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日曜日のコロンボ

2011年03月31日
3月28日(月)午後6時から同志社大学神学館でK-GURSの評議員会があった。最後に退任のあいさつをして肩の荷を下ろす。この2年間に一番印象に残ったことは、各大学院の担当者によるチェーンレクチャーが始まったこと。これは来年度も大谷大学から同志社大学に場所を移して続けられる。評議会議長の仕事はこれで終わったが、評議員としては残るので、当分、K-GURSの運営には関わることになる。

3月29日(火)午後2時から京大人文研で研究会を行う。今回は公募の研究班と現代インド地域研究との合同開催となった。加瀬澤雅人さんがアーユルヴェーダについて発表してくれた。山下さんが震災の影響で来られなくなったので、加瀬澤さんの前座のつもりで、「明治セイロン留学生の足跡 報告」を、先日のスリランカ調査を踏まえて、スライド中心に行う。研究会は5時半過ぎに終了。
そのあと夕食会と称して飲み会。初めての人が何人か参加した。終わって、タクシーを拾い、烏丸御池のホテルにチェックイン。

翌30日は10時ぎりぎりまでホテルで過ごし、それから地下鉄とバスを乗り継いで人文研に行って残務整理をする。それが3時過ぎに終わり、ようやく帰途についた。

 *         *         *        *   

さてさて、話はコロンボ到着の翌日、つまり3月13日(日)に戻る。
日曜日のコロンボは、ウィークデーの雑踏と渋滞が嘘のように静まりかえっている。店も軒並みシャッターを下ろしている。行動は明日からにして、今日はゆっくり過ごして、暑さに身体を慣らすことにする。

午前中はフォート地区を散策する。フォート(砦)の名の通り、ここはポルトガル人、オランダ人、イギリス人が築いた要塞から発展した町で、官公庁、銀行、オフィスなどが集中している。

ガンガーラーマ寺を覗き、チャタム・ストリート近くまでトゥクトゥクに乗り、それから海岸通りをぶらぶら歩き、オランダ人の建てた病院の跡を見て、ホテルに戻る。

僧院の象
*ガンガーラーマ寺にいた象。その牙の長いこと長いこと。これじゃずいぶん重いだろうねえ。たまには↓こんなことしたくならないのかな。
象ジャータカ
*ウェヘラヘナ寺(マータラ)に描かれたジャータカ物語の壁画より。牙を自分で切って人に与える白象(もちろん重いから切るんじゃありません。念のため)

蛇使い
*こちらは、おなじみ蛇使い。しきりにここに来いと呼ぶが、そんなところに誰が行くものか。しまいには「毒はないよ」と言い出す。正直な奴だ。でも、行くのはいやだ。

フォートの大砲
*フォートの海岸通りに据え付けられた昔の大砲。

海岸道路
*海岸道路を走るトゥクトゥク(スリーウィーラー=三輪車)。市民の便利な足だが、外国人には高額料金をふっかけることが多いので注意を要する。


3時過ぎまで部屋で身体を休めてから、歩いて隣のペター地区に行く。ここはコロンボを代表する繁華街で、日曜でもけっこう賑わっていた。書店で本を買い、食堂でコーラを飲んで渇きをいやす。
フィールドワークの記録

スリランカの仏たち

2011年03月27日
スリランカの仏
*ガンガーラーマ寺(コロンボ)の仏

シンバリアワセ
*シンバリアワセ(ゴール)の仏

ランウェルレー寺の仏
*ランウェルレー寺(カタルワ)の仏

街角の仏
*コロンボの街角に祀られた仏

コロンボの街角で
*コロンボの街角の仏

このたびの震災で犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

フィールドワークの記録

コロンボ到着

2011年03月26日
午後8時、飛行機はスリランカのバンダーラナーヤカ国際空港に到着した。気温は摂氏26度。

空港ビルが新しくなり、10年前に比べてずいぶん明るくなったという印象だ。長く続いた内戦が反政府武装勢力LTTEの壊滅によって終わってまだ数年しか経っていない。これからもう一度国造りが始まるのだろう。

