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イチロー思考

2009年10月31日
今日から3日間、大学で山岳修験学会学術大会である。

研究室で仕事をしながら、ちょこちょこ顔を出す。実は今日、京都である研究会があって、私も出たかったのであるが、夜もおちおち眠れぬほど仕事がたまっているので、これはキャンセルせざるを得なかった。この大会に出るHさんが原稿の件でちょっと話があると言ってきたこともあるし。

それ、まだ一枚も書いていないんですけど・・・

ああ、空は青いが、気分はブルーだ。

こういう時は、あれ、あれです、やっぱり、イチローです。買ったばかりの『イチロー思考』という本をめくる。

「キツイときほど『これだからピンチは楽しくて仕方がない』と叫ぶ」とある。

この伝でいうと、私なぞ、毎朝これを叫ばなければならないが、なるほどちょっとは効きそうな気もする。

もっともこれはイチローの言葉じゃなくて、著者の児玉光雄せんせのまとめたものかもしれない。



ある大学教員の日常茶飯

寺族婦人会九州ブロック研修会

2009年10月27日
持続婦人会 013
*高野の秋は深い。

日曜から今日まで、2泊2日で高野山真言宗寺族婦人会九州ブロック研修会福岡大会にお呼ばれした。

日曜の夜10時に博多入りし、昨日はまる一日ホテルで研修に努め、今朝の9時には博多を発つという強行スケジュールで、他はどこも見られなかったが、私はこれまで福岡を訪れたことがなく、福岡を知らないのは我が人生の「汚点」だ、くらいに考えていたから、たいへんな感激であった。

寺族婦人会福岡支部のみなさんには行き届いたお世話をいただいた。おかげさまで、「仏像の見方、チベットの仏と日本の仏」と題する話を気持ちよくさせていただき、NHKアナウンサーの三上たつ次氏の講演「話し方で好感度アップ」を聴講して、話し方も以前に比べればいくらかましになり(?)、懇親会では、津軽三味線の熱演にいつもより余計に酒が回り、その勢いで、ひさびさに松田聖子の「赤いスイートピー」をこれまた気持ちよく歌わせていただいた。

それにしても九州の人は陽気でおもしろい。例えば、懇親会で司会をした妙齢の(?)ご婦人方が、キティーちゃんとウサギの着ぐるみで再登場しようなどと、だれが予想できただろうか。

吉原さん、田中さん、片桐さん+お母さんを始めとする大勢の方々、本当にお世話になりました。
ある大学教員の日常茶飯

腱鞘炎にかかってしまった

2009年10月23日
自覚したのは、グワハティで旅の疲れを休めていた最後の日である。
左手をひねると手首から肘の間に鈍い痛みを感じる。
ははん、これが腱鞘炎かと思い当たった。原因ははっきりしている。写真の撮りすぎである。中国とインドで足すと3500枚以上撮っている。しかも今回は重いレンズを使いっぱなしだった。

帰国して10日は、自然にまかせて治癒をまったが、よくならないので医者に行った。軽い腱鞘炎との診断で、以来湿布をして、だいじにしている。
私は左ききなので、やはり不便だ。重い本を動かすのも、資料をめくるのも億劫だ。おかげでノーリツの上がらないこと、おびただしい。

タワンへの旅では、自分の体力に改めて自信を持ったが、これは思わぬ落とし穴である。あまり無茶をしてはいけないという警告と受け止めている。

ただ思わぬ発見もあった。右手でハサミを使ってみたら、結構できるではないか!
まったく初めての経験ではないにせよ、ごく稀、おそらくは数十年ぶりのことである。
これは脳トレになるかもしれない。
ある大学教員の日常茶飯

アッサムの村の結婚式 タワンへの旅 最終回

2009年10月20日
山の中腹にあるハギャラ・ゴンパはこの辺りでは非常に古いゴンパと考えられている。ただご多分に漏れず、建物は何回も建て替えられたためか、昔日の面影は薄かった。
Arunachal 2009.9 1353

