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何もしない一日

2011年04月29日
ようやくかぐわしい季節になった。

昼過ぎ、梵恩舎にチャイを飲みに行ったが、満員で座れなかったので、居合わせたクルトとパトリックをからかって帰ってきた。

7時、夕食を食べに町に行き、気が変わって、ワインとナッツを買い…

何もしない一日。
ある大学教員の日常茶飯

会議な日々

2011年04月27日
新学期だから仕方がないかもしれないが、会議がやたらに多い。長い。今日は1時間目の授業が終わると、ある会議が2時間。午後、自評検の会議が1時間。学生部協議会の会議が2時間50分。これで一日終わりである。

昨日は1,3時間目が授業で、2,4時間目が会議、その後御山に遊びに来たロナルド・デヴィッドソン教授のレクチャーと意見交換会。その後、大円院で教授を囲んで夕食会。まったく屈託のなさそうな陽気な人物であった。まだ早かったので、イヌイさんとウィスキーをちびちびやりながら「会議」をして、一日を締め括った。おかげでアルコールが残って今朝はしんどかった。
ある大学教員の日常茶飯

難波で会議

2011年04月24日
金曜日の午後1時から難波で会議。1時間目の授業をしてから駆けつけたため、少々遅刻。長い会議だったが、この努力は今年の夏から秋にかけて生きてくるだろう。

終わって、ある用件で梅田の太融寺に行き、それから再び南海難波に戻って、高島屋のなんばダイニングメゾンの小じゃれた中華屋で4人で食事をした。このゾーンはオープンしてまだ1ヵ月しか経っていない。

帰宅すると、仙台のマサアキさんから『河北新報』に手紙を添えたものが届いていた。マサアキさんとは文学部の同期生で、八木山の学生寮にいた彼のところには時々遊びに行った。卒業してからも、彼が新聞記者をしていることもあって、何となく関係が続いている。

送ってもらった新聞で、東北大生が二人、入学予定者が一人、津波で亡くなったことを知った。さらに東北大学の建造物と研究機材を合わせた被害額は、現時点で約770億円に上り、復旧には3年近くを要する見込みとも。つきなみだが、一日も早い復興を祈るという言葉しか見つからない。
高野山大学の力

報恩日

2011年04月21日
毎月21日は真言宗の報恩日(真言宗祖弘法大師に報恩を捧げる日)である。高野山大学では、開講期間中のこの日に、法要、講演、奥之院の御廟への参拝などの行事を行っている。

今日は、法要の後、新学長の藤田光寛先生による「高野山大学の教育目標と三つのポリシー」と題する講話があった。

これは、大学の教育目標、ならびに入学者の受入、教育課程の編成、卒業認定・学位授与の三つの方針を学生と教職員が共有することを目的としたものである。

藤田先生の語り口は、お人柄のよく顕れた丁寧で分かりやすいもので、長さもちょうどよかった。

とてもいい形で新体制のスタートが切れた。
高野山大学の力

樅ノ木は残った

2011年04月20日
ある雑誌に、(震災後の)今だから読むべき本の特集があって、ある作家が山本周五郎の『樅ノ木は残った』を挙げていた。大好きな小説である。つられて就寝前に寝床でまた読み始めた。若い頃には腑に落ちなかった点がよく理解できるような気がする。

この小説は「伊達騒動」として知られる仙台藩の内紛を扱ったもので、主人公の原田甲斐は、歌舞伎では仁木弾正なる悪役に見立てられているが、この小説では、伊達家分割をたくらむ伊達兵部やその背後にいる酒井雅楽頭の策謀から我が身を犠牲にして藩を守る人物として描かれている。

以前、仙台市博で寛文事件についての講演を聴いた。その時は、周五郎の解釈はやはりちょっと無理があると思った。まあ、小説の世界と史実とは自ずから別ということである。

私がこの小説を初めて読んだのは高校生の時で、すでにNHKの大河ドラマを見た後である。だから原田甲斐は平幹二朗、伊達兵部は佐藤慶のイメージから逃れられなかった。しかし、大分時間が経った今では、原田甲斐は原田甲斐で、他の誰でもない。

