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この●そ忙しいのに パート1

2010年10月31日
この●そ忙しいのに、昨日は京大人文研で公募研究会だった。北は仙台から西は広島まで全国各地から研究者を班員に迎えて、第一回研究会を「盛大」かつ「なごやかに」挙行した。2時から5時半までみっちりと。

現在の私はこの年末まで続く、ある校務のために、「石抱きの拷問」を受けるような日々を送っている。だが、1年前、半年前から決まっていることは、こなしてゆかねばならぬ。

研究会が終わって「門」に場所を移して「夜の部」を挙行。10数人参加。「昼の部」同様、おもしろい話がたくさん聞けた。

そのあと、東京から来てくれたDと二人で二次会をやってから、四条河原町の京都唯一のカプセルホテルに宿泊。観光シーズンで他のホテルが取れなかったためだが、これがカプセルから連想されるある種のイメージとはかけ離れた、きれいで過ごしやすいホテルだった。

早起きして帰宅し、これから御山に戻って仕事。明日がパート2。
ある大学教員の日常茶飯

袋ごいっしょでもよろしいですか

2010年10月29日
昨日D大にでかけて生協で本を買った。本はできるだけ増やしたくないので購入は慎重にしているが、この本、つまり松本健一の『明治天皇という人』(毎日新聞社)は、発見してから3秒で買うことに決めた。

帯に書かれた明治天皇のことばの一つ:「乃木もアー人を殺しては、どもならん」
なかなか痺れるではないか。

ついでに「大盛つけ麺」も買った。チンして食べるなかなかリーズナブルな製品である。

この二つを持ってレジに行った。当然だが、本は本用の紙袋に入れられる。
だが次の瞬間、

「袋ごいっしょでもよろしいですか」
「はっ?」
「袋ごいっしょでもよろしいですか」

どうやら本とつけ麺とをいっしょのレジ袋にいれてよいかとたずねているようだ。いいわけないだろう。

「そいつあ無理です」

しかし店員はぎょっとしているだけで、次の袋を用意してくれない。そこで本を受け取り、自分の手提げに入れて店を出た。つけ麺に罪はない。店員にも罪はない。マニュアルに従っただけである。しかし、それはやっぱりどこかおかしいでしょう。

ある大学教員の日常茶飯

最近のニュース

2010年10月25日
昨夜9時過ぎに帰ってNHKをつけたら「奇跡の生還」をやっている。それを見ながら、今回の救出劇に日本は、あるいは日本人はどんな形で参加したのだろうと考えた。これが報道されはじめた当初、日本の掘削技術は世界一だから、この際、どんなに金がかかっても、機械も人も送り込んで、日本の存在をアピールすべきだ、といった意見も聞かれたが、実際に機材と技術を提供したのはアメリカの会社だったようだ。それを考えると、単に「感動的ですね」では済まない気がする。

数日前から、中国の青海省や北京で、「漢語強制」の教育改革に反対して、チベット族の学生のデモが相次いでいると報じられている。今日は読売新聞にもかなり大きく報じられた。

以前、チベット族の学生が職を得るには、中国語・英語を学ばなければならないので、漢族の学生に比べて不利だと聞いたことがある。しかし、だからといって、チベット語を失えば、チベット人はチベット人でなくなってしまう。言語は文化の基盤だからである。これは独立要求デモとは違うし、チベット族だけの問題でもない。今後の動きに注意したい。
ある大学教員の日常茶飯

『チベット巡礼探検家 求道の師 能海寛』

2010年10月24日
私が『山陰中央新報』に投じた書評が記事になったと、能海寛研究会の岡崎秀紀会長が知らせてくれた。これは岡崎会長を通じて依頼を受けたものだが、書評の対象が外ならぬ隅田正三さんの本だから、喜んで引き受けた。以下にその原稿を掲げる。

