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カタルワ・ランウェルレー寺

2011年04月12日
3月17日(水)
昨夜は7時半に町に出て、大衆食堂でごく簡単に夕食を済ませた。その間に強い雨が降った。部屋に戻ってテレビで「ロード・オブ・ザ・リングⅡ」を途中から見る。だが最後の洪水のシーンは正視に耐えなかった。

チェックアウトして、最初に向かったのは、ゴールのパラマーナンダ寺である。この寺はブラットガマ・ダンマーランカーラ・スマナティッサの寺である。スマナティッサは当時のスリランカ仏教界ではとても有名な比丘で、シャム王ラーマ五世の帰依も受けていた。パラマーナンダ寺
*パラマーナンダ寺のホール。黒光りする柱はジャックフルーツの丸太が使われている。

ジャックフルーツの実
*こちらはジャックフルーツの実。

彼が赤松連城と面談したことが日本とスリランカの仏教界の交流のきっかけの一つであったことは、前に述べた。興然がゴールに着いたその日、スマナティッサがワラウワに会いにやってきて、何も知らない彼に三帰依文を教えてくれた。これが彼にとってパーリ語の最初のレッスンとなった。
  ブッダン・サラナン・ガッチャーミ (私は仏に帰依します)
  ダンマン・サラナン・ガッチャーミ (私は法に帰依します)
  サンガン・サラナン・ガッチャーミ (私は僧〈修行者の集団〉に帰依します)

パラマーナンダ寺を出た私たちはカタルワに向かった。カタルワはゴールから10マイルほど離れており、コッガラという湖の畔にある。

ワラウワで一月余り過ごした釈興然は、グネラトネの配慮によって、カタルワ村のランウェルレー寺に預けられた。そこを取り仕切っていたのは、スマナティッサの弟子コーダーゴダ・パンニャーセーカラである。興然は、いずれはコロンボのヴィドヨーダヤ・ピリウェナに入ってヒッカドゥウェ・スマンガラの弟子になる予定であった。グネラトネが興然をパンニャーセーカラに預けたのは、まだ万事に不慣れな興然に自分の目の届く範囲内で基礎教育を受けさせるためであった。

ランウェルレー
*ランウェルレー寺の仏殿。右奥に隣の寺のダーガバ(仏塔)が見える。こんなにお寺同士が隣接しているのは珍しいことだが…

興然は、シンハラ語はもとより英語も話すことができないため、グネラトネは興然とのコミュニケーションにひどく難渋していたのである。しかし興然の折り目正しい態度はグネラトネを大いに感心させていた。彼は、日本への手紙の中に、興然のひととなりについては「大満足」であると書いている。それは何よりも興然の生真面目で飾らない人柄のたまものであったが、もう一つには、興然が、師匠の雲照から、上座部の地であるスリランカで、日本の大乗の僧侶とはあんなものかと後ろ指を指されないようにくれぐれも注意せよと厳命を受けていたからである。

やがて興然は、沙弥(しゃみ=見習い僧)となって、グナラタナの名を与えられ、以後コーゼン・グナラタナと名乗るようになる。グナラタナはパーリ語でグネラトネと同じ意味である。興然にこの名を与えることを発案したのはグネラトネ自身で、その理由は、興然を愛し、興然の日本の保護者たちに敬意を表するためであった。このような幸福な人間関係の中で、コーゼンは修行を続けることができたのである。

翌年4月、釈宗演が興然の開拓したルートをたどってゴールにやってきてグネラトネに迎えられ、ランウェルレー寺で興然と同居しはじめた。まもなく彼も上座部で得度しなおして沙弥になり、パンニャーセーカラからパンニャーケートゥの名を与えられた。ソーエン・パンニャーケートゥの誕生であった。

こういう訳で、カタルワのランウェルレー寺は興然・宗演の住んだ日本人にゆかりの深い寺なのである。ところが、何度か呼んで、やっと顔を出したお坊さんは、このことには知識も関心もないらしく、よく分からないの一点張り。この件に詳しかった先代の住職はすでに亡くなっていることを後で知った。取り付く島もなく、中を一回りして、仏殿で仏さんを拝んだあとは、退散するしかなかった。ゴールでは好調だったのに…まあ、こういうこともあるさ。
フィールドワークの記録