機内で客室乗務員に聞いた話では、LTTEの根拠地だった北部のジャフナにも近頃は安全に旅行ができるという。

空港からグランドオリエンタル・ホテルまではプリペイド・タクシーで2600ルピー(1スリランカ・ルピーは大体0.7、8円)。後でナンダセーナさんに聞いた話では、以前は空港から市内へのタクシーに問題が多く、評判が悪かったため、政府主導でこのような形に改められたのだという。

午後9時20分、ホテル着。ロビーに入って、何ともいえない安心感に包まれる。従業員のしつけがとても行き届いている感じ。長い一日だった。

一夜明けて、日曜日。表に出てみると、日差しがとても強い。4階のレストランで朝食を取る。ここからはコロンボ港がよく見えるが、残念ながら写真撮影厳禁。港だけでなく、政府関係の施設が集まっているここフォート地区は写真撮影禁止のエリアが広がっている。まだ警戒は厳重なのだ。
GOH.jpg
*グランドオリエンタル・ホテル(GOH)は1875年創業の老舗だ。

ドアマン
*クラシカルな制服を着たGOHのドアマン。日本のガイドブックにも彼の写真が載っている。なかなかの存在感だ。
フィールドワークの記録

成田空港まで(3)

2011年03月25日
総武快速は橋にさしかかる度に徐行運転をくりかえした。そのため成田までは余計に遠い。千葉で空港行きの各駅停車に乗り換える。その頃には空港行きが復旧していたのだ。考えてみれば、成田は日本の空の玄関口である。復旧が早いのは当然だ。そう考えればなおのこと、もう1時間早ければ、の思いがつのる。では、なぜ成田に向かっているのか。自分が遅れたことを最終確認に行くだけだ。今朝からのあの長?いみちのりをまた戻ることを考えると、うんざりする。

電車が第2ターミナルの駅に着くと、とっくにあきらめているはずなのに、自然に小走りになる。女の人が同じ方向に走っている。あれ、と思うまもなく見えてきたエア・ランカーのカウンターには、まだ乗客たちが並んでいる。おまけに、係員たちがこっちを見ておいでおいでをしているではないか。

・・・・

機内

駆け込むようにして入った機内はがらがらだった。客室乗務員のスリランカ女性の話では、予約は満席だったとのこと。そうか。昨日からの混乱で、せっかくの旅行を諦めたり、この時間にここまでたどり着けなかった人が大半なのだ。何だか申し訳ない気分になる。

中部山岳地帯
*中部地方の山岳地帯。日本の背骨とも言うべき山々だ。太古の昔からこの列島に住みなしてきたわれわれ日本人を守り給え、と祈る。












フィールドワークの記録

成田空港まで(2)

2011年03月25日
階段を下りてゆくと、JR浜松町のホームは人の頭しか見えないほど混んでいた。しかし列を乱す者はなく、皆辛抱強く電車を待っている。構内アナウンスが電車の運行状況を伝えている。20分に一本くらいしか来ないらしい。このままでは電車に乗るまでに40分はかかる。駅を出て、トランクを転がしながら歩き始める。サラリーマン風の人々が同じ方向にぞろぞろ歩いているから、道を間違える心配はない。

途中、新橋のたばこやの店先から山本さんに電話すると、何とエア・ランカー(スリランカ航空)は定刻(13:20)通りの出発とのこと。すでに10時近い。これはだめかもしれない。なぜもっと機敏に行動できなかったのかと、しきりに悔やまれる。

3キロは歩いただろうか、有楽町の駅に着く。東京はもうすぐだが、なぜかふと電車に乗りたくなって、ホームに上がってみると、眼下の道路にときどきタクシーが来るのが見える。タクシーは最初からあきらめていたが、これは何とかなるかもしれない。ホームを下り、駅を出て少し歩くと、さっそく一台やってきて、客が降りる。

しめた。半開きになったドア越しに運転手に声をかける。「成田空港行ってくれませんか」

この時の彼の受け答えがとてもよかった。

「何時まで」
「11時半から12時が限度」
「う?ん、話はすごく嬉しいんだけど、嘘をつくわけにはいかない。その時間までに成田に行くのは無理だ。なにせ高速が閉まってるし、東京を脱出しようとする車が多くて道は大渋滞だ」
「そうですか。私もすごく行ってもらいたいんだけれど、そういうことなら電車にします」

お礼を兼ねて、東京駅近くの地下への入り口まで乗って、タクシーと別れる。
フィールドワークの記録

成田空港まで(1)

