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食べずに生きている女性―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』?

2010年03月31日
当時、欧米はオカルト・ブームであった。法龍もこれに興味を持った。彼には、これを真言宗のために役立てられないか、という思いもあったようだ。

ところが熊楠はこれには大反対で、そんな「腐ったもの」を相手にしちゃいけない、と釘を刺したり、いわゆる「心霊写真」がどうしてできるかを科学的に説明したりしている。

熊楠は、こういうものをはなから受け付けなかったのではなく、実は大いに興味があり、いろいろ試してみた結果、あほらしい、となったようである。確かに、神秘主義は麻疹のようなものかもしれない。

熊楠が法龍に贈ったアン・ムーア(1761-1813)の伝記も、この手の出版物である。アンは「食事せずに生きている」として一時有名になったイギリス女性。まあ、詐欺ですな。ところがこの伝記、1811年にボストンで出版された小冊子で、アンが食べずに生きていることを事実として書いた、今でいう「トンデモ本」である。熊楠はこれをフィラデルフィアの「オカルト専門店」から1ドル75セントで買ったというから、彼もかなりのオタクだったのである。

おもしろいのは、法龍がこれを東京にいる弟子の長谷宝秀に送って翻訳させ、その年の9月から真言宗の雑誌『伝灯』に「アーン、ムーア絶食奇譚」として連載させたことである。この本について長谷は「奇代の珍談にて小生も大いに感心いたし候」と述べている。密教と西洋の神秘思想、オカルト、さらにそれに類する偽物たちがごちゃまぜになっていた時代の雰囲気がよく伝わってくる。

その後、この本の行方は分からない。現存するとすれば、かなりの稀覯本だと思うのだが。

研究ノート

アーノルドの妻―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月29日
サー・エドウィン・アーノルド(1832-1904)は、釈尊を主人公にした叙事詩「アジアの光」の作者として知られる詩人ジャーナリストである。彼の三番目の妻は、黒川玉という仙台出身の女性であった。これが熊楠のいう「ブラックリヴェルのお玉嬢」である。

法龍は1893年10月29日にケンジントンの自宅にアーノルドを訪問した折に玉にも会っている。アーノルドは仏教徒によるブッダガヤー回復運動に先鞭を着けた人物であり、日本に長期滞在したこともあったから、日本仏教界でも名士として知られていた。

この時、法龍は玉がまさに女主人として振舞うのを目の当たりにして、ちょっと驚いたようである。当時ロンドンの日本人社会は今とは比較にならないほど小さかった。その中で玉は、何かと話題になる人物であったと思われる。

1897年、広島出身の高橋謹一という男が、熊楠の紹介で、一時アーノルド邸の食客となった。ところがこの男、大飯ぐらいの大酒飲みである上に、西洋式のマナーなど少しも気にかけず、かえってゴリラの真似をして下女たちを怖がらせた挙句、玉と大喧嘩してアーノルド邸を放り出される。その時に玉に向かって吐いた悪態を熊楠は次のように記録している。

「汝はわれと同国人なるに、色をもって外人の妻となったるを鼻にかけ、万里の孤客たるわれを軽んずるより下女までも悪態を尽す」(平凡社版『南方熊楠全集』第1巻、p.555)

まったくどうしようもない奴、で話はしまいなのだが、このセリフには、富豪の男爵夫人となったこの同胞女性に対する熊楠の、さらに言えばロンドン在住の日本人たちの一種屈折した感情を読み取ることもできるように思われる。
研究ノート

K-GURS公開講演会など

2010年03月28日
土曜日、京都の仏教大学でK-GURSの公開講演会があった。講師は僧侶で作家の玄侑宗久師である。

玄侑師は押しも押されもせぬ作家だから、作家として語れば、誰しも耳を傾けるのは分かっているのに、それをほとんどしないで、「禅と諸宗教における『わたし』の成り立ち」などというとてつもないテーマに挑んでいる姿が印象に残った。