NHKのドラマは、最初に原作にはない甲斐の青春編を10回以上付け足している。山番の娘おたよ(栗原小巻)が登場するのはこの部分で、甲斐との仲を引き裂かれて精神のバランスを崩した彼女が握り箸で飯をかき込むようなシーンが話題を呼んだと記憶する。しかし当時から、立派な原作があるのに、なぜこういうものが必要なのかという批判もあった。私も原作通り、ずばりと切り出した方がよかったと今でも思う。

物語のクライマックスは、酒井雅楽頭の屋敷で開かれた評定の最中に、甲斐、伊達安芸を初めとする伊達家の重臣4人が、雅楽頭の放った刺客によって斬殺されるシーンである。これは小説でもテレビドラマでもすさまじい迫力であるが、いずれにおいても甲斐は女の名前らしきものを呼んで絶命することになっている。

父は、これは「おたよ」と言ったのだと解釈した。私は、おたよは原作には出ないことを知っていたので、そんなはずはない、「うの」(吉永小百合)と言ったのだと主張した。つまらない争いであったが、原作で確認すれば、やはり「うの」以外ではないと思われる。ただ、大河の一年分をNHKの創作部分も含めて一つの作品と見るならば、「おたよ」でも構わなかったと今になって思う。
ただおたよが「くびじろ」という大鹿の角にかけられて死んだことにしたのは明らかに失敗であった。というのも、甲斐が執拗にくびじろを追う理由がおたよの敵討ちのようになってしまったからである。その結果、「追う者と追われる者との間に、平等の条件ということはない」という重要な言葉の意味も曖昧になってしまった。

甲斐は、大きな困難を孤独の中で堪え忍んでいる人間である。しかし、それは武士だから、あるいは伊達家の重臣だからそうしているというわけではない。およそ人が生きるということはそういうことではないか、というのが作者のメッセージであろう。他人からはえへらえへらしているようにしか見えないかもしれないが、実は私もそう感じながら生きている。







読書案内

法然展など

2011年04月19日
卒業生の阿部師が連絡をくれた。アハンガマの僧院のアベ・スマナ・テーローは阿部師の弟さんとのこと。スリランカで具足戒を受けて比丘になった日本の若者とはどんな人物なのかと興味を持っていたが、そういう訳だったのか。縁とはやはり不思議なものだ。

さて、

先日所用で京都にでかけた。京都は桜が満開で、電車の中にまで花びらが舞い込んできた。時間に空きができたので、久しぶりで京博に行き、「法然 生涯と美術」展を観た。とてもよかった。勉強になった。今年は法然上人800回忌、親鸞聖人750回忌である。こうなれば、京都市美術館の親鸞展にも行かなければならぬ。

ただ土曜の真っ昼間にしてはお客さんが少ないように感じた。その分ゆったりと見ることができたわけだが、もしもこれが震災の影響であれば困ったものである。

京都のV先生に所用で電話したら、このところ原発事故による風評被害の問題に取り組んでいたとのこと。日本製品のイメージダウンはイタリアでも深刻なようで、「とんでもない報道」もなされているらしい。その「とんでもない」部分を是正しようというのが先生の取り組みで、これは日本にとっても実にありがたいことだ。

今までに見た恐ろしい映像といって、まっさきに思い浮かぶのは9.11の貿易センタービルに突っ込む旅客機の映像だった。しかしそれも3.11以降は影が薄くなった。テレビやネットに流れている津波の映像は、どれもこれも身の毛もよだつ恐ろしいものだが、私には、どうして海水があのような「悪意の固まり」としか思えないものに変化してしまうのかが理解できない。例えば、名取川の河口付近の田園地帯を舐めつくしてゆくあれ。本来水のはずが土煙を上げ、あちこちから炎と煙を噴き上げ、がれきでその身を覆い、逃げまどう自動車を執拗に追いかけ回しているようなあの醜い怪物を自分の中でどうとらえたらいいのか、分からないでいる。

