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カグベニの村

2010年06月08日
ムスタン・カグベニ 1998年6月
*1998年6月 ネパール・ダウラギリ県ムスタン郡カグベニ村

カグベニはカリ・ガンダキ河とゾン・チュの合流点に位置する。一言でいえば、桃源郷といったたたずまいの村だ。村の中心にはゴンパ(寺院)とゾン(城塞)がある。
かつてこの村には王がいて、ゾンからこの地区を治めていた。つまりこの村一つが一つの王国だったわけである。
かつてヒマラヤからチベット高原にかけての広大な地域には、このような小王国が多数点在していた。

カグベニ王家の末裔は、今はゾンの近くでレッドハウスというトレッカー相手の宿屋を営んでいる。当主のペマドルカル・タクリは、「ツァンパ食うか」が口癖のきっぷのいい女将さんだ。

1998年の最初のムスタン旅行では、まずヘリコプターで上流の中心都市ローモンタンに行き、そこから馬で飛行場のあるジョムソンまで下った。断崖に付けられた「夏の道」を慣れない馬で上り下りする、肉体的にはかなりきつい旅だった。
カグベニを見下ろした時、ずいぶんほっとしたことを覚えている。
フィールドワークの記録

せんとくんとは何ものか

2010年06月07日
電車の中づり広告でせんとくんを見た。前から見ていたが、これほどまじまじと見たのは初めてであった。ご存じ平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターである。

せんとくんが発表された時のブーイングのすごさは記憶に新しい。「気持ちわるい」「仏様への冒涜だ」等々。これに対抗してまんとくん、なーむくんなるキャラクターまで作られた。

しかし、この騒動がワイドショーなどで取り上げられたおかげで、せんとくんは一躍全国区に。その宣伝効果は15億円分とも試算されている。結果的には「うまくやった」わけである。

さて、まずこれはいわゆる「ゆるキャラ」ではない。
隅々まで神経が行き届いており、彦根のひこニャンをはじめとする全国のゆるキャラ連とは明らかに一線を画している。

尊格分類から言うと童子である。僧形(そうぎょう)であることがちょっとひっかかるが、不動明王に随従する八大童子の中にも清浄比丘童子がいるから、これは問題なしとしよう。

問題はやはり鹿の角である。これはもちろん奈良公園に群れている春日大社のお使いたちのそれをかたどったものだが、お地蔵さんのような頭に装着されると、やはり違和感は禁じえない。要するに、角が邪魔して今一つかわいくないのである。

頭の中で角を取ってみる。だめだ。角と体が一体として形成されているから、角だけ取るとバランスが崩れてしまう。小鹿の小さな角に替えてみる。これはもっとだめだ。子鬼にしか見えない。

待てよ。ヒンドゥー教には象の頭をした神ガネーシャがいて、とても人気があるぞ。日本でも数年前に「夢をかなえるゾウ」がヒットした。象頭人身があるなら、鹿頭人身があってもおかしくはない。これだ。顔までかわいい鹿にしてしまえばいいじゃないか。

とここまで考えて、はたと気が付いた。何のことはない。これじゃ地デジカだ。

私は宗教図像をこんな風に使うのはけしからん、と言いたいわけではない。ただ宗教図像にはすべて意味があるから、使う場合には慎重であってほしいとは思っている。だから例えば、あるバラエティー番組のスタジオに大きな如意輪観音像がオブジェ代わりにすえられているのを見るたびに、ひやりとする。そしてこれを考案した人に、どういうつもりなのか聞いてみたいと思う。悪気はないのだろうが、こういうことに鈍感であるということも場合によっては罪だ。
研究ノート

地上最大の谷

2010年06月06日
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*1998年6月 ネパール・ダウラギリ県ムスタン郡

ネパール中西部のカリ・ガンダキ峡谷。地上最大の谷間と言われている。両側にダウラギリとアンナプルナという8千メートル級の大山塊がそびえたっており、川床の標高は千数百メートルしかない。差し引き7千メートルがこの谷の深さだとすれば、アメリカのグランドキャニオンを二つ重ねてもまだ余裕があるということになる。

この写真はヘリコプターから撮った。同行するはずだった松井亮さんが来れなくなり、私はカトマンズで旅行業を営むRさん、同じくレストランを経営するTさんと一緒にカトマンズ空港から軍のヘリに乗った。
ヘリはよく落ちる、という頭があったので、決していい気分ではなかったが、何とか無事にローモンタンまで飛んでくれた。