同志社大学の森孝一先生のコメントもすばらしかった。

帰宅してポンサクレックvs.亀田戦をテレビ観戦。ポンサクレックの順当勝ちにむしろほっとした。亀田の試合は何が起きるか分からない。終盤、ポイントで負けている亀田が攻勢に出られなかったのは、やはりポンサクレックの巧さなのだろう。これでもしも亀田が攻勢に出ていたら、判定は微妙になり、まだぞろもめたのではないか。どんな形でもとにかく話題になればよい、というのは違うと思う。

今朝の新聞に、6年前スパーリングをした時の亀田の態度が悪く、外国人でなければ殴っていたところだが、今日はマナーがよかった、という主旨のポンサクレックの談話が載った。

これが正論であり、教育的指導というものだ。プロなんやから、あの位でええやないか、というのは間違っている。モハメッド・アリなどと比してそう言うのだろうが、あの不作法な態度は、単なる未熟さの顕われとしか思えない。

大仏開眼 001
*NHK大阪前に現れた大仏。

今日の午前中、「仕方がないから」、大阪歴史博物館に「チベット展」を見に行った。予想以上にいいものが来ており、特にカシミール・ブロンズや承徳からの文物がよかった。金銅仏の中には、2005年に中央チベットのミンドゥリン寺で見たものが数体あった。見事な成就者たちの像である。
ある大学教員の日常茶飯

望月と「耶蘇坊主」の論争―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月26日
望月小太郎(1865-1927)は衆議院議員などを務めた政治家である。出身は甲斐の身延で、慶応義塾を経てイギリスに留学し、ロンドン大学で経済史を、法学院ミドルテンプルで法律学を学んだ。

法龍の日記によると、彼は1893年11月2日に法龍の宿(ブラウン方)を訪ねて、法龍や居合わせた熊楠と仏教を論じている。熊楠ともある程度親しかったと見られる。

その望月が「耶蘇坊主」と論争した。熊楠は、その2週間ばかり後の1894年5月13日にこのことを聞き、2日後に法龍宛の書翰(『高山寺蔵 南方熊楠書翰』17番)に書いている。

それによれば、以前東京の英国公使館付きアーチディーコン(archdeacon)を務めていた某が、日本学会で、日本は近時おいおい悪くなり、政治も宗教も何もかも退歩したので、欧州各国が連合してこれを救ってやるべきだ、という主旨の演説をした。望月はこれに腹を立てて反論し、押し問答を繰り返して、会場が騒然となったという。

これについて熊楠は次のようにコメントしている。

「日本の政治がどうならうがかうならうが、宗教が何であらうが、欧州人に世話を受くべきに非ず。然るを名義ただ日本に付ての学問を研究するとして立たる学会に出で、かかることを日本人の面前にいひ、又数百の洋人にも聴しむるとはあまりのことに候はずや。小生は当時望月氏一人のみ議論をしかけて、他の諸日本人が何もいはずにつくねんとして居りしといふを聞て頗る懊悩致し候。(中略)小生は望月氏の志をかなしみ、他の日本人の学者として当地に居り、其夜出席したる輩を犬の如きものと見下げ候。(尤も小生は右の会に一向関係なければ、幸ひに当夜出席してつかみ合ひなどやることなかりしは一同に取ての大幸といふべし)」

もしも熊楠がこの会に出ていたらどうなったかの詮索はさておき、こういうことは昔からたくさんあったし、今もあるように思う。こういう場面に行きあたった時に、日本の立場をちゃんと説明できる位の見識と語学力は持っておくべきだと、わが身を振り返って思う。

ドイツ留学中の森鴎外が、ナウマンの日本批判演説に腹を立てて決闘を申し込もうとした話(どの程度事実なのかは知らないが)を連想させる出来事である。
研究ノート

和尚をおだてて1ポンド?―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月25日
1894年7月に日清戦争がはじまった。熊楠も戦争報道には一喜一憂していたようで、同年9月2日付の法龍への手紙(『高山寺蔵 南方熊楠書翰』20番)には、一応、「戦争は全く吾邦の捷利の様相聞え、甚欣び居申候」と書いているが、これに続けて、イギリスでの報道には虚報が多く、戦闘の結果を逆に伝えるものさえあることを報告している。

9月26日、在英日本人会(会頭・中井芳楠)による祝勝会が開かれ、あわせて表誠醵金が行なわれた。お国の戦を助けるための募金活動である。ちょうど平壌(ピョンヤン)の戦いと黄海海戦が日本の勝利に終わったばかりの時であった。

