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サラハンに向かう

2010年09月30日
9月14日(火)続き
ところが出発して針葉樹林の間を調子よく走り始めたと思ったら、すぐに道路工事による大渋滞に巻き込まれてしまった。これを抜けたのが、昼食を取った後の3時40分。それからも山道の連続でスピードは20?30キロしかでない。
われわれの車
*これがわれわれの車。どう見てもヒマラヤの悪路の走行には向いていない。これを何とか最後まで安全に動かしたのは、ウッタルプラデーシュ州から来た寡黙でタフなドライバー氏の運転技術だった。
ナールカンダ
*6時40分、チャイ休憩したナールカンダの宿。幹線道路沿いで交通量が多く繁盛しているようだ。

市場の少女
*この宿場のマーケットの一角で店の手伝いをしている少女。この子もちゃんと学校に行っているようだ。

ナールカンダから27キロでサトレジ川の渓谷に下りる。だが暗くてよく分からない。8時半、サインジのレストランで夕食。見学予定だったラームプルは素通りし、サラハンのシュリーカンド・ホテルに到着したのは午前零時だった。

9月15日
翌朝7時、庭に出てみると、おお、こりゃ絶景だ。
シュリーカンド2
フィールドワークの記録

シムラ会議

2010年09月29日
9月13日 これが最後
シムラーで何かみたいものはありませんか。こう聞かれた私は即座に、シムラ会議が行われた場所と答えていた。(シムラーとシムラを混ぜているが、教科書的にはシムラ会議なので使わせてもらう)
シムラーで合流した現地ガイドのヴィピンさんが、それでは明日まずそこに案内しましょうと答える。そのため7時出発のはずが、いきなり9時に変更。ちょっとわがままだったが、次にいつシムラーに来られるか分からないから、見るべきものは見ておきたい。

           Vipin-ji.jpg
*ヴィピンさん。マナーリー出身の29歳独身。まじめでなかなかの男前だ。

シムラ会議とは1913年から14年にかけてシムラーにイギリス、中国、チベットの代表者が集まってチベット問題を討議した会議である。この会議ではついにチベットの独立は認められなかった。この時、イギリスとチベットだけの調印で、インド北東部とチベットとの国境線が決定された。これが有名なマクマホン・ラインである。これは、その後のチベットとヒマラヤの運命を決定づけた歴史的会議であった。チベットに関心を持つ人間がその場所を確認しておきたいと思うのは当然であろう。

ところがその晩、モールと呼ばれる商店街の本屋で買った「シムラー本」をぱらぱらめくっていて気がついた。私が言うシムラ会議(Convention)と彼らが思っているシムラ会議(Conference)はどうやら別物だ。後者もインドにとってはすこぶる重要な会議だったらしい。ままよ、この際、シムラー最初の建築物とやらを見ておくのも悪くない。

9月14日(火)
Viceregal Lodge
これがその旧・副王ロッジ(Viceregal Lodge, 現Indian Institute for Advanced Studies)。ホテルから10数キロ離れたオブザーヴァトリーヒルの上にそびえている。なんちゅー立派な建物だ。この場合の副王とはインド総督を指す。大英帝国によるインド支配を象徴する建物といえる。

vicer2.jpg
*吹き抜けの堂々たるエントランスホール。木材はビルマ産のサーラ樹が用いられている。ちなみにこの建物の石材には、ベルギー産のサンドストーンやインド産のライムストーンが使われている。
conference room
*会議室。ドイツが降伏した翌月の1945年6月、インド総督ウェーヴェルに招集されたインド各派の代表がここで会議を開いた。これが「もう一つの」シムラ会議。この会議、ネルーらの率いる国民会議派とジンナ―の指導するムスリム連盟との対立によって決裂。これが1947年のインドとパキスタンの分離独立に繋がった。まさにインド亜大陸数億の人々の運命を左右する大会議だったわけである。
Nehru.jpg
*会議に出席した後、ロッジを出てきたジャワハルラール・ネルー(右)とサルダール・パテル。
gandhi.jpg
*ロッジの近くで民衆の熱狂的な歓迎を受けるM.K.ガンディー(マハートマ)。人々がガンディーの足に触ろうとしていることに注意。最大の敬意表現だ。