『チベット巡礼探検家 求道の師 能海寛』USS出版、2010年

「能海寛(のうみ・ゆたか、一八六八―一九〇一?)は、島根県那賀郡東谷村(現・浜田市金城町長田)出身の浄土真宗大谷派の僧侶で、当時鎖国体制下にあったチベットへの入国を試みて、中国雲南省の奥地で消息を絶った人物である。
 明治二〇年代、改革の意気に燃える仏教青年たちの間にチベット・ブームが起こり、チベット探検に名乗りを上げる者が次々に現れた。それは、仏教の原点たる釈迦牟尼(しゃかむに)の本当の教えを明らかにし、立て直しを迫られていた明治仏教界の改革と発展の起爆剤にしようとする運動の一つであった。だが彼らの事績は、『チベット旅行記』で知られる河口慧海(かわぐち・えかい、一八六六―一九四五)の場合をほとんど唯一の例外として、世間一般からは長く忘れられてきた。能海もそうした者の一人であり、その志は、自坊の浄蓮寺とその別宅にしまい込まれた膨大な資料と共に埋もれていた。
 本書の著者は、四〇数年前に能海に興味を持って以来、同郷のこの人物の顕彰に半生をかけてきた。すなわち、新資料を発掘して能海の再評価のきっかけを作り、講演や執筆を行い、能海寛研究会を立ち上げてその事務局長を務め、『能海寛著作集』全一七巻(USS出版)の出版を実現させてきた。能海と島村抱月の顕彰を軸とした社会教育活動にも携わり、二〇〇〇年には、会長を務める波佐文化協会がサントリー地域文化賞を受賞している。
 本書は、二〇数年前に出版された同名の著書に大幅な改訂をほどこしたものであり、右に述べたような著者の活動の現時点における決算報告書となっている。その内容は、能海の伝記、図版、著作、書簡、資料目録、略年譜など多岐にわたり、時には雑然とした印象も与えるが、いずれもこれからの能海研究には必要な基礎データである。
 本書において著者は「能海学」の構想を明かしている。その実現は地元の人々と全国各地の研究者との連携なくしてはありえない。つなぎ役としての著者の今後の活躍が期待される。」

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*波佐のときわ会館の敷地に立つ能海寛の歌碑(2009年7月撮影)。「ものかはり星うつりける今の世も尚みどりなる城山の松」1900年2月8日に中国四川省のダルツェンドで詠んだもの。

能海は、終戦前後までにチベットに入った日本人の中で唯一人、生きて日本に帰ることのできなかった人物である。しかしその思いは、隅田さんを始めとする地域の人々に受け継がれている。
研究ノート

とうとう帰国

2010年10月20日
9月24日
今日でインドともお別れだ。
首都デリーは、4年に一度のコモンウェルス・ゲームズ(英連邦競技大会)を来月に控えて少しずつ盛り上がっているようだった。
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今日のメニューはデリー大の東アジア研究科にRさんを訪ねることと国立博物館でスタイン・コレクションを見ることの二点。あとはお土産の確保が必須。

デリー大も大きいので、あちこち探しながら、10時半過ぎにようやく到着。Rさんとの面識はさして深くないが、2年前に東京で開かれたさるシンポジウムで会ったときにくらべてより快活になったという印象である。しかし口から先に生まれてきたようなところはまったく変わっていない。研究対象は日本だから、どうせまたすぐ日本にくるんでしょう、といったら、11月に日本で開かれるある大規模な大会に招かれて講演するという話だった。関連で、彼女の口から同僚の名前が出たので、帰国後確認したら、「Rさんに講演を頼んだのはオレ」とのこと。世間は、いや世界は狭い。

2時間ほとんどしゃべりづめにしゃべって情報交換してから、学科長を紹介してもらう。実に有益な訪問であった。

昼食の後、国立博物館を訪問し、館員の案内でスタイン・コレクションを見せてもらう。ここでの目玉は、修復中の有翼天使像壁画を特別に見せてもらったこと。オーレル・スタインがミーランの遺跡から発掘した有名なエンジェルの絵だ。what.jpg
*これは有翼天使像ではなく、同じミーラン出土のブッダ像の顔の部分。

博物館の他の展示物もゆっくり見たかったがもう時間がなかった。お土産屋に寄ってお茶などを買って空港に向かう。
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9月25日
一夜明けて、午後零時半、エア・インディア機は無事に関空に降り立った。気温26度。留守にしている間に日本の秋も深まったようだ。
osaka bay
*連絡橋から見た大阪湾、紀淡海峡方面。「悲しい色やね」

今回ほどインドを去るのが名残惜しく感じられたことはない。こんなことをいつまで続けるのか自分でも分からないが、とにかく前を向いてゆくしかない。







フィールドワークの記録

デリーに戻る

2010年10月19日
9月23日
チャンディーガル二日目。新聞・テレビではヤムナー河が氾濫してデリーが洪水に見舞われていることが報じられている。インドは大きいから別に驚きはしないが、それにしても天変地異の多い年である。

この日の目的はチャンディーガル美術館での調査。前もってリクエストしておいたガンダーラ彫刻を収蔵庫から次々に出してもらって計測や写真撮影を行う。途中停電でちょっと休憩が入ったが、すぐに復旧。カジャでは計画停電のようなことをやっていたが、以前に比べれば、インドの電力事情は飛躍的に向上している。この旅全体の印象でもあるが、インドも普通の国になった、という感じである。
planter dog2
*プランターに犬が寝ている。何事の不思議なけれど。