昨日今日ととても寒い日が続いている。T重君によれば、今朝方は雪さえちらついたそうだ。被災地での生活が想いやられる。








ある大学教員の日常茶飯

関空まで

2011年04月17日
エア・ランカーの成田行きの出発時刻は23時53分の予定であった。それが空港で待っているうちに21日の1時5分になり、それがまた2時40分になった。それがしばらく後には4時20分に変わる。

いっしょの機を待っている日本人の団体の添乗員が、飛行機はまだローマにいるらしいと教えてくれた。これじゃあ、いつ出発になるのか分からない。だんだんお腹が空いてきたが、待つこと自体はあまり苦にならない。遅くなっても飛んでくれればおんのじだ。でも欠航になったらちょっと困る。

やがてチェックインが始まったが、係員が私のEチケット控えを見て、ちょっと待ってくれと言い出す。私は帰路、コロンボ~成田~関空のチケットを予約していた。ところが彼らによれば、このままだと成田~関空のJALには間に合わない。予定では、成田で6時間も待つことになっていたので、飛行機が多少遅れても大丈夫とたかをくくっていたのだが、まさかこんな事態になるとは。

ここで大分待たされた。倚子に座ってうとうとしていると、この空港で仕事をしている赤帽たちがやってきて、「これスリランカ・ルピーに替えれるか」と手の中の100円硬貨4枚を見せる。ルピーの持ち合わせがなくなった日本人が渡したものに違いない。「ああ、いいとも」1円が1.25ルピーだとすれば、500ルピーか。「500ルピーでいいか」「ああ、いいよ」私が渡した500ルピーを持って喜んで引き上げようとする彼ら。ちょっと待てよ。あれはホテルでのレートだ。銀行ではもう少しレートがよかったぞ。呼び止めて、さらに40ルピー渡す。そこまですることもなかったのだが、日本人として小銭をごまかしたか、手数料を取ったように思われたくなかった。

そうこうするうちにカウンターに呼び戻され、手続きができたと告げられた。彼らは、私をエア・ランカーからキャセイ・パシフィックに移してくれたのだ。このまま成田行きに乗ると、成田で1泊しなければならない。これに対してキャセイは相当早く出発できるし、この便はバンコク経由の香港行きで、香港で関空行きの便に乗り替えるので、かえって好都合だ。感謝しつつも、一応できあいの詫び証文をもらっておく。予定とは違う飛行機に乗った理由が航空会社の都合によることを証拠立てるためだ。出国手続きを済ませ、免税店で買ったお土産を抱えて、飛行機に乗り込んだ。

今回は往きも帰りも多少波瀾があったが、運よく切り抜けることができた。

香港の空港ビルは巨大で、乗り換えに時間がかかってひやひやしたが、これも何とか間に合い、この日の夕方、関空に帰着した。翼よ
*「翼よ、あれが浪速の灯いや」はまだ早すぎるか…


フィールドワークの記録

最後の一日

2011年04月17日
ウェラワッタの夕景2
*ウェラワッタの浜で夕日を眺める人々
波と戯れる
*波と戯れる女性たち

3月20日
朝、ホテルで車を雇い、8キロほど離れたマウント・ラヴィニアに行く。車代が1000ルピー、現地での1時間の待ちが300ルピーだ。マウント・ラヴィニアはスリランカ最古のシーサイドリゾートと言われている。ここを特に有名にしているのは、スリランカ最高の格式を誇る白亜の殿堂、マウント・ラヴィニア・ホテルだ。
マウント・ラヴィニア・ホテル

ラヴィニアのビーチ

と言っても、わざわざここまでホテルを見に来たわけではない。
このマウント・ラヴィニアにも明治の留学生たちが訪ねたお寺があり、それを探しに来たのだ。それはラオスの僧ゆかりの寺で、確かにそれらしい寺を見つけることができた。

ウェラワッタに戻って休んでいると、チェックアウトタイムの正午になったので、荷物をカウンターに預け、外で昼食を取るなどして、ナンダセーナさんが来るのを待つ。3時半、彼が現れ、ウェラワッタを出発。スリランカ最後の訪問先は、コロンボ国立博物館だ。