2011年03月24日
伊丹から成田まで乗る予定だったJAL便が欠航になったことを知ったのは11日の午後9時頃だった。理由は機材が来ないから。JALはJALで日本のいろいろな空路で飛行機を使い回している。それが地震の影響で、回せなくなったらしい。

さっそくKRK山本さんに電話で相談すると、山本さんは、6:55発の関空?羽田ANAに予約を入れてくれた。プレミアムクラスしか残っていなかったので、少々高いがこの際やむを得ない。結果から言うと、これが勝負の分かれ目だった。

それまでは、こんな時に出かけてよいものか、という後ろ向きの気分に支配されていたが、この辺りから何としても行かねばならぬ、という気になる。幸い山形の母には、地震発生直後に電話が繋がり、無事が確認できている。長女からは、京都に来ているとの連絡が入った。

テレビを見ながらのパッキングに時間が掛かり、寝たのは午前2時。2時間後には起きて仕度をし、泉ヶ丘のバス停に向かう。5時5分のリムジンバスに乗り、1時間弱で関空へ。私の住む堺南部は関空への地の利がすこぶるよい。

国内線のカウンターに行くと、すでに大勢の人々が詰めかけていた。しかしプレミアムは席が少ないし、優先される。これもよかった。列に一緒にならんだ女性に声をかけて情報交換すると、何と彼女は昨日アメリカから飛んで来たユナイテッド航空機に乗っていて、地震のために成田ではなく、米軍横田基地に下りたのだという。そこから入国というのはさすがにできないので、今朝また関空に来て入国手続きをし、再び関東に向かうというわけだ。

定刻ぎりぎりで機内に入ると、「お待ちしておりました」と客室乗務員に声をかけられる。離陸してしばらくすると、朝食が出てきた。飛行機は少し遅れて羽田に着く。

羽田?成田のシャトルバスが運行停止になっていることは分かっていた。山本さんにもその先は分からない。とにかく出たとこ勝負で成田に向かえ、とアドバイスを受けている。こういう時(といったって、こんな場合がそうそうあってたまるものではないが)は、とにかく走りながら考えるしかないのだが、ANAの係員から成田の状況を聞くのに随分時間がかかった。むろん彼女たちは親切心から精一杯の連絡をしてくれたのだが。さらにその下のインフォメーションでも同じ事で時間をくう。情報は錯綜しており、成田は閉鎖された、JRはシャッターが下りている、京急に乗っても途中までしか行けない等々、どの道を選んでよいのか分からない。

結局、モノレールの切符売り場の前で客を誘導していたおじさんの言を信じることにする。

「モノレールで浜松町まで行ったら、山手線が動き出しているからそれで東京まで行き、地下に下りて、総武快速で千葉まで行け。そこから先のことは行ってから考えろ。ぐずぐずしていると飛行機に乗り遅れちまうぞ」


フィールドワークの記録

「福島五十死士」

2011年03月23日
毎日、朝、昼、晩とホテルの部屋のテレビでBBC、CNN、アルジャジーラが報ずる震災関係のニュースをチェックしていた。

各報道機関の論調は、地震と津波については文句なしに同情的であった。BBCに寄せられた視聴者からのメールの一つ:うちの小さな男の子が、ツナミのニュースを見て、急に靴を履かせてくれと言い出した。どうして、と聞いたら、「ボクがツナミを逮捕する!」

しかし原発の事故については、ああならないようにわれわれ(欧米各国)も気をつけようといったニュアンスが漂っていた。

最初の爆発の映像をどこで初めて見たのかは思い出せない。しかし、成田に行く電車の中で、西洋人同士がしきりに「リアクター」がどうのこうのと言っているのを小耳に挟んで、ああっ、もしかして、とは思っていた。

あの音のない映像では、軽く「ポンッ」とはじけた感じだが、かえってそれが不気味で、何か日本人の大切なものが吹き飛んでしまったという気がした。

帰途、航空会社の都合でスリランカ航空ではなく、バンコク、香港経由のキャセイ・パシフィックに乗った。機内で香港の新聞を開くと、「福島五十死士」の文字が。何でも、福島第1原発では、作業員50人が死の危険も顧みずに復旧作業に当たっているという。そういえば、ナンダセーナさんもそんなことを言っていたな。それが自分の身を犠牲にして他のため、国のために尽くす英雄的行為として讃えられているのだ。確かに、そういう巡り合わせになったら、覚悟しなければならない。身を捨てても守らなければならないものはあるものだ、と思った。