この建物とそれが持つドラマチックな歴史に皆満足したと思う。ところが気がつけば11時を回っている。はよ、つぎ行かな!
というわけで最初の予定よりも4時間遅れでシムラーを出発した。
フィールドワークの記録

トイ・トレインで行こう

2010年09月28日
9月13日(月)3回目
12時5分にカルカーに到着。カルカー・シムラー鉄道(1903年開業)、通称トイ・トレイン(おもちゃの列車)に乗り換える。これはダージリンのトイ・トレインと同じく世界文化遺産に登録されている。ダージリンの場合のような蒸気機関車ではないから、ちょっと情緒に欠けるが、これはこれで面白い。
toy train

12時20分出発。すぐに高度を上げて行く。最初はみんな車窓から写真を撮ったりしてはしゃいでいたが、5時間の長丁場でしまいにはぐったりしていた。

toy 2

ケータイ
*インドでもケータイの普及率はすごい。

17時17分、シムラー着。駅の海抜は2076m。この町はイギリス統治時代にはインド帝国の夏の首都として栄えた。インドを支配するイギリス人が避暑のために建設した高原都市をヒル・ステーションという。この種の町では、私はダージリンになじんでいるが、今回初めてシムラーに来てみてとても気に入った。そのうちゆっくり逗留してみたいものだ。
Clarks.jpg
*この晩の宿はクラークス。ヘリテイジ・ホテルに指定されているネオ・チューダー様式の風格のあるホテルだ。
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フィールドワークの記録

インドの急行列車

2010年09月27日
人もまた
*標高3000mの高地で冷たい雨に打たれながら咲くフウチョウソウのなかま。大地にはいつくばって茎と葉を伸ばし、一瞬の夏に可憐な花をつける。人もまたかくありたきもの。

9月13日(月)続き
列車の待ち時間を利用して、同行の皆さんを紹介しよう。服部等作先生(広島市立大学芸術学部)、菅澤茂先生(京都府教育委員会文化財保護課主査)、広島市立大学大学院博士課程で日本画を専攻する片桐大介さん。この旅行は科研費によるプロジェクトの一環で、代表者、つまりボスは服部先生である。

全体をエスコートするラマチャンドラさんについては昨日紹介した。あとはシムラから現地ガイド、ドライバー、ドライバー助手が加わることになる。つまり旅行者4人に対してスタッフも同数の4人というわけだが、これが決して多すぎないことは旅行してみてつくづく納得した。
一行

二人

7時40分、定刻通り発車。インドの列車はいきなりゴトンと動き出す。乗り込んだのはカルカー行き急行の一等車である。そのサービスが、花はくれる、ミネラルウォーターは付いている、新聞は配る、お茶は飲ませる、飴やビスケットは付いてくる、そうして一通り終わったと思ったら、本格的なご飯が出てくる、という至れり尽くせりのものだった。もちろんこれらは全部切符代に含まれている。さすがに鉄道大国インドだけのことはある。

車内風景2
*ワゴンサービス。コスチュームがまたなかなかだ。


フィールドワークの記録

落ちつくなあ

2010年09月26日
クンジャン峠
*クンジャン峠(4551m)への道からスピティ川源流を眺め下ろす。

昨日の昼過ぎ、関空に戻った。予定通りの帰国だが、途中ではひやりとする場面もいくつかあった。特にタボで雨、カザで雪に見舞われた時には心配したが、一日の遅延もなく日程がこなせたのは現地スタッフの献身的な働きのおかげだ。