コロンボ国立博物館
*これも植民地時代の建物。10年前に比べて展示の仕方がスマートになっていた。内容はもともととても豊かだ。

この樹
*博物館の敷地内で。スリランカには大きい樹が多いけれど、なかでもこれは横綱級だ。地球研のK坂さんにメールで、「♪この樹、何の樹、大きな樹♪」とたずねたら、明らかにクワ科イチジク属の植物で、葉っぱがよく見えないので断定はできないが、インドゴムノキかガジュマルである可能性が高い、でもこの属は大きいので他の樹かもしれない、と教えてくれた。こういう時、専門家に知り合いがいると便利だ。

ブーゲンビリア
*ブーゲンビリアも咲き誇っている。

博物館を出て、少し早かったが、空港に行ってもらった。ナンダセーナさんがいてくれて、今回も本当に助かった。この空港も、土囊を積んだ上に大型機関砲が据え付けてあった10年前とは大きく変わった。やはり、平和が何よりだ。





フィールドワークの記録

ウェラワッタへ

2011年04月15日
午前5時、鐘の音で目を覚ます。

バルコニーから眺めると掃除が始まっていた。ダーガバを拝んでから、朝食をいただく。

キリバット
*これはキリバット。ココナツミルクで炊いたご飯を菱形に切ったもの。お祝いの時に食べる。

こちらでの所用はすんだので、コロンボ方面に戻ることにした。僧院長にお別れの挨拶をして、お布施を渡す。

チャンダシリ・テーローが記念の品として団扇をくれた。その気持ちを今もありがたく拝んでいる。私は何も上げるものがないので、予備のノートなどを手渡す。

コロンボは自動車の冷房が効かないほどの暑さだった。倉庫街の駐車場に車を止めて、マリバン・ストリートを再び訪ねる。いくつか確認するためだ。

この日はナンダセーナさんの自宅に泊めてもらう。10年前とは違う家で、その時の赤ちゃんが活発な女の子に成長し、その下に妹もできていた。歳月を感じた。この晩、隣村のニャーナさんのお寺で開かれた法会については、一番最初に報告した。

翌日は満月の日、ポーヤデイでスリランカは休日である。朝、5日分の支払いを済ませ、ナンダセーナさんにコロンボ南部の海に面したウェラワッタのグローバルタワーズ・ホテルまで送ってもらう。

ウェラワッタは、善連法彦、東温譲、川上貞信、小泉了諦、朝倉了昌、徳沢智恵蔵の留学生6人が一時共同生活をしていた場所である。またその少し後には村山清作がパーマンカダ・ウィラクーンという家に下宿していた。明治27年にスリランカを訪れた土宜法龍は、その場所がウェラワッタでも山側の寂しいところと報告している。

村山は一時、ロンドンの南方熊楠と文通してスリランカの植物を送ったり、逆に熊楠から洋書を送られたりの付き合いをしていた。田辺の南方熊楠顕彰館には、村山から来た手紙が10通ほど保管されている。

村山は当時はただ一人の僧侶ではないスリランカ日本人留学生だった。彼はヴィドヨーダヤ・ピリウェナなどでパーリ語を学んだが、帰国後は銀行業界に転身した。彼は四国の今治の出身で、四国に因んで四洲と号していた。来月、今治まで行く用事があるので、熊楠の日記にある住所を尋ねてみようと思っている。

グローバルタワーズはなかなか快適なホテルで、道路と線路をまたいだところがビーチになっている。行ってみると、椰子の木陰はたくさんのカップルに占領されていた。

ウェラワッタビーチ

ウェラワッタ駅
*ウェラワッタ駅。

留学生たちがウェラワッタを選んだのは、海に面していて比較的涼しくて過ごしやすいことに加えて、ヴィドヨーダヤ・ピリウェナに通学するのに汽車が利用できたからである。ウェラワッタ駅で乗って、マラダーナ駅で降りると、学校は近い。
列車
*列車は急行から各駅停車まで結構頻繁にやってくる。波の音で列車が近づく音が消されるから、線路の横断には注意が要る。