ところが帰ってみると、日本ではそういう角度の報道がないのである。少なくともここ二日ほどの間には見つけられなかった。どうなっているのか。知っている人は教えてもらいたい。

新聞を見る
*日本の震災に関する新聞記事を示すスリーウィーラー(トゥクトゥク)の運転手(コロンボ南方のパーナドゥラにて)。新聞のイラストは、ツナミの中に沈みかけている日の丸。
フィールドワークの記録

スリランカ中が悲しんでいる

2011年03月22日
「日本はこれまで世界中の困っている国々を助けてきた。その日本があんなことになって私は悲しい」

スリランカ西南海岸のある寺の僧侶が語った一言である。この感情が彼一人のものでないことを私は行く先々で痛感した。私が日本人であることを知ると、どの人も必ず見舞いの言葉をくれたし、募金活動も始まっている。


スリランカ中が今回の日本の災害を悲しんでいる。おおげさでなく、こう感じた。2004年のスマトラ沖地震でスリランカは、津波のために4万人以上の死者・行方不明者を出している。他人事ではないのだ。この災害からの復興に大きく貢献したのが日本であった

今月は19日が満月の日(ポーヤデー)だった。スリランカでは満月の日は祝日で、仏教徒はお寺に参詣して法要に参加することを常とする。ところが今回、スリランカ各地の、特に日本にゆかりの深い寺院では、ポーヤデーをクライマックスに、多いところでは3日連続して法要が行われた。その大きな目的は、今回の日本の地震と津波の犠牲者を弔い、日本の1日も早い復興を祈ることであった。

私も、コロンボ近郊のある寺で開かれた法要に参加した。

祈り1

日本の人々のために心を一つにして祈ろう、という僧侶の呼びかけに応じて、熱心に祈りをささげる善男善女。

祈り3

祈り2

祈り5

我々は決して独りではない。





フィールドワークの記録

シンポジウムで東京

2011年03月07日
智山伝法院主催のシンポジウム「近代仏教を問う」に出席するために東京に来た。懇親会を終えて、早めにホテルに戻ってこれを書いている。

東京の雪にはちょっと驚いた。12時過ぎに東京駅に着く。シンポジウムは2時からなので、久しぶりに神田の古書店街を訪れた。まず一誠堂、それからすずらん通りの内山書店を回り、お昼は老舗天ぷら屋の「はちまき」で天丼をかきこむ。これが、うまくて安かった(650円)。

シンポジウムについては、明日かな・・・





ある大学教員の日常茶飯

しめきり

2011年03月06日
人間が悩むのは過去や未来に思いをはせるからで、現在しかない犬猫に悩みはないという。それが本当かどうかは、高性能のバウリンガル、にゃんリンガルの開発を待って彼らに本音を聞いてみるしかないが、ともかく、現在に集中することが悩みを忘れるコツであることは確かである。

こう考えながら今朝も曼荼羅荘を出てきた。本来ならば土日は自宅で過ごすのであるが、しめきり、が過ぎているのである。

2月10日の朝であったろうか。田辺の南方熊楠顕彰館で、別れ際に田村さんに、「今月末しめきりのあの原稿のしめきりはいつですか」とたずねたら、「今月末しめきりの原稿のしめきりは今月末です」という回文のような答えが返ってきた(ように記憶する)。その無情な響きにつけいる隙を見出せなかった私は、すごすごと田辺を後にしたのであった。

2月は一年で一番忙しい月である。昨日も大学院の入学試験があり、私は面接を担当した。受験生は60に手が届きそうな人もいれば、今月卒業予定の4回生もいる。

一通り質疑応答が終わった後、私は次のようなことを付け加えた。

「在学中に僧侶の資格を取るのはまことに結構なことです。うちは学費の減免措置もあれば、在学期間の延長もあって、じっくり、あるいはのんびりやるには適しています。しかしだからこそ、もしも合格したならば、初心を忘れず、強い覚悟をもって勉強に取り組んで下さい」




ある大学教員の日常茶飯
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