熊楠もなけなしの1ポンドを寄付している。実は、彼の兄が日清戦争勃発の影響による株価の暴落で大損害を被り、「一族大迷惑」(同21番)という事態に立ちいたっていた。

同年10月13日の熊楠の日記には、醵金の明細表が書き写されている。それによれば寄付者は78名、寄付金は199ポンド7シリング、日本円にして1805円43銭というから、かなりまとまった額である。

ところが、この寄付について、熊楠は後にいわゆる「ロンドン私記」の中で、中井芳楠を「逆賊」と呼んで次のように糾弾している。
「(中井は)日清の戦争は自分一人でする様な大言を吐き、此貧乏な和尚(熊楠の自称)をおだてて大枚一ポンド率先して恤兵部へ出させ、(中略)吾れ吾れが汗水で貯へた金三千円斗り、為替にして腎虚大臣陸奥宗光え贈り、無論為替料は着服し、扨政府より送り来りし銀盃は、本人住所不明などいふてごまかし、林権介と内謀して、つぶしにしてシチーの猶太人に売り、其金で蕎麦二膳づつ食ひしこと、予たしかに之を知れり」(長谷川興蔵・武内善信校訂『南方熊楠 珍事評論』平凡社、pp.174-5)

この文書、全体としては実におもしろいのだが、中にはこういう冗談ではすまされない内容も含まれている。あまつさえ、熊楠はこの文書を回覧用に書いたから、中井もこれを読んだ可能性が高い。中井は熊楠と同じ和歌山城下の出身で、ロンドンに来た熊楠を何くれとなく世話してくれた大恩人である。人間関係における、熊楠の手に負えない面を感じさせる一件である。
 
研究ノート

孫文との交友―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月23日
ロンドンでの熊楠と中国革命の父・孫文との交友はよく知られている。

1897年6月19日、二人はキュー王立植物園に遊びに行き、帰りにアールズ・コートの「楽園」(遊園地のことだろう)に立ちよった。熊楠によると、それは孫文の希望で、彼はしきりに迷路(メイズ)に入りたがる。熊楠は、そんなことをするよりも一杯やろう、と主張したが、孫文に押し切られて、二人は中に入った。ところが2時間経っても中心部に着くことができない。そればかりか外にも出られない。孫文は、どこぞの垣根を破って行こうと言い出した。その時、熊楠先生、あわてずさわがず、彼を制し、こっちを見て笑っている警備員にチップを渡して出口まで案内させたという。

熊楠がこの話を法龍宛の書翰(『高山寺蔵 南方熊楠書翰』第26番)に図解入りで書いたのは、5年後の1902年のことである。

アールズ・コートはロンドン中心部の西に位置する交通の拠点である。そんなところに遊園地があったのだろうか、まさかキュー植物園のメイズと混同しているのでは? こう思った私が、孫文記念館の武上氏に聞いてみると、氏は、アールズ・コートには1895年に開かれたオリエンタル博覧会の跡地があり、博覧会の呼び物だった大観覧車が残っていたはずだと教えてくれた。観覧車がある位なら、メイズがあってもおかしくはなかろう…妙な理屈だが、この位にしておくことにした。ただし、氏によれば、孫文は垣根を破っちゃうような人ではないとのこと。念のため。
2010ロンドン・パリ 451
*地下鉄アールズ・コート駅前のビル。
研究ノート

チケット紛失―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月22日
海外旅行の最中にこれから必要なチケットが消えてなくなっていたら、誰だって頭を抱えるに違いない。法龍は、真言僧としては史上初となる地球一周の旅の途中でこの災厄に見舞われた。

気付いたのはパリ滞在中の11月末である。パリで彼を世話してくれていた上田万年(かずとし)が彼の切符を改めて、地中海から先の船切符の紛失に気付いた。
慌てた法龍は、ロンドンの熊楠に手紙を書いたが、それはあまり要領を得ないものだったらしい。それでも熊楠は、ブラウンに手紙で、法龍が使っていた部屋に忘れ物がないかどうか問い合わせた。
実は紛失物はもう一つあった。輪宝(りんぼう)という密教法具である。これはブラウン方で発見され、ロンドンとパリの日本公使館を経由して、12月末に法龍に届けられた。しかし、肝心の切符の方は、ついに出てこなかった。