ついで小雨が降りだす中、タクルン・ゾンを訪れる。ゾンは地方を統括するための役所であり、要塞だった。今は廃墟に過ぎないが、この地域の歴史を考える上では貴重な遺跡だ。
今夕、ホテルでディナーミーティングがあると聞かされていたので、ゾンのある丘の上までかなりの急ぎ足で登る。私は遅れてもいいのだが、ゲストに重要な用件があるI 本さんは遅刻はまずいだろう。どうもこの旅は山歩きが多い。L氏は反対側に下りて、長いマニ・ウォ?ルを見ようと提案したが、蛇と蛭が多いと聞いて、来た道を戻ることにした。ゾンの側の小さなゴンパでL氏のお兄さんが堂守りをしていた。よく似た兄弟である。

ゾンからの帰り、L氏の実家で遅い昼食をいただく。時間が気になったが、せっかくの好意を無にすることはできない。さらにL氏は私たちを知り合いに紹介して回る。この村に日本人が来ることなど滅多にないに違いない。彼の顔を立てるのも必要なことである。

4時頃出発。ドライバーのオージットが飛ばしに飛ばして、6時30分にはホテルに着いていた。

しかし結局、本隊の到着が遅れたので、ディナーミーティングは8時を回ってから始まった。

翌日、ボンディラからグワハティに移動する。

最後の日にも一つすてきなことが待っていた。ある村で、グワハティ大の大学院生の結婚式があるので、一同うちそろって出席したのである。あいにくの雨模様だったが、前庭と裏庭の両方に屋根が架けられ、雨季の結婚式の用意は調っていた。
Arunachal 2009.9 1512
*祭壇に向かって祈りを捧げる花嫁、花婿、その他一同。花嫁は保険会社の支店長だそうな。まるぽちゃの典型的なアッサム美人だが、きょうび、顔はまあ伏せておいた方が無難でしょう。
Arunachal 2009.9 1517
*来客に振る舞うために、文字通り千人分の食事が用意されている。
私たちは飛行機の時間があるので、早めに食べさせてもらった。ご祝儀は、みんなで出し合い、まとまった額を渡した。

夕方、コルカタ空港に着いた。ちょうどドゥルガー・プージャーの季節で、空港は混み合っている。Arunachal 2009.9 1556
*手前はタクシー・ドライバーたちと料金をめぐってもめるアンドーさん。コルカタは生き馬の目を抜くような大都会だ。その後ろに「コルカタへようこそ」の看板が見えるのが皮肉である。

タクシーでシェーラズ・ゲストハウスに行ったが、これは食事と休憩のためで、泊まるためではない。夜中には再び空港に戻る。国際線もずいぶん混んでいる。この時期に休みを取って、東南アジアに遊びに行くコルカタ人は少なくないようだ。

バンコクの空港で土産を買い、例によって、マニラ経由で関空に着いたのは、9月24日の夜であった。
私以外はみんな家が遠いので、すぐに解散。空港から泉ヶ丘行きのリムジンバスに一人乗り込む。客は少ない。急に寂しく、またほっとした気分になって、長かったこの一ヵ月を振り返りながら、バスに揺られた。



フィールドワークの記録

カラクタン訪問 タワンへの旅(9)

2009年10月18日
 翌日は午前中、ディラン近郊のナムシューに行って聞き取りを行なう。
 たまたま通りかかった家で、殻竿で麦を打っているのを見たカナック。自分もやってみようとするが、
Arunachal 2009.9 1238
あれ!これ結構むずかしい。
こうやるんだ、と孫を背負ったお爺さんが見本を見せる。これにはカナックもたじたじだ。連続写真でどうぞ。
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Arunachal 2009.9 1253

Arunachal 2009.9 1258

夕方、本隊と別れ、一足先にボンディラに向かう。ボンディラで所用のできたI本さんも一緒である。暗くなってからボンディラに着き、事務所にW氏を訪ねて打ち合わせをしてから、ゴンパ・ホテルに泊まった。

 翌朝、L氏の案内で彼の故郷であるカラクタン地区のハギャラ・ゴンパを見にでかけた。途中、ルパで朝食を取る。ルパから次の村シェルガオンにかけての一帯には、シェルドゥクペンという少数民族が住んでいる。彼らもチベット仏教徒だ。
ボンディラからゴンパまでは自動車で2時間半とのことだったが、途中、あちこちで時間を取ったので、L氏の村モーシンに着いたのは昼過ぎだった。