グネラトネのワラウワ

2011年04月10日
レディーヒルからの眺め
*早朝、レディーヒル・ホテルの上階から眺めたゴール湾方面。ここから見るとゴールは町全体が椰子の木で覆われているように感じられる。
レディーヒルからの眺め2
*ゴール港方面。

3月16日(火)
ゴールでの一番の目的は、エドマンド・ロウランド・グネラトネというシンハラ人の邸宅を探すことである。この人物が重要なのは、彼が明治のスリランカ留学生たちの受け入れ先となってくれたからである。

グネラトネはゴールのアタパットゥムダリを務めていた。県の副知事といった格である(知事はイギリス人)。同時に彼は、パーリ学者で、イギリスの学者リス・デヴィッズの盟友であり、リス・デヴィッズが創始したパーリ聖典協会のセイロンにおける名誉幹事を務めていた。

グネラトネは仏教の復興に熱心で、アジアの新興国家日本に期待するところがあり、留学生たちをまるで本当の家族のように遇してくれた。そもそも日本仏教各宗派の留学生がスリランカに行くきっかけとなったのは、グネラトネが日本に手紙を送って留学生の受入を表明したことである。明治19年に渡島した日本最初のスリランカ留学生である真言宗の釈興然(しゃく・こうぜん)は、グネラトネの行き届いた世話を受けた。そのことが、興然の後に続く人たちに道を開いた。彼は明治の日本仏教の大恩人といってよい。

だがそのことは今はもうきれいさっぱり忘れ去られている。こういう人の事績を発掘、顕彰することも学者の大切な仕事の一つだと思う。

と言うわけで、この日の午前中に探し当てたのが写真のワラウワである。ワラウワとは、植民地時代に建てられた現地人の大邸宅のことである。長い間、釈興然や釈宗演を始めとする留学生たちの残した記録から想像するだけだったグネラトネの屋敷が目の前に現れた時には、やはり感動した。
前楼
*グネラトネのワラウワの前庭と前楼。興然が初めて訪れた頃、この庭には孔雀が放し飼いにされていた。
灯ともし頃の前楼
*灯ともし頃の前楼。
前楼から延びる廊下
*斜め後ろから見た前楼。右手に母屋に続く回廊が延びている。
母屋
*母屋。建物はこの奥にずっと続いている。最後は裏庭で沐浴場もある。

興然たちの報告によれば、邸内には、シンバリ・アワセと呼ばれる小寺があって、グネラトネは、そこをカタルワ村のランウェルレー寺の長老コーダーゴダ・パンニャーセーカラの夏安居の場所に提供していた。興然も宗演も、そして彼らに続いてスリランカに留学した善連法彦(よしつら・ほうげん)や東温譲(ひがし・おんじょう)や川上貞信(かわかみ・ていしん)もシンバリ・アワセの客になっている。

シンバリはパーリ語でキワタ、アワセはシンハラ語で小寺、庵を意味する。シンバリ・アワセの名は、この庵の傍らにシンバリの大木が5,6本生えていたことに因んでいる。

シンバリ・アワセは母屋からは少し離れた丘の中腹にあった。シンバリはどの樹かと聞くと、シンバリがあったのは百年前で、今はもうない、との答え。ここのお坊さんが面白い人で、私たちを大歓迎してくれた。彼によれば、ここには日本人がたくさん来た、とのこと。文献資料ではなく、言い伝えで知っているようだ。
シンバリ・アワセ
*シンバリ・アワセ

ココナツ
*ナンダセーナさんが椰子の実を切っている。勧められるままに、ココナツジュースを飲み、実の内側の固まった胚乳を食べる。どうしてどうして、おつなものである。ついでにバナナなどもいただく。