法龍は、フランスからイタリアに行き、おそらくはブリンディジからインド行きの船に乗る予定で、ブッキングも済ませていたらしい。それがこの紛失事件でおじゃんになってしまった。法龍は、上田やギメ博物館通訳の河村四郎の助けを受けながら、トーマス・クックのパリ支店に掛け合ったらしい。しかし、結局イタリア行きはあきらめて、マルセイユからアジア行きの船に乗っている。

不運としか言いようがないが、こういうことに無頓着そうな法龍にも問題があったと思われる。この事件は、『高山寺蔵 南方熊楠書翰』に収められた第2、3書翰の主要な話題であり、その後の書翰にもちょくちょく取り上げられている。
研究ノート

ブラウン方 ―『高山寺蔵 南方熊楠書翰』余録?

2010年03月21日
2010ロンドン・パリ 037
*寒々としたリージェンツ・パークの池

土宜法龍がロンドンに滞在したのは、1893年10月18日から11月3日までの2週間余りの間である。彼は、ロンドンに着いた当日は、ノーサンバーランド・アヴェニューのホテル・ヴィクトリアに泊まったが、翌日からはリージェンツ・パークの東南隅にあるブラウンという家(?)に部屋を借りている。この日、法龍と通訳の野村洋三はリージェンツ・パーク北側のアヴェニュー・ロードにブラヴァツキー・ロッジ(神智学協会欧州本部)を訪ね、アニー・ベザントらに会っているから、ブラウン方に移ったのは、神智学協会員の紹介があってのことだったかもしれない。

熊楠が法龍の部屋に3連泊したのは、ブラウン方である。

松居先生とその辺りを歩いてみた。もとよりその家を見つけ出すことはできなかったが、その場の雰囲気が分かって満足した。

ロンドン滞在中の法龍は、ロンドンとその近郊の各所を訪れるのにとても忙しかったようである。だが、何度かはリージェンツ・パークにも足を運んことと思われる。







研究ノート

高山寺に本を届ける

2010年03月20日
JR京都駅で神田君と落ちあい、バスで栂ノ尾に向かった。高山寺にできたての『高山寺蔵 南方熊楠書翰』を届けるためだ。
この前同寺を訪れたのは2008年7月のこと。出版企画を説明し許可をもらうのが目的だった。それから数えても1年半以上。神田君が同寺に法龍の墓参りに行ったのがきっかけで、高山寺資料が発見されてから、すでに5年半もの歳月が流れている。

庫裏で山主の小川師と副住職の田村師にご挨拶、ご報告した後、石水院の縁側から眺めた春の景色がすばらしかった。

快晴。

夕方、梅田第二ビルの大学コンソーシアムで開かれた熊楠関西に2年ぶりで出席。田辺で企画展を準備中の田村さんが、9時ぎりぎりになって駆けつけた。そのあと、田村さん、和歌山市博のT内先生、神田君と、ビル地下の居酒屋で夕食替わりに一杯やりながら、編集中、質問攻めで散々悩ませたことなどを謝する。

これで本当の区切りが付いた。


今朝、ブログ拍手のコメント欄を見たら、仙台のパンダからとんでもない連絡が入っている。思わず頭を抱える。
次、次だよ!
読書案内

結構よく書けている

2010年03月18日
年度末の校務もだいたい終りで、今日は原稿を書くぞ、と勇んで研究室に入ったが、座右に置いた本(『高山寺蔵 南方熊楠書翰』)についつい手が伸びて、午前中は読みふけってしまった。

私は自分の文章を読むのが嫌いではない。いや、むしろ好き、大好きである。だいいち、自分で書いたものだから、これはどういう意味かなどと悩まなくてすむ。

ただ、何年も前に書いたものが今よりもいいと気付いて落ち込むことも・・・ええいっ!昼飯も食べたことだし、妄念を払って、目の前のことに集中しよう。



ある大学教員の日常茶飯
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