 Arunachal 2009.9 1317
*祈祷旗が爽やかな風にはためいている。


フィールドワークの記録

引き上げ タワンへの旅(8)

2009年10月17日
 真夜中にトタン屋根を激しく打つ雨音に起こされた。タワンとディランの間の道路は危ない箇所が多い。今は雨季の終わりの時期で、土砂崩れの心配は少ないとは言われているが、どこか一カ所でも崩れたら、数日の遅延は覚悟しなければならない。一番いやなのは、飛行機に乗り遅れることだ。
 一人で考えていると余計な心配が募るものだが、あとでIさんに聞くと、彼女も、いつか土砂崩れに巻き込まれるのではないか、という危惧は持っているという話だった。

 どうせ今日は昼にタワンを去る予定だが、早めに出発した方が利口かもしれない。
 ところが朝になってカナックに相談すると、大丈夫ですよ、とのんびり構えている。それじゃ、おまえを信じようということで、午前中は予定通り、ビガール・ゴンパに行き、一度タワンに戻って宿代を精算してから、タワンを出た。
 途中、S村に寄り、たまたま出会った村長に話を聞けたのが意外な収穫だった。

 あとは小雨の中一目散にセ・ラ峠を目指す。昨夜からの雨で、まるで山全体から水が噴き出しているようである。
Arunachal 2009.9 1099
*道ばたにサルを見かけた。カメラに驚いたのか、歯をむいて威嚇している。


Arunachal 2009.9 1108
*峠のヤクたち。標高4000を越える峠で氷雨の降る中、平気のへいざでブーブーいいながら餌を探している。

 無事に峠を越えて、雲海を見下ろした時には、もう大丈夫と胸をなで下ろした。Arunachal 2009.9 1122
*ディラン側の眺め。左下の斜面にもつれた糸のように走っているのが街道。

 夕方ディランに着く。まずディラン・リゾートを訪ねたが、メンバーはだれもいない。そこで丘の上のホテルに行って、チェックインし、しばし休憩してから、もういちど町まで戻ったこところで、本隊付のガイドのP氏に出会った。なんでも、さっき自動車でディランを通ったのを、L氏が目撃していて、オクヤマはいったいどこに行ったのか、と探していたというのである。L氏はカラクタンのモンパ族だが、確かにひどく目がよさそうだ。
 一緒にリゾートに行くと、もうみんな戻っている。別れてほんの数日なのに、ひどく懐かしい気がした。
フィールドワークの記録

鉄鎖の吊り橋 タワンへの旅(7)

2009年10月15日
翌日9時、M野さんと車二台を連ねて、チャクサムに向かった。チャクサムとは鉄の橋の意である。そこにはタントンギェルポが架けた吊り橋が残っているという。これは確かめる価値がありそうだ。タントンギェルポはチベットの文化英雄の一人で、あちらこちらに鉄鎖の橋を架けて回ったことで知られている。彼が架けたという鉄鎖の橋とはどんなものか一度見ておきたかった。
 出発して一時間後に現場に着いた。大きな鎖を張り渡した上に竹を編んだものが乗せてある。確かに古いものだが、彼の年代である15-6世紀までさかのぼるものとは思えなかった。しかしたとえばヤルンツァンポのチュシュル付近にも架けられていたという橋はなるほどこういうものだったのだろうと納得はいった。

Arunachal 2009.9 801

他のメンバーは大喜びで橋を渡ったが、私は自重した。高所恐怖症であることを思い出したからだ。

Arunachal 2009.9 922
*6世の母の実家の仏間。

M野さんとはチャクサムの近くのキトゥピ村で別れ、私はベカル村にタンペードンメという高僧が生まれたポウドゥン家を訪ねた。その後、そこの家の息子に案内されてダライ・ラマ6世の母親の実家を訪ねた。両家は300メートルも離れていない。人間の運命の不思議さを感じた。

Arunachal 2009.9 1008
*霧の中で暮らす少女たち

タワンに戻って昼食を取った後、尼寺に向かった。タワン周辺には尼寺が三つあるが、これはメイン・ゴンパの向かいの山の中腹に見えているものだ。自動車道路から冷たい雨の降る中、500mも山道を歩いてようやく寺にたどりつく。

