、絵解きをする方が多い」というだけのことはあった。聴衆が少なかったので反応も控えめだったが、団体が入った時にはもっと盛り上がるに違いない。同じセリフでも間の取り方によって、おもしろくもなれば、つまらなくもなることがよく分かる。落語をはじめとする日本の伝統話芸の多くはお寺に発祥した、ということが実感された。

女子サッカーのワールドカップで日本チームが優勝。一日中気分がよかった。
研究ノート
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