季節がら、まだ水量の少ないカリ・ガンダキ河が、広い川床を枝分かれと合流をくりかえしながら流れている。

河口慧海が白馬にまたがってこの谷にやってきたのは1899年(明治32年)5月。ヒマラヤではまだ早春だから、慧海は川床を通る冬の道を進んだに違いない。






フィールドワークの記録

黄河源流地帯

2010年06月04日
青海省黄河源流 2005年8月
*2005年8月 青海省黄河源流地帯

わけあって写真を整理していたら、いろいろ出てきた。今後随時紹介してゆきたい。
この写真はザーリン湖とオーリン湖の間の丘の上から撮った。ブルーポピーの花咲く8月の風景である。この丘の頂上には黄河源流の碑がある。ただし黄河の源泉は、この彼方の星宿海のさらに向こうにある。

1986年の東北大学チベット学術登山隊で出かけた時には、この手前のマドォで班長以下高山病に罹り、比較的元気なK野さんと私だけが分遣隊として、この辺りを目指したが、道が悪く時間がかかりすぎるので、ザーリン湖から引き返さざるを得なかった。4月のことで湖は分厚い氷に覆われていた。たまに見かける遊牧民のテントからは、自動車に驚いた番犬たちが体当たりするような勢いで走ってきた。

その後でチベットに入ったのだが、この時ほど荒涼として恐ろしい風景に出くわすことはなかった。

フィールドワークの記録

鳥羽伏見の戦い

2010年06月03日
最近は寝しなに野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』(中公文庫)を読んでいる。

睡眠導入剤代わりに読むものだから、妙に肩が凝るものや、専門に近くて読んでいるうちに目が冴えてくるものではだめだ。その点、これは効果抜群の本である。といって退屈なわけではない。いや、その逆で、なかなかおもしろい。

鳥羽伏見の戦いといえば、子供の頃に仕入れた知識で、刀槍で武装した旧幕府軍が、薩長軍の新式の銃と大砲の前に敗れ去った戦いというイメージからなかなか抜け出せなかったが、この本のお陰でそれをかなり訂正できた。

旧幕府軍のフランス伝習兵が高性能のシャスポー銃を装備していたかどうかについては論争があるらしく、著者はその論証に力を注いでいるが、私にとって重要なのは、薩長軍の圧勝に終わったこの戦いも、やってみるまではどっちに転ぶか分からなかったというスリリングな展開である。

もしも旧幕府軍総司令官の徳川慶喜に陣頭指揮を執るほどの勇気があったならば、もしも旧幕府軍が大軍を利用して多方面から同時に京をめざしていたならば、そしてもしも前線の司令官が最初から一戦に及ぶことを覚悟し、いつでも発砲できるように銃に弾を込める命令さえしていたならば、戦局は大分変っていたに違いない。歴史はifの連続だという著者のことばは納得できるものである。

つまり「下手をすれば」旧幕府軍が勝っていたかもしれないのである。

私はそれで一向に構わないのだが、もしもそうなったら、戊辰戦争の規模は何倍にもなって日本中が火の海になり、英仏の介入さえ許していたかもしれないから、結果はこれでよかったのかもしれない。


読書案内

ヴィータ先生の講演会

2010年06月01日
来る7月16日(金)、17日(土)の密教研究会学術大会での公開講演会が以下のように決まったのでお知らせする。

「世界の中の近代仏教―明治初期の洋行から見る宗教問題―」

講師:シルヴィオ・ヴィータ(イタリア国立東方学研究所所長)
日時:7月16日(金)13:30より
場所:高野山大学

誰でも聞けます。予約不要。

公開講演趣旨は次の通り:

概ね明治維新以降、近代化(西欧化)の進行に伴って日本社会が大きく変貌する中で、仏教もまた変化を余儀なくされてきた。現代の仏教が抱える諸問題の直接のルーツはまさにここにある。近年、近代仏教をキーワードにした研究会、シンポジウムなどが盛んなのは、仏教学が現代的な問題に向き合いはじめた一つのあらわれということができる。近代仏教の持つさまざまな側面の検討を通じて、われわれの足場を見つめ直す。

ヴィータ先生は京都にあるイタリア国立東方学研究所所長であり、ローマ大学の教授でもある。
5年近く前からお付き合いいただいているが、私は先生を「飲み友だち」と考えている。楽しい会になりそうだ。
高野山大学の力
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