写真の三人の少女は、5歳、10歳、15歳。こんな寂しい、年中霧に包まれているような寺での彼女たちの生活が思いやられた。

フィールドワークの記録

タワンへの旅(6)

2009年10月12日
9月17日 今日はヴィシュヴァカルマ・プージャーと呼ばれる祭りの日で、道行く自動車も美々しく飾り立てられている。役所によってから、一般にメイン・ゴンパにと呼ばれているガンデンナムギェルラツェ寺に向かう。3月に続いての訪問である。
Arunachal 2009.9 612
*メイン・ゴンパはタワンの谷のどこからでも見えるという最高の立地条件を備えている。季節がらか、天候の変化が激しく、照っていたかと思うと、すぐにガスに包まれてしまう。

集会堂を一通り見てから、町に戻り、ウーゲンリン、サンゲリンとジャムヤンチューコルリン・タツァンという新しいゴンパを見学した。町で昼食をとった後、メイン・ゴンパに戻る。3時から集会堂で法要が行われると聞いたからだ。
Arunachal 2009.9 708

Arunachal 2009.9 734
このゴンパの僧侶数は500人と聞いたが、集まっていたのは130人ほどである。

Arunachal 2009.9 714
年少の小坊主たちは読経もせずに、しゃべったり、よそ見をしたり、中には寝込んでいる者もいる。目に余る場合は、監督僧が拳固で背中を押したり、場合によっては頭にコツンと一発くらわしているが、たいていはほったらかしのままである。
このありさまには最初ちょっと驚いたが、
Arunachal 2009.9 767
とにかく毎日法要に出ることによって、自然にお経を覚え、リズムを身につけていくのだと思い至った。これはこれで一つの教育法であり、そのうちにたいていの者はちゃんとした僧侶に成長してゆくのであろう。法要のあいまには係の小坊主がお茶を注いで回り、年配の僧がギェーというお布施の割り前を一人一人に配る。確認すると、10ルピー札(約20円)である。法要に出れば、お茶や小遣いももらえるというわで、厳しいだけではないことに納得する。

Arunachal 2009.9 773
これが終わると夕食だ。係の小僧たちが厨房からご飯を受け取ってそれぞれの僧坊に運ぶ。

集会堂でM野さんに出会った。M野さんもグループの一人だが、先乗りして単独行動している。夕食は、私の部屋で二人で食べた。お祭りで食堂が閉まっているためだ。M野さんからの情報で、国境線で問題が起きていることを知った。彼が帰ってからテレビをつけると、たしかに大ニュースになっている。
アルナーチャルはインドが実効支配しているが、国際的には国界未確定の緊張地帯である。1962年には中国との間に大規模な国境紛争が起きている。

フィールドワークの記録

タワンへの旅(5)

2009年10月10日
キムナシュ・ゴンパは12世紀にカルマパ・ランチュンドルジェによって開かれたと伝えられている。タワン地区の古刹の一つと言える。3月に来たときに、ジャン対岸の斜面にゴンパが二つあることに気づいていたが、今回聞いてみると、そのうちの一つがキムナシュであった。Arunachal 2009.9 470
*正面の山のほぼ真ん中に縦に崩れているところがありますね。その右斜め上の白い点のようなものがキムナシュです。

しかし、そこまでは急斜面を登って1時間だという。私は普段運動らしいことはまったくしていない。ジャンは峠からだいぶ下ったとはいえ、標高は3000m近くあるだろう。そこでいきなりトレッキング往復2時間はかなりきつい。無理は禁物と思ったが、これを逃せば次の機会があるかどうか分からないと思い直して、行くことにした。

谷川にかかる橋のたもとから山に入るが、最初から梯子を登るのには驚いた。そのあとも文字通り胸突き八丁の急斜面を登る。途中、マルモンというモンパ族の村を通り、また急な登りとなる。
同行した若いカナックも音を上げはじめる。
「サー、私たちはかれこれ40分も登ってますが、ゴンパはまったく見えませんが」
「カナック、日本人はどんなにつらくとも決してつらいとは口にしないのだ。それはインド人も同じではないかな」
まったくのでまかせを言いながらひたすら登りつづける。Arunachal 2009.9 501
*キムナシュ側の斜面からジャンの村を見る。早くしないと日が暮れちまう・・・

