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河西回廊の旅(4)

2009年09月30日
 昨日の問題には、東北大の菊谷君が見事に答えてくれた。
 右がサキャ派の大ラマ、サキャパンディタ
 左が西涼王クテン(オゴデイ・ハーンの息子)

 1247年に二人が涼州(現・武威)で会見したことによって、チベットはモンゴルの無慈悲な攻撃を免れ、かえってモンゴル布教のきっかけをつかんだ。彼の甥、パクパはやがてフビライ・ハーンの信任を勝ち得て、チベットにサキャ時代をもたらす。しかしチベットの大ラマとモンゴルの王侯との親密な関係は、長い目で見ればチベットの独立を脅かす危険性をはらんでいた。とまあ、こういう訳で、これは歴史的な会盟であった。

だがそれにしても、今になってこの会盟がこれほど言挙げされるのは、これを「民族団結」の先例と見るかららしい。
白塔寺は信仰の場というよりは新しい観光スポットとして開発が進められているように見えた。

武威は田舎町だが、バザールに活気があり、食堂の飯もうまくて安い。ただビールを頼んでも、おちょこのようなグラスを出してくるのは困る。これでビール飲んでもうまかない。もっと大きいのを持ってきてくれというと、それがワイングラスになってしまう。


8月28日は武威に滞在し、雷台漢墓、羅什寺塔、大雲寺、武威市博物館、文廟、西夏碑を巡る。
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*羅什寺塔。大翻訳家として知られる鳩摩羅什(くまらじゅう)の舌(舌舎利)などが内蔵されているという。鳩摩羅什の遺体が火葬にふされたとき、その舌だけが焼け残って、生けるが如くだったと伝えられている。「舌先三寸」ならば私も負けないが、こういう結構な舌は持ち合わせていない。あやかりたいものである。なおこの塔は1927年の大地震で被害を受け、その後修復された。建築の専門家S沢先生の見立てでは、3層くらいまでは古く、それから上は新しいようで、地震で塔身が途中から折れたと見られるという。これは塼(せん)のサイズや小口の積み方から分かるそうで、さすが専門家と、「舌を巻きました」。おあとがよろしいようで。





フィールドワークの記録

河西回廊の旅(3)

2009年09月29日
8月27日 8時45分、ホテルを出発。市街地を抜けて西北に向かう。
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道はすこぶるよい。これが現代のシルクロードの姿だ。

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彼方に祁連(きれん)山脈の支脈、手前にはオアシス。今は小麦の刈り入れ時だ。延々と続くオアシスの大きさに驚く。これが近年の潅漑事業の成果かと言えば、そうではなさそうだ。同行のS須先生の話では、百年前にも同じようだったことが大谷探検隊の記録で分かるという。

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中国最初の石窟とされ、中国石窟開祖とも呼ばれる天梯山石窟の大仏と眷属。よく見ると、みんなゆるキャラだが、
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人と比べると、大魔神もびっくりのこの大きさだ。アーチ型の壁は、ダムの建設に伴って、この石窟が水没するのを防ぐために造られたもの。
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武威の白塔寺に近づくとこんなモニュメントが!
右はチベット仏教の高僧。左はモンゴルの王侯。これが誰か分かるかな?
最大のヒントはずばり「涼州会盟」の四文字。キクちゃん、見ていたら答えなさい。






フィールドワークの記録

河西回廊の旅(2)

2009年09月29日
私たちは、美術史、東洋史、建築保存、仏教とそれぞれ専門を異にする研究者のグループである。だから、お互いに、自分では到底思いつかないような角度からの話を聞けるのが、おもしろくて仕方がない。ついつい現場が長くなる。

この日も、炳霊寺を一巡りするのに4時間半を要した。炳霊寺の見学は1時間程度が普通というから、いかに長かったかが分かる。現地のガイドも、船着き場で待っていたボートの運転手も相当あまたにきていたようだが、こればかりは仕方がない。

帰路に見た黄土地帯の農村風景が印象に残った。

8月26日 午前中は甘粛省博物館を見学。その後、近くの銀行で円を元に両替しようとするが、行員が不慣れのせいか、一人終わるのに時間がかかりすぎるため、私は途中で諦めざるをえなかった。一昨日、北京空港内で両替できなかったのがそもそものケチの付き始めなのだが、いくら国内線で夕方5時を回っていたからといって、あの巨大空港で両替できないとは、いったいどういうことなのだろうか。

お昼は近くの小さなバザールの食堂で麵を食べ、午後は蘭州市博物館と白塔寺を回る。夕食はたまたま知り合った蘭州大学の日本語の先生といっしょに蘭州料理のディナー。物産店で蘭州名物の薔薇茶などを買って帰った。
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*甘粛省博物館の至宝、銅奔馬。武威の雷台漢墓から発掘された。おそらく世界で最も優美な馬の置物であろう。
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*蘭州は黄河の渡河地点に発達した町だ。鉄橋は孫中山の名を取った中山橋。黄河第一橋の異名を持つ。蘭州のシンボルの一つである。