デリー空港
*夜のデリー国際空港。何たって明るい。昔のインドの空港は暗くて、外に出るのが怖いくらいだったが。

9月12日(日)
現地時間の夜9時過ぎ、デリーのインディラ・ガンディー空港の今年7月に開業したばかりの国際線ターミナルに到着し、エスコートのラマチャンドラさんの出迎えを受ける。

ラマチャンドラさんはビハール州ブッダガヤーのスジャータ村出身で、インド仏跡専門のガイドだ。後で聞いたら、写真家の松本栄一さんの知り合いだった。専用車で空港近くのホテルに直行する。

9月13日(月)
5時にウェイクアップ・コールで起床。朝食後ニューデリー駅へ。朝の雑踏の中でインドを思い切り呼吸する。ああ、なんだかすごく落ち着くなあ。
ニューデリー駅
フィールドワークの記録

明日、出発

2010年09月11日
まだ、日本にいる。フライトは明日の午後だから当然である。

昨日の夕方、休憩のため曼荼羅荘に戻った際に、必要なものをトランクに詰め込んだ。

ジャケットと帽子はもう20年以上愛用している。ジャケットは、最初にチベットに行く前に神保町で買った米軍仕様のもので、大分くたびれてはいるが、私に似て根が丈夫だから、いまだに寒いところに行くときには必ず持っていく。帽子も同じ時からのもの。この二つに水筒を加えた三点セットとは、ものもちの悪い私にしては珍しく長いつきあいだ。これからも、彼らといっしょに、ゆけるところまでゆく。

3日ほど前に、同行するS氏と電話で話していて、氏が、向こうは寒いんですかね、と聞くので、シムラまでは暑く、それからは寒いでしょう、と答えた。まず、そんなところである。

今回は拙編の『河口慧海日記』(講談社学術文庫)を携帯することにした。荷物はできるだけ軽い方がいいし、私は車内や機内ではあまり本を読んだりはしないのだが、これは秋口からの仕事のアイドリングのためである。それに海抜4000?で読むには適当な本だ。

午後に御山を下り、お店を三軒ほど梯子すれば、準備完了だ。

それでは、また。

ある大学教員の日常茶飯

インドに出かけてしばらく留守にします

2010年09月09日
空はよく晴れているが、やや涼しくて過ごしやすい1日である。

昨夜は12時過ぎに床に就いたのに、それからが長かった。ほとんど寝付けないのである。インド行きが迫っているのに準備が思うようにできない、出発前に済ませておくべき仕事が進まない、などのことがプレッシャーとなっているのだろう。

仕方がないから、寝たり起きたりを繰り返し、部屋の片付けをしたり、本を読んだりした。

とにかく、真夜中から夜明け前にかけて考えることにろくなことなし、が私の結論である。


というわけで、12日から25日までインドに出かけます。

目的地はヒマーチャル・プラデーシュ州のスピティ地方。目的は、タボ寺を中心としたチベット仏教の諸寺の調査。一行は日本人4人。シムラやタボは一度行ってみたかった。その他にもレーリヒ記念館やチャンディガールの美術館見学など毎度おなじみの盛りだくさんの内容。

でかけてしまえばこっちのものだが、それまでが・・・


ある大学教員の日常茶飯

トルコ記念館、再び

2010年09月06日
8月6日に続いて串本・大島のトルコ記念館を訪ねた。

先週串本町役場から連絡があって、月曜日の1時半からNHKの撮影があるので一緒に見たらどうか、という。
インドへの出発を控えているので相当つらくはあったが、せっかくのチャンスなので出かけることにしたのである。

串本はやはり遠かった。それに一ヵ月前に劣らぬかんかん照りであった。
30分ほど遅れていったので、すでに撮影が始まっていた。町役場のS野さんとNHK和歌山のディレクター氏に挨拶。現場に行ってみて、S野さんがいっしょにどうか、と言ったわけがよく分かった。
ガラスケースの陳列品がものすごく出しにくい構造になっているのだ。とにかく役場の人たちの協力で、オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミト二世から贈られた勲章とメダルなどの撮影ができて、大満足だった。