私はこの寺にお布施をすることにした。ナンダセーナさんに聞くと、日本と同じでお札はそのまま手渡さない方がいい、とのことなので、紙に包んだ。普段はケチな私だが、よく日本の若い修行者たちを面倒見て下さった、という感謝の気持ちで5000ルピー包んだ。もっともナンダセーナさんによれば、お布施は気持ちが大事で、額は問題ではない。日本でも、建前はそうなんだけどね…。

昼食を取るためにいったん町に出、その後昨日見られなかったフォートの国立博物館と海洋考古学博物館を見学し、4時過ぎに再びワラウワに戻った。午前中は留守だったオーナーが帰ってくるという話を聞いていたからである。

そのオーナーである産科医のドクター・ジャーナカは、突然訪ねたも同然の私たちを暖かく迎えてくれた。それから2時間以上に渡って、さまざまな話をしてくれた上、ワラウワの中を案内してくれた。
フィールドワークの記録

ゴールのフォート

2011年04月10日
レディーヒル・ホテルは、その名の通り、小高い丘の上にあった。チェックインして2時間ほど休んでから、行動を再開。
なにはともあれ、フォートに向かう。ゴールは古くはアラビア人による東方貿易で栄え、その後、ポルトガル、オランダ、イギリスと支配者が入れ替わるたびに整備されてきた。その中心はインド洋に突きだした小さな半島全体を要塞都市化したフォートである。

またゴール港は、イギリスがコロンボ港に長大な防波堤を築き、西南モンスーンの激浪を防いで、大型船が安全に停泊できるようにするまでは、東西航路のスリランカでの寄港地だった。
ゴール旧観
*ゴール港旧観(ゴール国立博物館)

明治5年1月、西本願寺が派遣した欧米視察団の一行もこの港に立ち寄っている。その際、一行の一人、赤松連城(あかまつ・れんじょう)が上陸して、パラマーナンダ寺を訪ね、ブラットガマ・ダンマーランカーラ・シリスマナティッサと交流したことが、その後の日本仏教界とセイロン仏教界との交流のきっかけとなったのである。このことについては後に述べる。

ゴールの外壁
*外洋に面した城壁。2004年のインド洋大津波でゴールの下町は壊滅的な被害を被ったが、フォートはこの城壁のおかげで、浸水程度で助かった。

フォート2

フォート3
*バスで見学にきた女子生徒たち。みんなとっても元気そうで、たいへんよろしい!

時計塔
*フォートのシンボル、時計塔。「ルパン三世 カリオストロの城」に出てきたような年代物だ。

star bastion
*フォートの防衛施設の一つ、スター要塞。この海の向こうから、アラビア人、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人がやってきた。みな一攫千金を夢みて。

この海には明の永楽帝に派遣された鄭和の大艦隊が浮かんだこともあったはずである。鄭和碑か
*ゴールで発掘された15世紀初頭の石碑。漢語、ペルシア語、タミル語で書かれており、鄭和が建立したものとも言われている。(コロンボ国立博物館蔵)

夕食は、二人で海岸通りに沿ったシーフードの店で食べた。私は、三度三度、カレー中心のスリランカ料理で一向に構わないのだが、ナンダセーナさんが食事の度に何が食べたいか聞くので、つい、それじゃ今夜は中華にしますか、などといったのがきっかけだった。まあ、味はともかく量はありました。






フィールドワークの記録

花祭り

2011年04月08日
誕生

今年も4月8日、花祭りの日が巡ってきた。去年は大英博物館のインドの石像とギメ美術館のネパールの金銅仏を掲げたので、今年はスリランカのあるお寺で撮った写真をお目に掛けよう。


ある大学教員の日常茶飯

椰子の国

2011年04月08日
椰子の木が大好きだ。立ち姿がいい。ざわざわと風に揺らぐ葉っぱの感じがまたいい。おまけに椰子の実の形が勝れている。でも私が椰子の木が好きな本当の理由は、子どもの時分に南洋とかアフリカを想像して、椰子の木の絵をいっぱい描いたからだと思う。

椰子の木

椰子の木3

スリランカは、全島椰子の木に覆われているかと思われるほど、椰子の木が多い。この島の北部には乾燥地帯もあるから、実際は必ずしもそうではないのだが、イメージ的にはスリランカは椰子の国、椰子の島である。