フィールドワークの記録

ニャーナさんの寺

2011年04月14日
アハンガマはカタルワの隣り町である。

ストルト
*この辺の海では棒の上で魚を釣る伝統のストルトフィッシングが見られる。

いい波

いい島
*椰子の葉陰。明治のスリランカ留学生の一人、小泉了諦(こいずみ・りょうたい)はスリランカに来てから椰陰(やいん=椰子の葉陰)と号するようになった。大乗の教えを、万人に等しく涼を与える椰子の葉陰に見立てたものだ。

海辺のしゃれたレストランでお昼を食べてからニャーナさんのお寺に向かう。

街道から横道に入って、村の中を進んでゆくと、門の横にウィドヤーチャンドラ・ピリウェナと書かれたお寺に到着した。

ここがニャーナさんの出身寺院である。ニャーナさんはここの大長老の格だ。なかには仏教学校(ピリウェナ)もある。
ニャーナ寺
*手前がその教室。

学校
*授業の始まりを待つ生徒たち。

院長に挨拶した後、日本人の寄進によって建てられた建物の二階の一室を与えられた。ここが今夜泊まる部屋で、ベッドの上には蚊帳がつってある。エアコンはない替わりに、これまでのホテルと同様のシーリングファン(天井の大きなファン)に加えて大きな扇風機が置いてあるので、両方を回してしばらく休憩する。スリランカに来てから、こうやって寝てばかりいるような気がする。

チャンダシリ・テーロー(テーローは長老、上座の意)という若い比丘が何かと親切に世話をしてくれる。この寺にはアベ・スマナという日本人の比丘もいるが、ちょうど日本に帰っていて会えなかった。

一休みした後、マータラに出かけることになった。チャンダシリ・テーローとクサラ・テーローが同行する。

まずはカタルワにもういっぺん行ってもらうことにした。さっきは境内をゆっくり見れなかったので心残りだったのだ。
ランウェルレーに直接行くとまた同じ事になりそうなので、今度は隣の寺を訪ねた。出てきたのは実にひょうきんなお坊さんだった。境内をどんどん案内しては、おもしろい話をいろいろ聞かせてくれる。
ついでにコッガラ湖の畔を散策して、見学を終えた。
絵になる
*チャンダシリ・テーロー(右)とクサラ・テーロー。絵になる二人である。

きびすを返してマータラに向かう。マータラはセイロン島南端の中心都市だ。アナガーリカ・ダルマパーラの父ドン・カロリス・ヘーワーウィターラナはこの町出身でコロンボで成功した家具商だった。ダルマパーラはヒッカドゥウェ・スマンガラやミゲットゥワッテ・グナーナンダ、さらに神智協会のオルコットなどの薫陶を受けて、スリランカ仏教復興運動の最大の旗手に成長してゆく。彼は4回も来日し、スリランカでも日本からの留学生の世話をするなど、日本との関係が深かった。彼が亡くなったインドのサールナートのムーラガンダクティー・ヴィハーラには日本の画家野生司香雪(のうす・こうせつ)によって描かれた大きな仏伝図がある。

マータラのウェヘラヘナ寺は新しい寺で、大仏があり、堂内にはジャータカ物語の壁画が500以上見られる。絵はちょっと私の趣味ではないが、きれいごとではない人間の愚かしさや浅ましさが生々しく描かれている。普通ジャータカといえばおとぎ話と捉えられる傾向があるが、私の感想では、結構どろどろした話が多い。こういう絵によって一般の人々に仏教を教え導こうという仕掛けだ。
ウェヘラヘナ寺

仏歯
*スリランカに仏歯(お釈迦様の犬歯)をもたらしたヘーママーラー(右)とダンタクマーラのレリーフ。キャンディの仏歯寺に祀られているこの仏歯は、シンハラ王権の象徴であった。



フィールドワークの記録
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