調査を終えて、岬の突端にある灯台を訪ねる。
その手前に、最近移築されたトルコ共和国建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルクの騎馬像がある。

ケマル・アタチュルク像

アタチュルクの言葉
台座にはめこまれたアタチュルクの言葉「国に平和を 世界に平和を」
ぼーっと映っているのは私。

樫野崎灯台

今の樫野崎灯台。樫野崎灯台は、スコットランド人技師リチャード・ブラントンらによって建てられたわがくに初の石造洋式灯台で、明治3年に点灯業務を開始している。右手前の建物は老朽化が激しいため改築されるとのことだが、1890年9月の嵐の晩に遭難したエルトゥールル号の乗組員が最初に助けを求めたのはここらしい。

あんまり暑かったのでまたトルコ・アイスを食べた。お店のトルコ人とちょっとしゃべったら、彼も退屈していたようで、民族問題について熱心に論じた。
彼「センセーはひどいよ」
私「うん、先生は酷い」
彼「センセーになったら何もかもめちゃくちゃになる」
私「ん?・・・・あ、それセンセーじゃなくて、センソー(戦争)というんだけど、確かにめちゃくちゃだよね」

仕事抜きでいっぺんイスタンブルに遊びに行きたいものだ。

S野さんも一度行って、トルコ人が親日的なのに感激したという。そういう両国関係の始まりが120年前にこの岬の直下で起こった海難事故にあるというわけだ。

帰路、椿温泉のはなの湯で一風呂浴びて疲れを癒した。
研究ノート

夢枕獏さんの手紙

2010年09月01日
各種の仕事をこなしながら、相変わらず袋ファイルでの資料整理を続けている。

昨日は夢枕獏さんからもらった手紙を久しぶりで読んだ。この手紙は、夢枕さんが私に下さった河口慧海の講演録のコピーに同封されていたものだ。その中に、

  仙台は、楽しかったですね。ほんとに「学問」はいいですね。

とある。夢枕さんがこう書かかれた訳は次のようである。

2004年の1月から2月にかけて、仙台市博物館で、東北大学総合学術博物館主催による「河口慧海コレクション」の展示と、それに合わせた一連のチベット講演会が行われた。私は一度はこの講演会で話をさせていただき、数週間してもう一度、今度は夢枕獏さんの講演の後のパネルディスカッションの参加者として再び仙台に呼んでいただいた。

夢枕さんの講演もよかったが、その後の東一番町の蕎麦屋を借り切った懇親会もよかった。そこには当時の東北大学総合学術博物館長の鈴木三男先生を始めとする博物館の先生方や若手の研究者たち、さらには夢枕さんの知り合いの武道家たちも出席していた。宴もたけなわとなり、各自が自己紹介をかねて一言話をすることになった。

その時のことを、夢枕さんが『文藝春秋』2004年5月号に書かれたエッセイ「東北でパトスの宴」から引用させていただく。


「今、こういう研究をしています」
「古武術は凄いですよ」
 ひとりひとりが、自己紹介をかねて、自分の専門分野の話をし、ぼくも書きかけの物語の話をした。すると、その度に別の専門分野の方から声がかかり、質問が飛ぶ。談論風発。
 たいへんによい宴であった。
 途中、奥山さんが、しみじみと叫んだ。
「学問ていいなあ」
 日々、雑事で時間が埋められていくような生活をしていたぼくも、この日は多くの方から熱気をいただいた。
 

 夢枕さんは、その頃出ておられたテレビのコマーシャルで見る通りの、すばらしく感じのいい人だった。それにとても気を遣われる方であることは、上の文章からも分かる。
 夢枕さんには、『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』全4巻(徳間書店、2004年)という大長編伝奇小説もあり、ご自身高野山のファンだとも言っておられた。
あれから結構時間が経ったが、機会があれば、一度高野山に来て頂きたいと今も思っている。
ある大学教員の日常茶飯
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