植民地時代、イギリス人は、この国の人々に人頭税を課しただけでは満足せず、椰子の木にまで一本いくらの税金をかけた。明治20年にこの島に留学した臨済宗の釈宗演(しゃく・そうえん)は、この事実を指摘した上で、「人生亡国の民となるなかれ。亡国の民に自由なし。自由なきの民は即是白地の(明白な)奴隷なり」(『西遊日記』)と述べている。南国の明るい日差しとは裏腹の悲しい歴史である。

南に下るにつれて、次々にいいビーチが見えてくる。
ビーチ特

ビーチ1

ヒッカドゥワの舟

ヒッカドゥワ4

私「いやあ、いいビーチですね。完全オフで何日かこういうとこで過ごしたい」
ナンダセーナ「いいでしょう。西洋人は多いのに、なぜか日本のお客さんは別の方に行ってしまうんですよ」
私「もっと宣伝したいですね」

ヒッカドゥワを通過。ヒッカドゥウェ・スマンガラの故郷だ。ここは沖合に珊瑚礁が見られることで西南海岸でもとりわけ人気のリゾートだが、2004年の大津波では、列車が津波に呑まれるなど惨憺たる被害を受けている。

午後3時半、ゴールに到着した。
フィールドワークの記録

西南海岸の旅

2011年04月07日
3月15日(火)
10時にチェックアウト。GOHへの支払いは朝食3回と国内電話1回で、しめて2999ルピーだった(宿賃はこれとは別にネットの予約業者にカードで支払うシステム)。やはり三ツ星ホテルで食事をすると割高である。昨日の夕食はヨーク・ストリートとチャタム・ストリートの交差点付近にある「ホテル」という名前の食堂で、コーラ1本、マフィン1個、紅茶1杯で済ませてしまった。

ついでに「ホテル」の向かい側の宝石店を覗いた。スリランカは宝の島だ。内陸部にラトナプラ(その名も「宝石の町」)というところがあって、ダイヤモンドは採れないが、ルビーやサファイヤならざっくざくなのである。

すぐに倚子に座らせられ、次々に宝石を見せられる。こういう店のおじさんはみな商売上手だ。おお、日本の方ですか、日本のどこです?オーサカですか。私もオーサカ、コーベには知り合いがおりましてね。今度のツナミはほんとに大変だったですな…

私の乏しい経験からいうと、特に買う気がなければ、値段を聞いてはいけない。話が長引くのはいいとして、初めは欲しくなかったものをつい買うはめになったりするからである。それから日本人は、すぐに「見るだけ」と言うらしく、中国でもインドでもこの日本語だけは通用する。「ミルダケ、ミルダケ」と言いながら客をひきずりこんでゆくのである。

すぐに席を立つのも何だから、しばらく我慢してつきあう。宝石なんてまったく分からないのに、このスタールビーのスターはクリヤーじゃない、とか、デザインが気にくわない、などと言ってみる。相手は、それじゃあ、と、次々に別の石を出して並べてくるが、これに負けてはいけない。ころあいを見計らって、「ありがとう」で話を打ち切り、ゆっくりと席を立って、さよならする。文字通り「見るだけ」だったが、彼らも慣れていると見えて、さばさばしたものである。

さて、ナンダセーナさん運転のワゴン車は、市街地を抜け、海沿いの道を南下してゆく。コロンボからゴールまでは117㎞の道程だ。

パーナドゥラ

パーナドゥラでは車を降りて、ミーゲットゥワッテ・グナーナンダの銅像の写真を撮った。1873年、ここで仏教とキリスト教の代表者による公開討論会が行われ、仏教の代表者であったこのグナーナンダ比丘が、この種の討論会では初めてキリスト教の宣教師を論破した。これがスリランカ仏教復興運動の転換点となったと言われるパーナドゥラの論争である。この論争の結果が、やがてこの島に、神智協会のオルコット大佐とマダム・ブラヴァツキーを呼び寄せ、スリランカ近代仏教史は新たな段階を迎えることになる。こうしたことについてもおいおい触れてゆこう。
街道筋のお寺
*街道筋にあるお寺。日本のお寺のイメージとはかけ離れている。