午後からは再び美術館に戻って展示品の撮影をやった。展示物が多すぎるので、物語性のある石仏を選んで撮る。それで大体タイムアップ。美術館の売店に飾られているガンダーラ仏のレプリカがほしかったが、ガラスケースから出してもらうと、これがやたらに重いので結局あきらめる。

夕方チャンディーガル駅まで送ってもらったところで、ヴィピンさん、ドライバー、ドライバー助手の少年とはお別れである。短い間だったが、苦楽を共にした。「お世話になりました、また会いましょう」が別れの言葉だが、一期一会であることはお互いに分かっている。
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*「やあ、世話になったねえ」「ダンナもひとつ御達者で」という会話があったかどうかは定かではない。

さあ、次にゆかなければ。

platform tree
*プラットフォームに木が生えている。何事の不思議なけれど。
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*線路に下りて列車を待つ人々。何事の不思議なけれど。
station dog
*プラットフォームに犬がいる。きっとインドのハチ公だね。
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*急行が走り出してしばらくすると、またぞろ食事が出てくる。これだけでも結構な量だが、これはまだ序章に過ぎない。
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*当然、スープが来ます。
on wheels
*これがメイン。「ミールズ・オン・ウィールズ」(Meals on Wheels)なかなかしゃれた名前だ。currey.jpg
*ご飯にカレーが三種類も付いている。
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*デザートはバナナにアイスクリーム。私がすっかり太って帰ったのも無理はないのだ。

デリーに着いたのは、午後11時近かったと思う。迎えの車でホテルに。


フィールドワークの記録

計画都市

2010年10月18日
チャンディーガルはパンジャーブ州とハリヤーナー州の共通の州都である。この町はインド独立後に初代首相のネルーの指揮の下に建設された計画都市である。その計画は、フランスの建築家ル・コルビュジェらによって立てられた。市内のあちらこちらにはコルビュジェが設計した建築物がある。

9月22日
小雨の中、まずコルビュジェが設計したパンジャーブ・ハリヤーナー高等法院を見に行く。
high cort
*これがその高等法院の通用口。有名なファサードはこの裏側にあるが、ここでカメラを預けるので、写真は撮れなかった。う?ん、モダンだ。しかし入口の警備員は機関銃を構えている。
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*いかにも法曹界の人、という人々が出入りしている中、こんな人もいる。このおじさん剣下げてますけど?!

午後はスクナー湖という人造湖の畔の公園をゆっくり散策した。ここは恋人たちのメッカらしい。パンジャーブ辺りはインドでも美人の産地として知られている。
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*ローマンチックですなあ?。
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*こちらスィク三人男。「何か文句あるか」という風情。

帰りにマーケットをうろうろした。
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*さすがにスィク教徒の多い土地。ターバン屋が軒を連ねている。
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*ターバン屋の内部。同僚にちょっと似た感じの人物(左端)を発見。
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*街頭の床屋。よく見るとこのおじさん怒っている。rasu.jpg
*最後はサイババの信者が経営する甘味屋で締めた。ラスマライとラスグッラ(丸い方)、おいしゅうございました。

この旅行で一番のんびりした一日だった。

おまけ:インドでも猫型ロボットは人気です。その歌のヒンディー語版もある。dora.jpg
フィールドワークの記録

偉大の姿は無言の教へ

2010年10月14日
33人全員救出。めでたいことである。しかし中継された現場に各国の旗が立っているのを見て、あの中にまた日の丸はないんだろうなあ、行くのはテレビ局ばかりでは情けないと思うのだが。それにしても彼らは世界一ラッキーな落盤事故被害者と言えるだろう。
         *       *       *       *

チャトルでチャンドラ川にかかる鉄の橋を渡り、この川が造った峡谷の崖の路を上ったり下ったりしてゆくと、無数の滝が現れる。何百メートルもの断崖を何段にも分かれて落ちてくる滝、滝、滝・・・
偉大の2
「偉大の姿は無言の教へ…」何十年も前に卒業した高校の校歌の一節がなぜか突然頭に浮かんだ。

この頃からカメラの調子が変になり、設定が勝手に変わるようになった。酷使のためか、高度の影響か、電子部品に狂いを生じているのだろう。おかげでロータン峠付近で撮った写真は、ピクチャースタイルがモノクロに。でもこれはこれで何だか迫力がある。Lothang.jpg
*3時48分、ロータン峠(3978m)通過。全然止まる気配がないし、こちらも止まれと言わない。もう、一刻も早くマナーリーに着きたい。