きっかり1時間で、ゴンパに着いた。入り口にクンニェル(ゴンパ管理人)の家があるが誰もいない。本堂には鍵が掛かっている。仕方がないので、奉納された石版などを写真に撮って戻ることにした。実はこの石版が重要なのである。堂内は見られなかったが、かなりの満足感に浸りながら帰路についた。
Arunachal 2009.9 507
*キムナシュの本堂。
Arunachal 2009.9 524
*見たとおり、建物自体は新しい。中の仏像、仏画も推して知るべしである。シッキムからこっち、湿潤な気候のために古い建物は保たないのである。この点では、500年以上前の壁画が残るヒマラヤ西部とは事情が違っている。

下りの方が怪我をしやすいので、細心の注意を払う。タイフーンがくれた五本指の靴下が役だった。靴底を通して足の指が岩をグリップする感覚である。山道はこれに限る。

ジャンで時間をとったので、タワンに着いたのは6時40分だった。最初、グループが定宿にしているガウリチェンに行く。ところが部屋代が1泊1200ルピーだと言う。3月に来たときには、同じような部屋に800で泊まり、それでも高いと思ったくらいだから、はいさようで、とは言えない。もっとまけろ、というと、いきなり200引いて1000でどうだという。心が動いたが、あとあとのことも考えて、そんな高いなら結構だ、ということにした。次にカナックが案内したのは、タワンビューである。ここは1泊700。部屋はガウリチェンに比べてお粗末だが、ベッドとバスルームがあるだけでまずは十分である。今更動くのも面倒なので、ここに滞在することに決めた。

フィールドワークの記録

タワンへの旅(4)

2009年10月09日
Wさんの事務所での一連の打ち合わせ、自動車の手配、支払いなどを済ませた後、われわれはディランに移動した。
Arunachal 2009.9 446
*ディランの町。中心は向かって左側の岸の突き出た部分。

定宿のディラン・リゾートがグループで満員になったため、私は、K坂さん、I本さん、カウンターパートのTさんといっしょにディランを見下ろす新しいホテルに泊まった。10歳くらいの男の子が蝶ネクタイをしめてボーイをやっているのがおもしろい。部屋は1泊1000ルピーと高いが、ここは黙って泊るしかない。

河西回廊が涼しかったこともあって、インドに来てから暑さに悩まされ、水をがぶ飲みしては汗をかいていた。これからは寒くなるので風邪など引かないように注意しなければならない。たださえインドは国外から新型インフルエンザが持ち込まれることに神経をとがらせている。われわれもあらかじめ新型インフルエンザに罹っていないという病院発行の証明書を旅行代理店に提出させられたほどである。

翌朝9時、私はタワン目指して出発した。目的はタワンの代表的なゴンパをできるだけたくさん見ること。同行するのはガイドのカナックとドライバーのオージット(二人ともアッサム人)だけで、他のメンバーはディラン周辺に留まる。一人で車一台を自由に使えるのは贅沢だが、日本人一人というのは少し心細い。

峠道で前を行く車に追いついた。工事現場で停止した時に、車から大柄な西洋人が降りてこちらに来るので、私も降りて応対した。チベット学者のToni Huberだった。昨夜アンドーさんに会いに来た外人の研究者がいて、フューラー・ハイメンドルフの最後の弟子だと聞いたが、それが彼であった。奥さんで研究者のMonaも一緒である。彼らとはセ・ラ峠の茶店でもう一度会い、タワンで夕食を共にして情報交換する約束をしたが、結局は会えずじまいだった。

昼食は峠を下ったところにあるジャンの村のモンパ食の食堂でモモを5個ほど食べる。モンパ族の伝統食は、モモ(マントウか餃子に似たもの)やトゥクパなどチベット料理そのものだ。それからキムナシュ・ゴンパに向かう。Arunachal 2009.9 480
*ジャン大滝。



 



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