スブーティの寺
*ワスカドゥワにあるワスカドゥウェ・スブーティの寺。タイの王室の帰依を受けてきた。スブーティは、スマンガラ、グナーナンダらと共に、19世紀に活躍した代表的なスリランカの比丘の一人だ。






フィールドワークの記録

ニャーナ師きたる

2011年04月06日
3月14日(月)
9時半、ロビーで待っていると、パナンウェラ・ニャーナーランカーラ師がきてくれた。ニャーナさんは明日日本に戻る。忙しい準備のさなかにわざわざきてくれたのだ。さっそくスケジュールを相談する。
私は当初、鉄道でコロンボからゴールに行こうと考えていた。ゴールでは2泊する予定でホテルに予約を入れてある。しかしその後マータラ方面での2泊はまだ予約がない。この話を聞いて、ニャーナさんはこう言った。
「列車はただ行くだけだよ。途中でいろいろ見るんだったら、弟のナンダセーナに車で連れて行ってもらう方がいい。彼だったら普通にタクシーを雇うよりずっと安くしてくれるから。ゴールの後は、アハンガマの私の寺に泊まることもできる。よかったら今夜電話しておくよ。お寺だからホテルのようには行き届かないけどね」

渡りに舟とはこのことである。こうして私は10年前と同様、観光ガイド業を営むナンダセーナさんの世話になることになった。スリランカでこの兄弟に回収されれば、もう絶対安心である。

ナンダセーナさんの運転する自動車でまずは銀行に行き、日本円をスリランカルピーに両替する。お、日本円は暴落していないどころか、少し上がった気配だ。続いて郵便局に行く。私の目的は、京都のTプリント宛にEMS(国際スピード郵便)を出すことだ。国内線の機内で校正して成田空港で投函しようと目論んでいたゲラをそのままスリランカまで持ってきてしまったために、この始末である。校正は昨夜ようやく済ませた。
ニャーナ師はいつも以上に大量の紅茶やカレーの材料を日本に送る手続きをした。その心は、

「おいしいカレーをたくさん作って、温かいセイロン紅茶といっしょに被災地の人々に届けてあげたい」

何とありがたい志であろう。そう言えば、新任の駐日スリランカ大使は、日本に住む自国民に、あくまで日本に留まって日本人を助けよと指示したとか。さっさと日本脱出を勧告した某国とはえらい違いである。スリランカから届けられた義捐金8000万円は、所得と物価の違いを考慮すれば、大変な金額である。その気持ちが嬉しいではないか。断っておくが、これは見返りを求めての行為ではない。2004年の大津波の時に真っ先に駆けつけ、一番助けてくれたのが日本だったから、その恩返しをしたいとの思いから出たものだ。

続いて向かったのは、コロンボ市内のマリガカンダにあるヴィドヨーダヤ・ピリウェナである。ヴィドヨーダヤは知の上昇を、ピリウェナは仏教学校を意味する。ヴィドヨーダヤ・ピリウェナは、コロンボの篤信の仏教徒たちによって1873年に創立された。初代校長のヒッカドゥウェ・スマンガラ師は、スリランカの改革派の比丘たちを代表する人物で、その存在は日本仏教界でもよく知られていた。
vidyodaya.jpg
*緑陰の深い校内。町の真ん中にあるが修行と勉学の場に相応しい静謐が保たれている。

椰子1

かつてここには多くの日本人が勉学修行に来た。今度の旅で私が追いかけようとしているのは、明治時代、仏教の神髄を究めたい一心でこの熱帯の島にやってきた日本の仏教青年たちの足跡だ。