ロータン峠から路がよくなる。と思ったのもつかの間、またも渋滞に引っかかる。
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「えー、おせんにキャラメル、おせんに・・・」こんな時にも商売を忘れない商魂のたくましさ。
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マナーリーへ続く緑の谷間がすぐそこに見えているというのに・・・
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しばらくして渋滞は解消。私たちの車は、今度こそ調子よく谷間の針葉樹林の中に下りていった。マナーリーのホリデーインに到着して、ウェルカムドリンクのサービスを受けたのは、午後7時であった。
フィールドワークの記録

峠越え

2010年10月13日
9月20日
今日は高い峠を二つ越えて一気にマナーリーに下りる。200キロメートルの道のりだ。
無事に峠を越えられるかまだ分からず、スタッフも緊張を隠せない。
6時40分出発。
天然の大聖堂
天然2
*人間が造ったどんな大聖堂も遠く及ばない天然の大伽藍。タイタン族のすみかのようにも見える。
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9時8分、ロサルのチェックポストに着いてパスポートチェックを受ける。熱くて甘いマサラティーがすばらしくおいしい。近くの民家の平屋根で、女性が雪かきをしている。珍しい光景だ。カジャからここまで58キロ、ここからマナーリーまではまだ142キロもある。
そこからしばらく走って、いよいよ上りにかかる。薄日が差して気温が上がり、道路には雪解け水が流れている。われわれの車はノーマルタイヤなので雪道や凍結には弱い。早朝や午後遅くでは峠道はだめだろう。危ない時間帯を縫うようにして走っているわけだ。

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*クンジャン峠のチョルテン(仏塔)とタルチョ(祈祷旗)。チベットでは峠はこういう風に旅の安全を祈って飾る。その原型は仏教以前から信仰されてきた精霊たちの宿る積み石塚だ。

11時25分、クンジャン峠に達する。標高4511メートル。今回の旅の最高到達地点だ。記念撮影をしたり、湧き水をペットボトルに汲んだりして、はしゃいでいるわれわれとは対照的に、スタッフは憮然として、早く行こう、という態度を示している。この時点でもまだ無事にマナーリーに着けるかどうか分からなかったのだ。

下りの方が当然危険度は増す。ドライバーが慎重な運転できついカーブや雪解け水の急流を乗り切って行く。峠を下ると、巨石がごろごろした石川原が延々と続く。おそらくは氷河が流れた跡だ。それを過ぎて、1時25分にチャトルの茶店でようやく昼食にありついた。茶屋には西洋人の旅行者たちもたくさんいた。
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*チャトルのテント茶店。結構賑わっている。ここで泊まることもできるらしいが、やっぱりそれはちょっとね。

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*豆(ダル)カレー↑、おいしゅうございました↓
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*ラマチャンドラさんはスピティに入ってから専らこのスタイル。寒い、寒いを連発している。南の出身だから無理もない。

食事が終わるとロータン峠目指して出発。最後の山場だ。










フィールドワークの記録

キー・ゴンパ

2010年10月12日
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9月19日9時、カジャ郊外のキー・ゴンパに向かう。小雨がみぞれに変わり、すぐに雪になる。このゴンパの標高は4000mをちょっと越えている。世界で最も高いところにある僧院と言われるが、広い世界にはこれより高所にある僧院もあるかと思う。

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*キー・ゴンパの僧で勉強熱心なテンジン師(左)とヴィピンさん。

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*ご要望に応えてこの辺の地図を掲げる。タボ(TABO、右下)とカジャ(KAZA、中ほど)の間の距離は47キロメートル。
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*キー・ゴンパはそれ自体高いところにかけられた鳥の巣のようなものだが、ここにはくちばしと足の黄色い烏が何羽も棲みついていた。河口慧海が『河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅』の中で「カンドーマ」(ダーキニー、恐ろしい女尊の一種)と呼んだのと同じ種類かもしれない。

カジャに戻ったところで、雪と崖崩れで道が閉鎖されたため今日はこれ以上行動できないことを知る。タボ方面に戻ってラルン寺とダンカル寺に行くはずだったのに。特にラルンに行けないのは痛手だが、反面こんな悪条件で行動しなくてよくなって、多少ほっとする。予定通りに移動できていること自体ラッキーだと思わねば。

誘われて、スタッフの部屋でラム酒のお湯割りを飲ませてもらい、昼食を取って休む。

フィールドワークの記録
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