フィールドワークの記録

河西回廊の旅(1)

2009年09月28日
土曜日、帰りがけに狭山のタイフーン邸に寄ったら、早速そのことがタイフーン氏のブログ「台風日記」(http://plaza.rakuten.co.jp/typhoondolpo/)に載った。氏独特の「凝った」文体であるが、言いたいことは、「あまり無理したらあかんで」ということらしい。

このブログ、ネパールヒマラヤ、特にムスタン、トルボ以西の山々に興味のある人には必見の情報が満載されている。

さて、河西回廊の旅である。

8月24日午後、関空を経った私たちは、北京首都空港経由で、同日夜、蘭州に着き、敦煌から来た旅行会社のガイドとドライバーの出迎えを受けた。
蘭州は甘粛省の省都である。

蘭州は、15年前、敦煌からの帰りに藤田先生と立ち寄って以来二度目である。あのときは、銀川からの飛行機が悪天候のために遅れに遅れ、蘭州に着いたのは真夜中。空港には、待っているはずの旅行会社の社員がおらず(飛行機があまり遅いので帰ってしまった)、タクシーでホテルまで行くというさんざんなものだった。その時、空港から町までがやたらに遠かったのを覚えている。それもそのはずで、今回のガイドであるDさんによれば、蘭州は中国で二番目に空港が町から離れているのだそうだ。その距離、75キロメートル。ちなみに一番は拉薩で100キロメートルである。

翌25日、私たちは、客が5人にしては大きすぎるバスで炳霊(へいれい)寺に向かった。蘭州は、古名を金城といい、黄河の渡河地点に発達した大都会である。かつてはスモッグがひどく、アメリカの偵察衛星も蘭州だけは覗けなかったという笑い話がある。中国の地理的中心に位置し、かつて孫文は蘭州に首都を移す構想を持っていたという。

天気はあいにくの雨である。ところが雨が少なく日射がきついこの地方の住民にとっては、曇りや雨はとってもいい天気なのだそうだ。
バスは黄河河畔の道路を行く。沿道はこの市の木である槐(えんじゅ)の並木である。

町から75キロメートル走って劉家峡ダムに着く。ここからモーターボートでおよそ一時間で炳霊寺の船着き場だ。
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*船の中で救命胴衣を着けてトウモロコシをかじる面々。結局、この日の昼食はこれ一本だった。

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炳霊寺は中国有数の大石窟寺院だ。中央の大仏は高さ27.5メートル。唐代に造られたもので、現在修復中。その上の169窟(向かって左)と172窟(右)は炳霊寺を代表する石窟で、急な桟道を上って行く。

フィールドワークの記録

今度こそ帰国

2009年09月25日
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昨夜帰国した。インド土産はチャナチュールという一種のスナック菓子である。カレー味で、ビールのつまみに好適だ。
試しに神田君に食べさせてみると、「辛いけどくせになりそー、Oh! Crispy!!」などと叫んでいた。彼は最近英語づいている。

本隊がディランにいる間に一人でタワンまでゴンパ(チベット仏教の寺院・僧院)を見に行った。
ディランとタワンの間は地滑りと崖崩れの巣のような場所である。

「期日までに戻らなくても、われわれは予定通り帰国するので、自力で脱出してもらいたい」
「いざとなったらゴンパに泊まれ」などという「ありがたい」アドバイスを受けての出発であった。

結果的には無事に帰れたが、タワンの宿では雨音を聞きながら独り気をもんだ。そんなことを含めて旅行報告したいが、すでに授業が始まっており、今日は一時間目から講義。さらに明日までの仕事が一つ。疲れを取る暇もない。来週辺りからぼちぼち始めたい。





ある大学教員の日常茶飯

炳霊寺

2009年09月09日
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炳霊寺を囲む奇岩の群。8月25日に訪れた。蘭州から数十キロ、途中からダム湖をモータボートに乗って行く。

と、ここまで書いて、もう時間切れであることに気づく。それではまた。


研究ノート

一時帰国

2009年09月09日
2009.8-9河西回廊 973
 裕固(ユグル)族の娘たち(粛南裕固族自治県にて) 9世紀に遊牧ウィグル帝国が崩壊した後、河西回廊に移住して栄えた甘州ウィグルの末裔らしい。チベット仏教を信奉している。

 一昨日、中国・河西回廊の旅から戻った。ウルムチの暴動を知ったのは一昨日北京で。最初の計画では、青海から新疆に入るつもりだったので、もしその道を選んでいたら、すぐには帰国できなくなっていたかもしれない。危ないところであった。

 旅は実に快適だった。報告したいことは山ほどあるが、金曜日にはインド・アルナーチャル・プラデーシュ州に出かけなければならないので、今はほんの一時帰国である。今日中にあと一回アップして、またしばらくお休みです。






研究ノート
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