スマンガラの銅像
*ヒッカドゥウェ・スマンガラの銅像。自分が育てた学校を100年後の今日も見守っている。

スマンガラの部屋
*スマンガラ校長が使っていた部屋は記念展示室に改装中だった。

二人の比丘
*ニャーナ師(左)と現校長のソービタ師。

僧院の食事1
*ここで何と昼食まで頂いてしまう。質素だがおいしかった。鰹のフィッシュカレーだ。僧院では、僧院長も校長も、使った食器は自分で洗うのがマナー。

ヴィドヨーダヤ・ピリウェナを出た私たちは、コロンボ北部のコタヘーナ地区にあるもう一つの僧院を訪問した。それからコロンボを南下し、郊外の仏教書を多く置いてある書店に行く。二人とはここでいったんお別れ。一人になった私は時間をかけて本を大量に買い込み、トゥクトゥクでホテルに戻った。前に書いたように、トゥクトゥクのドライバーは外国人には扱いにくい。そこであらかじめ書店の近所で客待ちをしているトゥクトゥクを呼んでもらい、ニャーナさんに話を付けてもらった。ホテルまで500ルピーという言質を取った上で、おもむろに私が出ていって、客はこの日本人だと告げるやり方。私一人であれば2000くらい要求されてもおかしくない距離であった。

ちなみにトゥクトゥクはインドにもあるが、私は積極的には勧めない。今言ったような面倒臭さの他に、横倒しになる危険や、車にぶつけられたらひとたまりもないもろさがあるからだ。タクシーがあれば、多少高くても、タクシーに乗った方がよい。







フィールドワークの記録

四大宗教がひしめいている

2011年04月05日
タ・タイチョーがいよいよカトマンズを後にして御山へ入るとのこと。今日はテンジンヌルブに会いに行ったらしい。タイチョーの無事帰還を祈ってエールを送っておこう。いつもとは趣向を変えて、パーリ語の経文で。
ナモー、タッサ、バガヴァトー、アラハトー、サンマーサンブッダッサ
(かの世尊(せそん)、阿羅漢(あらかん)、正等覚者(しょうとうがくしゃ)に礼し奉る)

日曜日のチベット曼荼羅会には、高野山大学密教文化研究所受託研究員の辻村優英氏ら(火曜日の人文研研究会で会ったばかり)といっしょにアムチ(チベット医師)の小川康さんが来てくれた。小川さんとは、以前、仙台市博で行われた東北大学総合学術博物館主催のシンポジウムでご一緒したことがある。この時の講演者は夢枕獏氏で、その晩の出来事については以前このブログに書いた。

「被災地のお酒でお花見を、過剰な自粛『ちょっと待って』」
今日ネットに載ったニュースである。まことその通り。馬鹿騒ぎは控えた方がいいが、お花見は日本の美風です。こんな時こそ、どんどんやらにゃ。この際、蔵元も純米吟醸酒「復興」とか「義宴」(「ぎのうたげ」と読ませる。もちろん義捐に掛けている)などを売り出し、1本につき200円でも300円でも義捐金に回るということにしたら、アルコールに弱い私のような人間でも無理して飲むのだが。

      *         *         *

話かわって、スリランカは日本では仏教の島のイメージが強い。確かに仏教徒はスリランカの多数派民族であるシンハラ人には多いが、この島には他に、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラーム教という世界の大宗教がひしめいている。
ペターからホテルに戻る途中にイスラーム教、ヒンドゥー教の寺院を訪れてみた。

ペターのモスク
*ペターのジャミ・ウル・アルファー・モスク
gopura.jpg
*同じペターのヒンドゥー教寺院。南インドの場合と同じくゴープラと呼ばれる塔門がそびえている。スリランカのヒンドゥー教徒の大半は南インドにルーツを持つタミル系住民だ。

gopura3.jpg
*ゴープラには神様たちが鈴なりになっている。
女神様
*こっちを見下ろしてるよ。
ほいほい
*踊ってるよ。


帰途、夕食をとるために立ち寄ったレストランでは、大型スクリーンにクリケットの試合を映し出していた。クリケットのワールドカップ2011だ。南アジアのイギリスの旧植民地では、どこでもクリケットが盛んだ。私はルールを知らないため、どこがおもしろいのかさっぱり分からないが。スリランカのナショナルチームは最近とても強くなり、私が滞在中もニュージーランドを破って大きな話題となっていた。ちなみに決勝戦は4月2日、ムンバイでホスト国のインドとスリランカの間で戦われ、スリランカは惜敗したが、みごと準優勝に輝いている。クリケット
*オーストラリア対ケニヤの一シーン。オーストラリアも強豪国だ。

陸橋
*ペターの歩道橋に取り付けられたワールドカップの看板には「I am Sri Lanka」とある。日本で言えば、さしずめ「がんばれ、ニッポン」というところ。

部屋の窓から
*ホテルの部屋の窓からは大きな仏塔が見える。スリランカに来て二日目の日が暮れる。
フィールドワークの記録

チベット曼荼羅 in 高野山2011

2011年04月04日
fc2の緊急メンテナンスのため、まる二日アクセスが不可能になっていました。プロバイダーの故障とかで、あまりに復旧が遅いので、このまま終わるのかなと思いはじめた頃に、何とか戻ってくれました。その間に気づいたのは、ブログができないと気分が落ち着かないということです。この3年の間にすっかり癖になったようです。さて、

先週の金曜日(4月1日)、故あって車で京都に行った。京都には数え切れないほど行っているが、車で行ったのは初めてだった。何しろ、道が狭そうだし、それに応じて一方通行だの何だの規制が多そうだ。それに子どもたちが小さかった頃、「びわ湖わんわん王国」に行った経験から言えば、滋賀や京都のドライバーは運転が「こすからい」。うちの車は和泉ナンバーを背負っているが、関西一円で和泉ナンバーといえば、あの大阪環状線でも道を譲られるほど一目置かれている。ところがそのおまじないも通じなかった。
しかし実際行ってみると、それほどのことはなく、おかげで堀川通りから今出川通りの辺りを爆走できた。烏丸今出川でちょっと降りる用事ができ、ほんの出来心で、同志社の車両入口に豪快に乗り入れてみたら、案の定、守衛さんにものすごく丁寧に断られた。

  *         *          *          * 

昨日の日曜日、大学の黎明館で「チベット曼荼羅 in 高野山2011」の催しがあった。世界平和と東日本大震災物故者の冥福を祈ることを目的とし、大円院で三日がかりで描かれた観音菩薩の砂曼荼羅がお披露目され、チベット仏教の僧侶たちによる曼荼羅法要と松尾泰伸氏によるシンセサイザーの奉納演奏にイヌイさんの曼荼羅解説が付くという充実したものであった。

砂マンダラ
*砂マンダラの儀礼はインドに発祥した。その伝統が生きているのはチベット仏教圏だけである。
砂マンダラを描く
*砂マンダラの制作風景。細長い筒状の容器にいろとりどりの砂(というよりは粉)を入れ、筒の先端から少しずつ出しながら、巧みにマンダラを描いてゆく。
乾さん
*マンダラを解説する乾仁志教授。なかなかよかった。乾さんにしては短かったし。

マンダラを捧げる
*マンダラへの捧げ物を用意するお坊さんたち。彼らはみなインドのアルナーチャルプラデーシュ州西部出身のゲルク派僧侶で、今は南インドのセラ大僧院で修行している。ゲルク派の特徴である黄色い帽子に注目。一行を率いるのはタワンの活仏テンジンギュルメー師。私がタワンで会おうとして会えなかった人物だ。

黒帽の踊り
*チャムの演目の一つ、黒帽の踊り。チャムはチベット仏教の僧侶たちによって演じられる宗教舞踊。跳舞と呼ばれるように、跳ねて回転するのを基本とする。動くマンダラそのものだ。
カンドンマの踊り
*これはカンドンマ(ダーキニー=一種の魔女)の踊り。右手に持ったでんでん太鼓に似たダマルの「カタ、カタ、カタ…」という音が魔術的な雰囲気を盛り上げる。

カンドンマ2

カンドンマ5

カンドンマ4

松尾氏
*松尾氏の即興演奏は集中力がすばらしかった。CDをもらって今も聴いているが、耳にぜんぜん障らない心地よさだ。
高野山大学の力
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